序(02)世界がその形を変えるまで、もう幾許の猶予も残されていない。

「……え? 既に、失踪している? ようなのですって、どういうこと?」

「実は、最近記憶が曖昧なときがありまして……、母親がどうして失踪してしまったのか、いつからいないのか、ちっとも思い出せないのです」

「思い――、出せない?」


 団地の隙間をするりと抜けた風が、わたしの足をそうっと撫でた。奏は小さく頷いて、大きな瞳を震わせながら、渇いた唇をゆっくりと動かした。


「まどか、円。夕月夜ゆふづくよまどか。あなたは、私のことを覚えていますよね? 私は、あなたの親友ということでいいのですよね?」


 不安げな声とは裏腹に、彼女の表情は人形みたいに固まっている。その様子は、感情を何処かに置き忘れてしまったかのようだった。


「……うん、いいんだよ」


 記憶が混濁しているのだろうか。これもアナが原因なのかもしれない。わたしは携帯していた水筒を素早く開けて、コップにお茶を注いだ。ふんわりと温かな湯気が立ち上ると共に、周囲にお茶の香りが立ち込める。


「落ち着いて、奏。ほら、お茶でも飲んでさ」


 茶葉と花弁に彩られた芳香が心地よい。けれど、


「あ……、いえ」


 彼女は頭を横に振って、こちらを見据えた。足取りは少しだけおぼつかないものの、視線に迷いや戸惑いの色は見られない。


「もう大丈夫なのです。母親のことを打ち明けたせいか、記憶が少し混乱しているのですが……。ちょっと、あとで整理させて下さい」

「そっか。うん、いいよ」


 答えて、コップに入ったお茶を飲み干す。それから、横に置いてあった自転車のところまで歩いていって、サドルに手を置いた。

 自転車の横には小さな共用の家庭菜園が広がっていて、これはマンモス団地のそこかしこに点在している。わたしたちはその菜園の一画に、管理組合から許可を得て花を育てていた。こうして食物や植物を育てることは、こころのアナへの処方箋だと考えられている。

 自転車のかごにはマザーバッグが入っていて、先程摘み取ったばかりの花や葉が詰まっていた。これらをドライフラワーにしたり、洗って干してお茶の原料にするんだ。


「さ、行こ」

「了解なのです」


 わたしたちは軽く頷き合って、自転車に跨った。奏はバルーンスカートなので、サドルの後ろに横向きに腰をかける。腰にそうっと手が回ると、わたしはペダルを漕ぎ始めた。

 周辺を回って、そこかしこにある家庭菜園で育てている花をチェックしていく。


「うんうん、ここはいい感じ。少し摘んでいこう」

「お、ここも育って来てるねえ」

「あちゃあ、ここはだめかもね。日照条件が悪いのかなあ」


 マンモス団地は広大なので、移動するには自転車が必須になる。奏は幼い頃に自転車で盛大に転んでしまったことがトラウマになって、自分で運転が出来なくなってしまった。とはいえ、後ろに座るのは大丈夫らしい。

 夕焼けを見送ってからしばし。わたしたちは団地の一角をすべて点検し終えると、ようやく安堵の吐息を吐いた。


「今日のノルマ、おしまい。それじゃ、おうちに帰ろう」


 空は、いつしか昏く沈み込んでいた。月が給水塔の上に姿を現して、わたしたちを柔らかく包み込んでいる。昔ながらの階段室型団地が行儀よく並んで、一様に月光の祝福を受けていた。


「よいしょ、っと。さ、行こ?」


 先程からほとんど無口になってしまった奏に軽く微笑みながら、駐輪場へ自転車をとめる。そして、第五団地にある自分の家へと足を向けた。

 奏はわたしの後ろを平坦な面持ちでついて来る。その心情を察して、わたしは振り向きざまに「行くぜ~っ」とおどけたように彼女に笑いかけた。


「落ち着いてから、お母さんのことも教えてね。失踪事件はますます謎を深めて来てるし、休まる暇もありゃしないわ。〈アナアキ〉になっただけでも辛いことなのに、わたしたち、何のためにこんなことしてるんだろうね?」


 奏は、乾いた笑みを浮かべた。しばしの逡巡ののちに、ぼそりと呟く。


「――――、ですかね?」


 世界では、アナアキとなったひとが次々と現れて、大きな社会問題へと発展し始めている。わたしたちは、医療行為と社会福祉を目的としてリノベーションされた団地に住んでいるアナアキのひとりだ。

 今やこの場所だけでは、アナアキのすべてを受け入れることは難しくなりつつある状況だという噂も聞く。世界に空いたアナはますます広がっていて、留まることを知らないようだ。

 更には、アナアキを受け入れたはずの団地で、不可解な集団失踪事件が起こり始めている。というか、事態は既にかなり進行している。


「世界のため、か。だとすればわたしたちは、世界に見捨てられた存在みたい」

「これはきっと、呪いなのです。あるいは、報いなのかもしれません」


 呪い、か。そうかもしれない。だってわたしたちは、多分世界に迷惑をかけ過ぎた。その報いを受けるときが来たのかもしれない。その前に、許しを得ることが出来るのだろうか。この団地を抜け出せる日は、いつしか来るのだろうか。

 確証はないけれど、この現象はまだまだ悪化の一途を辿るのだろう。わたしたちに遺された時間は、きっとそれ程多くはない。


 このままでは遍く世界はやがて、終焉に魅入られるのだろう。世界がその形を変えるまで、もう幾許の猶予も残されていない。

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