円(10)数年前、櫻町に再開発の波が押し寄せた。

 この団地には現在、約三千世帯のアナアキ家族が居住している。

 そのほとんどすべてが、元々こちらの町とは縁遠いところからの引っ越し組だ。あとは、元々居住していた五百世帯ほどの人びとが残っているほかに、四百世帯ほどの研究者や医師、看護師らも居住している。また、単身者用の第十三団地は大学が近いこともあって、こちらは学生用アパートとして機能していた。

 入居には厳しめの審査があると聞くけれど、無事にそれを通過した社会学部や心理学部の学生ら百人近くが間借りをしていて、アナアキ調査のフィールドワークなども行っているらしい。


 つまり、現在はおおよそ四千戸が埋まっている状況で、建て替え工事をしている第四団地以外の入居率は七割強といった感じ。けれど、アナアキが増加しているらしい今、入居率が十割を超えるのは時間の問題ではないだろうか。

 階段を降りて、自転車のロックを解除する。青い空と、秋の装いを始めた木々のコントラストが素敵な朝だった。


「やー、段々と色づいて来たねえ」

「なのです。絵を描きたくなりますね」

「奏は芸術肌だからね。羨ましいな、わたしにはそういうの、ないもん」

「円も、私にないものをたくさん持っているのです」

「そうだといいけどなあ」


 ペダルにちからを込める。赤々と彩られ始めた木々を眺めながら、奏を乗せてわたしは颯爽と走り出した。第六団地は、道路を挟んだすぐのところに位置している。左右には計画的に植樹された桜の木が立ち並んでいた。


 昭和を象徴するかのような一大団地群と桜並木。一面の桜は、秋にはその彩りをがらりと様変わりさせる。春も秋も見ごたえ抜群で、写真撮影に訪れるひとが後を絶たなかった。わたしは隣町の彩都に住んでいたので馴染みがあったけれど、まったく知らないひとたちが見るとこの町の風景は圧巻だろう。最近では、昔ながらの階段室型団地がなくなりつつあることもあって、文化的景観としての付加価値がますます高くなって来ていた。

 とはいえそれらも、向こう十年以内の話だろう。


 数年前、櫻町に再開発の波が押し寄せた。アナアキの研究及び療養施設の建設のため、K市が国家戦略特区に認定されたからだ。


 主要都市である彩都の道路は大幅に広くなって美しく舗装され、ターミナル駅の周りには整然と常緑樹が立ち並んだ。大型の研究施設と総合病院が出来て、まちの一角は様変わりした。けれど、最も変わったのは彩都ではなくこの櫻町だった。

 桜の木をはじめとした自然が多く、災害も少なく落ち着いた気候の櫻町は、兼ねてより市の療養所としての役割を担っていた。そのため、この町にアナアキたちの大規模な療養施設及び各種研究施設が入ることが決まったのだ。

 当時の管理組合は大荒れだったらしい。今でもこの団地内で幅を効かせている不如帰のお婆ちゃんは、その筆頭だったという。


「まあ、わての功績もあってこの団地は何とか面目を保っとるわけやの」


 とは、彼女の弁だ。第七団地に行くと、彼女につかまることが多い。お喋りだから役立つときもあるのだけれど、正直なかなか厄介なひとだ。

 ともかくそのような紆余曲折はあったものの、おおむね無事に櫻町団地は買収されて、国直轄の自治体へと生まれ変わった。


「書面上は国の管轄になっとるけれど、管理組合は旧役員が牛耳っとるさかい、会合はわてらが主導で執り行っとるんよ」


 とか彼女が以前にまくし立てていた。うるさ型だけが残ってしまったというわけだ。まったくもって大変なことに。かくして櫻町団地は療養の町へと生まれ変わることとなる。

 既に町の一部は完全に新しく生まれ変わっていた。第二、第三団地郡は根こそぎ取り壊されて、新しく大きなマンション型の団地として再誕している。そこはアナアキ第一世代らの住居となっていて、完全にアナアキ世帯しか居住していない。

 わたしが住んでいる第五団地やそのほかの団地などはまだ、旧くからの世帯とアナアキ世帯がごちゃ混ぜになっている。ここが正直、かなりややこしい。日々トラブルの連続ってわけ。

 ただ、老後の豊かでのんびりとした暮らしを奪われたという彼らの主張も、分からなくはない。お互い被害者意識が強く頭にあるからか、落としどころが難しかった。


「さて、着いた、着いた」


 そんなややこしい団地の中心部のひとつ、櫻町第六団地は、相変わらず静まり返っていた。アナアキたちが入居してからというもの、団地内に響いていた子どもたちの声はほとんどなくなったという。子育て世代の多くは、多くの給付金を得てこの不気味で奇妙な住宅からさっさと逃げ出したんだ。


「誰か、歩いて来るのです」


 奏が曲がり角の先を見ながら、さり気なく言った。まだそこにひとは見えないけれど、彼女は他人の気配にとても敏感だ。空間把握能力も高くって、芸術系の高校に進学をしただけのことはある。

 わたしたちは自転車から降りて、気配の方へ注意を向ける。すると建物の影から、ノートを握り締めた男性がふらりと姿を現した。


「……おっ、やあやあ」


 彼はすぐにこちらに気づくと、ひと好きのする笑顔を浮かべながら、筒状になったノートで肩口を叩いた。

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