第50話 新たな恋
公園で鬼ごっこをした日から約2週間が経過した。
俺は心愛に呼び出され、201号室のちゃぶ台に正座している。
何度も着た場所だけど、やはり2人きりだと緊張する。
心愛はお茶をすすると、ゆっくりと口を開いた。
「本日はお越しくださってありがとうございます。ナナちゃんから近況報告があったのでお伝えしますね」
「あ、ありがとうございます」
七香の報告か。今更俺には関係ないが、彼女がどうなったか少しだけ気になる。
「ナナちゃん、退職したんです」
「えっ」
退職ということは――
「……許嫁、解消したんですか?」
「はい。両家から猛反対を受けて相当大変だったようですが、振り切ったようです」
きっと相当な修羅場になったことだろう。
両家の親族からすればわがまま娘でしかないし、下手したら会社関係も悪化しかねない。
だが、それを承知の上で七香は親の呪縛から逃げることを選んだ。
善悪はともかく、七香は七香の人生を歩み始めたのだろう。
「ナナちゃん、退職のあいさつでなめろうさんのお話をしたようです」
「……え?」
「なめろうさんの噂は虚偽で、本当は自分に許嫁がいたんだって。悪いのは全部自分だってフロアの何百人もの前で言ったら、場が騒然となったようです。さすがにレオンさんのお名前は伏せたようですが、ナナちゃんなりの償いだと思います」
「そ、そうか……」
せっかく周りからはいい印象だったのに、それすらも捨てたのか。
なんというか……久々に、『七香らしい』と思うことが出来た。
「それでレオンさんなんですが……」
「え、レオンも何かあるんですか?」
「はい。許嫁解消の件で社長が激怒して、マーケティング部から降格になったようです」
「降格? ……ちなみにどこへ?」
心愛は言うのを少しためらったが、お茶を一口すすって口を開いた。
「清掃員です」
「清掃員⁉ あれって外注じゃ……」
「そうなんですが、その外注先もグループ会社みたいで。流石に跡継ぎ撤回にはなっていないようですが、1から出直しということでしょうか」
確かに、許嫁解消の責任の一端は適齢期になるまで他の人と付き合おうと言ったレオンにある。花栗の件もあるし、見限られるのも当然かもしれない。
だが、政略結婚で子どもを支配しているのは親たちだ。俺は今回の件で、その点に関して問題意識を強く持つようにもなった。
もし俺が親になったなら、子どもを鳥かごに入れたりはしない。
俺が親に……結婚……そろそろ、そういうことも考える年齢か。まだ無職だけど。
でも俺は、どんな人と結婚するのだろう。
頭に浮かぶのは――
「なめろうさん?」
「ひゃっ⁉」
「お考え事ですか?」
「いや、なんでも……」
「あの、私、なめろうさんにひとつ言わなければいけないことがあります」
「は、はい……」
心愛は神妙な面持ちになった。
一体今度はどんな爆弾を――
「私、なめろうさんに恋をしているみたいです」
「……へっ?」
「花栗さんたちを探しに行こうとしたり、自分を傷つけたレオンさんやナナちゃんにも誠意ある対応を見せたり。人のことをあれほど真っ直ぐに考え、助けられる人を、私は幹夫さんとなめろうさん以外に知りません」
心愛の頬がじわじわとあかくなってゆく。
俺も、どんどん心臓が高鳴り始めた。
こんなに真っ直ぐな言葉で告白されたことは、初めてだ……。
「もちろん、なめろうさんが小桜さんに想いを寄せているのは存じています」
「あ、や……はい……」
「だけど、幹夫さんが応援してくださっているから、頑張れる気がするんです。だから、これからもよろしくお願いしますね」
恥ずかしそうにはにかむ心愛には、俺がファンだった『ココナナッツ』のココちゃんのあどけない面影が残っていた。
***
まだ鼓動が落ち着かないうちに201号室を出ると、廊下の柵に花栗が寄りかかっていて余計に心拍数が上昇した。
会話、聞かれてない、よな……。
「おう、なめ公! やっと来たか」
「お、俺を待ってたの?」
「まあ……礼を言いたくてな」
花栗はすっと柵から離れると、俺の肩に腕を回した。
巨乳が身体にむにゅっとあたり、身体から火を吹きそうになる。
「な、なんだよ……」
「なんとな、昼間の職、決まったんだよ!」
「え、お、おめでとう」
花栗の生あたたかい吐息が耳にあたってそれどころじゃないが、かなりめでたいことだ。
これ以上この体勢だと色々不味いので、俺は隙を見て花栗から離れた。
「なんだよつれないな~。せっかく養育費がっぽがっぽなのに」
「い、言い方……でも、レオンがちゃんと支援してくれて良かったよ」
「なめ公のお陰だよ。ほんと、ありがとな」
花栗がふっと破顔した。
こういう時の表情は柔和で、普段とのギャップにドキッとしてしまう。
「や~、夜にゆるると遊べんのは最高だわ! 今度、酒でも飲みに来いよ! 南房総のなめろう用意してっからよ」
「ああ。ありがとう」
晴れやかな表情の花栗。
心の中で親子水入らずの時間が増えたことへの喜びを噛み締めつつ、俺はずっと疑問に思っていたことをぶつけた。
「なぁ、よるる」
「なんだ?」
「その……レオンとは今後、どうするんだ? 許嫁も解消したみたいだし」
もちろん、俺が首を挟むべきじゃないことはわかっている。
だが、レオンと和解した今、ゆるるにとっては父親がいる環境が最善なのかもしれない。もしよりを戻した場合は、2人は『コーポ夜桜』を出て行くことになる。
そう考えると、胸の奥がチクッと痛んだ。
「レオンか? もうよりは戻さねぇよ!」
「……そ、そうなのか?」
「当たり前だろ! どっちにしろあたしたちを捨てた事実は変わんないからな。ゆるるが会いたくなったら会いには行くが、一緒に住むことは考えられん。あんな鈍足野郎! ははは」
俺の心配を一蹴するかのように笑い飛ばす花栗。
俺はその姿を見て、安堵した。
「それによ……」
「……ん?」
花栗は言葉を止めると、照れくさそうに頭を掻いた。
「あたし、もう好きな奴がいっからよ」
「え……え、そうなの?」
もう花柄は恋愛には興味がないのかと思っていたけど、新たな恋に踏み出していたのか。
俺もなんだか、嬉しい。
「……つーことでさ、とにかく酒、飲みに来いよ!」
「お、おう!」
花栗はそう言い残すと、そそくさと202号室へ戻っていった。
皆、前を向いて歩き始めている。
それが、自分のことのように嬉しかった。
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