円
円(01)半年程前から、父は忽然と消えてしまったのだった。
「ね、奏、本当にいらないの~?」
ガスコンロに点った火の熱さと、少し多めに引いた油の香り。安っぽい換気扇の音に励まされながらフライパンの上で踊る野菜。身体に馴染んだそれらの感覚が、一日の疲れを少しずつ受け止めてくれる。わたしは、この時間が好きだった。
「はい、いらないのです」
奏は慣れた手つきで冷蔵庫を開けると、その中からゼリー飲料を取り出して、
「これで、充分なのです」
と、嘯きながらキャップを回した。
「あんた、そんだけだと死ぬよ?」
母親がいなくなったということを改めて告白したために、ショックを受けているのだろうか。それにしては、表情に変化が乏しい。これもこころにアナが空いて、感情の一部が欠落しているせいなのかもしれない。
「大丈夫なのです、栄養たっぷりなのです」
そう自信満々に言い放つ奏は、やっぱり変わりものだ。彼女はここ数日うちで寝泊まりをしているのだけれど、その間に新品のゼリー飲料やペットボトル飲料以外を口にするのを見たことがない。
記憶にはなかったけれど、潔癖症だったのだろうか。それにしてはひとの家に泊まり込んでいるし、手袋をつけているわけでもないし、何だか不思議な娘だ。
「あり得ないし」
ぼやきながら、卵を巻く。中には刻んだ玉ねぎやら人参やら、安売りのミンチやらが詰まっていた。
「奏って、卵アレルギーだったっけ?」
「いいえ、アレルギーではありません。ただ最近は、あまり食欲がないのです」
フライパンを傾けて、ほかほかのオムレツをお皿に盛りつける。ケチャップで無駄にハートを描きながら、わたしは微笑んだ。無駄は人生を豊かにしてくれる。マグカップにスープを入れながら、一応尋ねる。
「スープもいらないわけ?」
「はい、結構なのです」
「もうちょっと食べなよ、奏。最近、ちょっとおかしいよ?」
「ええ、自覚はあるのです」
テレビのリモコンを振りながら、彼女は答えた。
「とはいえ、本当に大丈夫なのです」
ダイニングと隣合わせのリビングには、テレビとソファーと、機能性の低そうなローテーブルが置いてある。あとはマガジンラックや観葉植物がちょこちょこと、きれいに並べられたドライフラワー。基本的に、すべてわたしが見繕ったり作ったりしたものだ。ソファーに深く腰をかけて、奏はぐいっと伸びをした。
「そうかなあ? ま、自分のことは自分自身が一番よく分かっているとは思うけれど、気をつけてよね」
「はい、ありがとうなのです」
天使のように愛くるしい笑みを浮かべて、奏は頷いた。それからテレビのリモコンを押して、ザッピングを開始する。わたしはその様子を見るともなく見ながら食卓についた。
「いただきまーす」
4人掛けの食卓には、わたしひとりが座っている。ひとりきりのご飯には慣れていた。母を幼い頃に亡くし、父も仕事で出ずっぱりだったから。
そんなわけなので、このおうちはほとんどわたしだけの城だ。植物やウッド調のデザイナーズ家具で揃えた、ナチュラルインテリア。このスタイルが好きなのは、植物学者である父の影響もあったかもしれない。
ああ、でも半年程前から、父は忽然と消えてしまったのだった。聞くところによると、勤めていた大学の職員名簿からも除籍されているとか。まったくもって惑っちゃう話だ。
ただわたし自身も、父がそばにいなかったことが当たり前過ぎたせいか、半年以上経った今でも何だかこころの整理がついていない。
「あ、めっちゃおいし。さすがわたし」
すっかり癖になってしまった独り言が、口からこぼれた。
実は父に関しては死亡届も出していないし、警察にも届けていない。それには原因があって、奇妙なことに誰も父のことを覚えていない様子だったから。職場の同僚だったひとも、父を古くから知っている友人も、わたしの知り合いも、誰も彼も。だから、安易には動けない。
当初は地道に聞き込みをしていたのだけれど、団地内での聞き込みはそれほど有用ではなかった。アナアキは社会的に信頼されていないから、団地の外では相手にすらされないだろうし、外出許可を得るには煩わしい手続きや同伴者が必要だったりもする。
変に動き過ぎるとこちらが気が触れてしまったと思われてしまうかもしれないし、かなりの配慮を要する作業だった。ただでさえも世間一般からアナアキへの風当たりは強い。
そうして何だか行き詰ってしまって数ヶ月。そうしたら今度は、団地内でも指折りの友だちで、父の探索にも協力的だった環が、一向に姿を現さなくなってしまった。
そこで奏と一緒に彼女の行方を調べてみること数週間。どうやら環をはじめとして、団地中で幾人もが失踪しているらしいことが分かった。
わたしと奏以外、失踪したひとたちを覚えているものはいないらしい。いや、奏でさえも、自分の母親の失踪をはっきりと認識出来ていないという。まったくもって、意味が分からないことだらけだ。
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