環(02)やっぱりこれって、おかしいよ。

 海底環は、この団地で出逢って仲良くなった数少ない親友のひとりだ。


 団地内で同年代の子は少ないからすぐに意気投合をしたのだけれど、そもそも彼女は櫻町第六団地に昔から住んでいた古参住民の一員で、出逢った当初は非アナアキだった。けれど、しばらくしてから突然アナアキを発症してしまって、わたしたちと同じような立場に置かれることになってしまったんだ。

 彼女はわたしや多くのアナアキたちとは違って、スマートフォンやインターネットなどの依存症ではなかった。この団地に住んでいる限り、インターネット回線などが基本的に通じないので、依存症になるわけがないのだから。

 もちろん、非アナアキのひとたちや、アナアキ家族の中でも非アナアキのひとは普通に団地外へ外出が出来るし、スマホを所持すること自体を禁止されたりもしていない。だから自宅外でスマホを使おうと思えば使えるけれど、依存症になるほどのめり込める状況にはならないはずだった。


 つまりここで、アナアキ発症の前提条件が変わってしまうことになる。


 外での報道では、アナアキはスマートフォンやパソコンへの依存が生み出した現代病みたいな扱いをされている。確かに、間違ってはいないとは思う。けれどそれだけではなくって、どうにも違う側面があるのではないか、というのがわたしたちの見解だった。


 わたしたち、というのはわたしの父やかかりつけ医などを含めたアナアキ団地内の人びとのことで、彼らはそれをカテゴライズと呼んでいた。

 現時点で治しようのない不気味な病気の原因までもが更に混迷を極めた場合、ひとは一層疑心暗鬼になって何にも信じることが出来なくなってしまう。そのために、スマホやネットには悪の役割を担ってもらい、アナアキ発症者はスマホ依存症やネット中毒者だった、という恣意的な情報を流すことによって、アナアキを情報に溺れ過ぎてしまったものたちの末路としてカテゴライズしようとしていた、というわけ。

 ネットワーク関連の会社と政府与野党がそれでかなり揉めたらしいけれど、ここ二年はテレビの情報しか得ることが出来なくなってしまっているのでそれ以上のことは分からない。


 わたしと環は当初、アナアキになった原因を独自に探る活動をしていた。知り合いを辿ったり、共通点をピックアップしたりと、忙しくも充実した毎日だった。

 その過程で、団地内に住んでいることが判明した奏が加わって、わたしたちは結構似合いのスリーマンセルって感じだったんだ。けれど半年前にわたしの父が失踪してから、活動の内容は父を探すことへとシフトしていった。


「でも、花壇とか菜園を作ったのは覚えているんだけどさ、お父さんのことは、うちもはっきりと思い出せないんだよねえ。何か、記憶がもやもやしているっていうか……」


 環は、猫の顔がプリントされた大きなクッションを抱き締めて、周りに無造作に置いてある猫のぬいぐるみたちへと背中を預けた。ずるずるとそのままぬいぐるみの群れの中に沈み込んで、「わぷっ」と言いながらベッドに背中から倒れ込む。


「あはっ、見て、奏。何だかシチューに沈み込む野菜みたい」

「……ちょっと、意味が分からないのです」


 奏はわたしたちの斜め後ろで背を壁に預けて、スケッチブックに何やら鉛筆を走らせていた。ピンク・ロリィタ姿の彼女はこの部屋にいるとぬいぐるみの一員のようにも見える。


「奏、何描いてんの?」


 わたしは彼女のスケッチブックを見ようと首を伸ばした。すると、


「……だめです。秘密なのです」


 奏はそう言ってスケッチブックを閉じると、うさぎのぬいぐるみのようなかたちをしたバッグにそれを押し込んだ。わたしは、口を尖らせる。


「ちぇー、けち」

「ねえ、かなかなは覚えてる?」


 環が、ぬいぐるみの中から声を上げた。


「まどまどのお父さんのこと」

「……えっとえっと、」


 奏は少し喉につっかえそうになりながらも、


「お、覚えていな、いないのです」


 と答えを絞り出す。


「そっかあ。ほらまどまど、やっぱりこれって、おかしいよ」


 部屋には甘ったるいお茶の香りが立ち込めていた。これは、わたしたちが家庭菜園で栽培している花や葉から作ったお茶っ葉で淹れたもの。環はそれがお気に入りだった。


「――よいしょ、と」


 環はスプリングを弾ませて起き上がると、サイドテーブルの上に置いたティーカップを手に取って、上品に口づけを交わす。それから、ふんわりと柔らかく微笑んだ。


「うん、おいし。このお茶だって、お父さんの研究の成果なわけでしょ? そんな立派なことをして来たひとを、簡単に忘れちゃうものなのかなあ?」

「どうだろ。おかしいとは思ってるんだよ、わたしも」

「そうだよね、おかしいよねえ。ここ一、二年のことだと思うんだよね、何だか急に物覚えが悪くなったのって。これってやっぱり、アナアキになったせいなのかなあ」


 彼女は思案顔でティーカップを置くと、クッキーを口に放り込む。それから、周りを取り囲んでいる猫のクッションをひとつ放り投げた。


「何だかぼんやりしちゃうことも多いし、ここに来てからは惑っちゃうことばっかだよ」


 天井を見上げる。丸い光が、煌々と部屋を照らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る