環(03)まだ、死にたくないもん。

「うちも、そうかも。アナアキになる前となった後では、同じ家に住んで同じ景色を見ているのに、感じ方が全然違うんだもん。こころの在りようでこれだけ変わるってさ、何だかちょっとこわいね」


 環は気難しげに何度も頷いてから、再びカップに口づけを交わす。


「でも、このお茶を飲んでるときは不思議と気持ちが安らぐんだよねえ」


 琥珀色のきれいな液体が彼女の唇を潤してゆくのを、わたしは物憂げに眺めた。


「ん、おいし。ね、これってすっごい発見だよねえ? 、だなんてとんでもない効能があるわけだし」

「抑えることが出来るかもしれない、だからね。かも、だから。確定したわけじゃないし、学会とかで発表したわけでもないんだからね」

「それは分かってるよ。けどさ、効果があることは間違いないじゃん」

「うーん、だけど妄信は危険だよ。効果があるかもしれない、だからね、あくまでも。そこんとこ、勘違いしちゃだめだと思うの」


 わたしたちが栽培している花から抽出されるお茶は、特殊な効果が期待されるものだった。わたしや環のアナの拡大率が、通常よりも明らかにゆっくりであることからの類推だ。

 正式には認められてはいないけれど、アナアキの症状の進行を止める役割を果たしているのではないか、というのが父や一部の医師たちの見解だった。花の名前はまだない。


「〈マドカムラサキ〉、とでも名づけようか? はは」


 父はふざけてそう言っていたけれど、正式に届け出はしていなかったはずだ。彼は幾つかの新種の植物を発見したり、交配させたりした功績があるらしいけれど、そのうちのひとつがこの花だった。パンジーに少しだけ似た丸っこい紫紺の花弁は、何処か愛嬌があって押し花にするととても可愛らしい。


「いやいや、世紀の大発見が世の中に知れ渡るのも時間の問題だよ、まどまど。そしたらあんた、スターだ。スターチャイルドになるんだよ」


 環は嬉しそうに指で星のかたちを描いた。


「別にわたしが何かをしたわけじゃないし。まあ、誇らしいことではあるけどさ。それに、お父さんが帰って来なきゃ発表も出来ないよ」

「研究資料っていうの? そういうの、家にあるんでしょ。それをまどまどが分析して、まどまどの研究にしちゃえばいいんだよ」


 環が、楽しそうに手を合わせた。わたしは首を振って、


「わたしはひとの研究成果を横取りなんかしたりしません」

「でもでも、これで人類が救われるんだよお?」


 環は、ぷうっと頬を膨らませた。ふんわりとした髪型と相まって、何だかとても愛らしい。けれど、そんなことで篭絡されるわたしじゃあなかった。


「だからそれは、かもしれないってだけじゃん」

「医者も匙を投げまくる奇病だよ? かもしれないってだけでも、飛躍的な進歩だと思うけどな、うちは」

「進歩は進歩だと思うけどね。ていうか、横取りするも何も、資料はあるけど読んでもわけ分からないんだから、実際。まったくもって惑っちゃうわ」


 父の研究ノートは確かに家にあるし、わたしも読んだことはある。けれど、何種類かの植物のことを同じページに書いていたり、日本語じゃあない言葉で書かれているページも多くて、簡単に読み解くことは出来なかったんだ。


「せ、先生にそ、相談したらい、いいので、す」


 奏がぼそりと呟いた。


「おー、かなかな、ナイスアイディアだねえ。円のかかりつけの先生は……、えっと、誰だったっけ。あれ、忘れちゃった」

「高麗剣先生。あの若白髪の」

「あー、そだそだ。アルビノ先生かあ」


 高麗剣猛先生は、わたしの主治医だ。三十代にして髪の毛が真っ白のお医者さん。目が少しだけ赤みがかっていて色素が全体的に薄い、いわゆるアルビニズムのひとだ。イケメンだけれど、『ボクには特別な色が視えるんだよ』とかって嘯くことも多くて、何だかちょっと胡散臭かった。

 わたしたちアナアキのスケジュールは、基本的には自分たちで管理出来るのだけれど、最低でも週に一度は主治医の診療と面談が義務づけられている。そのときに報告ノートを渡したり、学生でもあるわたしたちは、教材の受け渡しをしたりもするんだ。


「あの先生は、あんまり信頼出来ないよ。もちろん花のことは知っているし、共同研究者には名前を連ねてたはずだけどさあ。それよりもうちらだけで、このお茶の謎を解き明かすんだよ。もしかするとそれが、お父さんの遺志なのかもしれないじゃん」

「やめて」


 わたしは手をぱっと開いて、彼女の話を遮った。お父さんの遺志とか、冗談じゃあない。


「お父さんを探し出して、お父さんに研究を発表してもらうの。アナアキは社会的に信頼されてない。それは分かってるでしょ?」

「アナアキの家族だって、似たようなものだよ。……ほら、うちのお父さんも出てっちゃったしさあ、お母さんだってパートを首になったじゃん」


 環が言うと説得力がある。彼女は猫のクッションをまたもうひとつ放り投げた。


「だとしても、わたしはお父さんを探したい。何としてでも見つけて、いなくなった理由を知りたいんだ。そして、このお茶の研究を続けて欲しいの」

「でもでも、お父さんが何処かに行っちゃってからもう数ヶ月だよ? 分かる範囲でお茶の研究を進めるのも、悪くない手だと思うけどなあ」


 この点においては、わたしと環の議論は平行線だった。研究を独自に進めながら捜索をすれば良いという考え方の環と、父の行方を明確にしてから研究を続けてもらいたいという考え方のわたし。

 効率だけで言うと、すぐにでも研究を紐解いた方が良いのかもしれないけれど、わたしにとってはアナアキ全体のこととかはどうでも良くて、あくまでも父のことが最優先事項だったんだ。


「そかそか。まあ、まどまどがそう言うのなら仕方ないけどさあ」


 環は三度クッションを放り投げる。突き放したような口調が気になったけれど、わたしは黙殺した。彼女にとっては、アナアキの進行を抑えて治療方法を探る方が大事なのかもしれないな。だとすれば、わたしとは進むべき方向は違うかもしれない。


「でも、考えておいてよ、まどまど。だってうちさあ、」


 そのときの環の表情を、わたしはどうしてか思い出せない。


「――まだ、死にたくないもん」


 わたしは答えを返すことなく、その日はそのままお別れとなった。

 わたしたちはお互いにどこかちょっとした照れと気後れと気持ちのズレを感じながら、笑顔を貼りつかせて手を振り合って、別れた。それぞれが三叉路をゆくみたいにして。まさかその次の日から環が忽然といなくなるなんて、そのときは想像していなかった。


 まったくもって、想像だにしていなかったんだ。

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