円(08)アナアキになった人間は、こころにアナが空いている。
「円、お風呂上がったのです。どうぞなのです」
いつの間にかぼうっとしてしまっていたらしい。目の前には、ピンクのふりふりしたパジャマを着た奏が立っていた。
「ああ、うん。ありがと」
頭が重い。以前の生活でもスマホの使い過ぎや睡眠不足で頭が痛くなることが多かった。今の生活では強制的にデジタルデトックス状態なので、テレビ以外にはデジタル機器はほとんど触らないし、食事もきちんと摂っている。おかげで生活習慣はかなり改善されたけれど、やっぱり頭痛は簡単に治るものじゃあなかった。
奏はわたしの横に座ると、ドライヤーのコードを指に引っかけながら物憂げにため息を吐いた。疲れている様子だから、お母さんの失踪については改めて聞くことにしよう。
「か、な、で」
「……はい、です」
胡乱な瞳に、わたしが映っている。眼球の丸みで歪んだわたし。アナアキのせいで歪んでしまったわたしが、そこに映っているんだ。
「何死んだ魚みたいな目、してんのよ。うりゃっ」
わたしは彼女の顔を両手でぎゅうっと挟み込んだ。
「んふふ、やめれくらはいれす」
「へへ。やーめない」
それから、そのまま頬をぐりぐりとマッサージ。
「んふふふふふふ」
「えへへへへへへ」
奏は少し恥ずかしげに、けれどちょっと嬉しそうな感じで目を細めてから、わたしの手の甲を自分の両手でそうっと包み込んだ。お風呂に入っていたせいか、頬も手のひらもあたたかい。そのあたたかさをひとしきり堪能してから、わたしはゆっくりと手を離した。ぷるんと柔らかな奏の頬が、空気に触れる。よし、大丈夫。奏もわたしも、大丈夫だ。
「じゃあ、お風呂、入って来るね」
「はい、ごゆっくりなのです」
お風呂に入るのは、好きじゃあなかった。重い腰を上げて、ソファーから立ち上がる。元々は、単純に面倒臭かった。スマホを触る時間が少なくなることが厭で、防水ケースに入れてお風呂に入ることもしばしばだった。
今は、違う理由で気が進まない。
わたしはセーラー服を脱いで、洗濯機に突っ込んだ。それから下着を取ると、否が応でも見たくないものが目に入る。わたしの心臓に近い部分、胸の谷間の下、みぞおちあたりに黒々とした四角形が貼りついている。
これが、〈アナ〉だ。
アナアキになった人間は、こころにアナが空いている。
とは言ってもこのアナは実際に身体に穴が空いているわけではなく、決して取れない汚れのようなものに近い。その上アナは肌の表面だけに貼りついているのではなくて、レントゲン撮影をするとアナのある箇所は真っ黒になって写らない。つまり、内臓もそのアナの影響を受けているということらしい。身体の表面から見えるがん細胞だというひともいるし、ライフポイントが可視化されたのだというひともいた。
「ああ、惑っちゃう、惑っちゃう」
浴室に入るなり、熱めのシャワーを出して湯気を浴室中に溜め込む。どうしても、アナを見ると不安定になってしまう。気持ちがアナの中にすっぽりと入り込んでしまうんだ。
わたしの身体に貼りついた、スマホをふた回り小さくしたくらいの四角くて不気味なアナ。けれど、アナそのものには痛みもないし、触ると肌と地続きみたいになっていて、別にざらざらしたりつるつるしたりしているわけでもない。
身体に不思議で不気味なものがただ貼りついているだけで、身体的な異常は感じない上に、健康診断を受けても特別おかしい数値が出て来るわけじゃあない。
だったら、例えば通常の精神病棟などで治療や研究をすればいい。発病は気の毒だけれど、時間はたっぷりあるのだから。最初はそう思われていた。
けれど、アナアキの本当に恐ろしいところは、ここからだったんだ。
湯船に浸かると、身体の中心部に空いたアナに温かいお湯が入り込んで来るような感覚になる。実際に穴は開いていないのだから気にしなくてもいいはずなのだけれど、その感覚が気持ち悪くて、最初はシャワーで済ませることが多かった。
「ふう……」
お風呂でリラックスが出来るようになったのは、つい最近のことだ。気持ちが悪くとも、湯船に浸かる行為そのものは嫌いではなくなって来ている。
お湯の中で、真っ黒な四角が揺らめいている。大きさはスマホをふた回り小さくしたくらいと言ったけれど、実はこの四角形は発症当初よりも大きくなっていた。
アナは、拡大する。
わたしのアナも、当初は縦三~四センチで横は二センチくらいだった。それが今や、縦が七センチ近くにもなっている。拡大するスピードには個人差があるらしく、わたしのそれは他に類を見ないほど遅い、と医師が言っていた。
アナが大きくなるにつれて、心身の喪失感は激しさを増す。そしてアナが二十センチ程度にまで大きくなったとき、ひとはその喪失感に耐えられずに、生命維持活動が一切行えなくなってしまうという。
そうやってアナアキは静かに死を迎えるんだ。つまりは、死に至る病。可視化されたアナがライフポイントなどと揶揄されている理由は、ここにあるのだろう。
もちろん、こころの病による自死や、がんや脳卒中、あるいは事故などで亡くなってしまうひとに比べれば、アナアキでの死者数はまだまだ少ない。
とはいえ、いまだに原因がはっきりとは特定出来ず、その進行具合が目に見えて分かり、更には死を回避する手段が今のところ見当たらない新種の病。明確に喉元に突きつけられている死神の鎌への恐怖は、ひとを容易に動かした。
そのようなわけで、このアナアキは通常の精神障害ではなく、現在のところ解明することが不可能な完全に新しい病気として認定され、諸々の法整備も同時多発的に行われたというわけなんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます