喪失
序
序(01)セーラー服と、ピンク・ロリィタ。
「
ひとの良さそうな女性は、そう言って小首を傾げた。
まだ齢四十には届いていないはずだけれど、糸のほつれたキャミソールに毛玉の目立つカーディガン、色の抜けたデニムを適当に合わせているせいか、年齢よりもくたびれて見える。牛乳や生活用品が入った買い物袋をぶら下げながら、彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。
「本当に、ご存知ないのですか? あなたの……、いえ、とにかくもう一度よく見て下さい」
危うく滑りそうになった口元に指を添えてから、女性の手に写真を押しつける。彼女は写真を近づけたり遠ざけたりしながら顔をしかめた。けれど、やがて諦めたように写真をこちらに差し出して、
「ええっと、最近よく目が霞んで……、ごめんなさい。やっぱり存じ上げません。こちらの団地にお住まいなのですか?」
「――はい」
叫び出したい気持ちを抑え込みながら、短く言葉を発する。それから念を押すように、
「本当に、ご存知ないのですね?」
夕暮れ時のマンモス団地は、ひとけがなく閑散としている。家々は戸を固く閉め切っていて、まるで何か恐ろしいものに出逢いたくないと身を震わせているかのようだった。買い物袋の乾いた音と灯り始めた電燈に群がる虫の翅音だけが、世界に彩りを添えている。
「
三度目の確認をしようと口を開きかけたわたしを諌めるように、斜め後ろに立っていたピンク・ロリィタ姿の少女が、綺麗に整えられたセーラー服のスカートを引っ張った。
「ちょ、やめてよ
腰履きになりかけたプリーツ・スカートを整えながら、息を吐く。これ以上話をしても進展がないだろうことは、わたしにだって分かっていた。何しろこの女性は、件の人物にまったく心当たりがないんだから。戸惑いの色を隠しきれないといった感情が、しわの目立ち始めた相貌に浮かんでいた。
戸惑いを感じているのはこちらの方だと言いたいところだけれど、彼女にはわけが分からないだろう。わたしはようやく気持ちを落ち着けると、不承不承一礼をした。
「ありがとうございました。引き留めてしまって、ご面倒をおかけしました」
女性は、わたしたちの全身を値踏みするようにねっとりと見てから、踵を返した。夕暮れの中、泥濘へと天秤を傾けようとしている櫻町第六団地へと彼女は帰ってゆくのだ。
自らの子どもの名前も、思い出せないままに。
「ね、だから言ったのです。この奇妙な集団失踪事件は、簡単に解決出来るものではないのです」
女性の姿が視界から消えると、奏が徒労感を隠しもせずに肩を落として愚痴をこぼした。
「何しろ、いなくなったという事実そのものが、抜け落ちているのですから」
「忘れているのは、環のことだけじゃあないよね。あの粘っこい目つき……、顔見知りだったわたしのことまで忘れているだなんて。一体、何が起こっているんだろ」
夕暮れから零れ落ちた溜息のような諦観が、団地のど真ん中に取り残された奇妙な出で立ちのわたしたちを照らす。
セーラー服と、ピンク・ロリィタ。西側の給水塔に隠れかけた斜陽が地を這うように身体を撫でると、アスファルトに黒い影が長々と伸びた。それは何処かひと足り得ぬ、何かが欠損したものたちの影だ。
「はあ……、惑っちゃう、惑っちゃう」
女性の指紋が、写真の隅に残っている。わたしは小さく舌打ちをして、その部分をスカートの裾でごしごしと擦ってから改めて写真を眺めた。わたしとお揃いの制服を纏った
「環さん、ご無事だといいのですけれど……、う、」
ピンク・ロリィタ姿の少女――、
「ん? どしたの?」
「……ああ、いえ。何でもないのです。私も目が霞んでいるのかもしれません」
奏は目をぎゅうっと瞑って、目頭を何度も抑えた。
彼女はわたしが幼い頃からの友だち。昔から変わった格好をするのが好きだったけれど、最近になってそれに拍車がかかっている。
どうやら彼女は、幻覚症状に悩まされているようだった。酩酊するような感覚に似ていると本人は言うけれど、わたしにはよく分からない。とはいえこの団地に引っ越して来たのだから、彼女もわたしと同じように、何かしらの原因でこころに〈アナ〉が空いているに違いなかった。
諸症状は概ね同じだけれど、ひとによって個人差があるということだろう。
「何でもないのならいいけど。それにしても、やっぱり奇妙よね。ここ数週間で分かったことは、不可解なことばっかり。何人もの失踪と、それを覚えていないと言い張るひとたち。ああ、もう。まったくもって惑っちゃう」
「ですね。まだまだ気になることが山積みなのです」
奏は言って、しゃがみ込んだ姿勢のまま長く伸びた影の方を見つめた。
「とはいえ暗くなって来ましたから、今日はこの辺りにしましょう。円、今日も泊めて下さい」
「うん、それはいいんだけれどさ、お母さん心配しないの? 同じ団地内とはいえ、もう一週間以上おうちに帰ってないんじゃあない?」
「お母さん……」
奏は目を何度か瞬かせて、空を見ながらゆっくりと立ち上がると、妙に深刻ぶった顔つきを作った。
「はい、問題ありません。と、言いますか……、円を心配させまいと、これまでは黙っていたのですけれど」
目元を抑えながら、首を軽く横に振る彼女。それからしばしの逡巡ののちに、苦々しい口調で絞り出すようにことばを吐き出した。
「私の母親も、既にこの団地から失踪しているようなのです」
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