第34話 ああ、俺、好きだな
「……さん、なめろうさん。大丈夫ですか?」
「……はっ」
心愛の呼びかけで我に返った。
さっきまで何も見えず、何も聞こえなかった。
「これ、良かったらお使いください」
「……え、ハンカチ?」
「なめろうさん、泣いているので」
その言葉にはっとし、目や頬を触って確認してみた。驚くことに、尋常じゃないほど濡れている。
俺は、自分が泣いていることにさえ気づかなかったのか。
「ありがとうございます……」
俺は心愛からハンカチを受け取り、頬を拭いた。
その時、馴染みのある甘い香りが鼻孔を擽った。
……桜の香り。
そう、美葉の香り。
「あの、このハンカチって、心愛さんのですか?」
「はい。……ああ、でも、先日小桜さんにお貸ししたものでもあります。わざわざ洗濯して今日の早朝に返してくださったんです」
「ああ……」
そういえばこの前、美葉が慟哭した時に心愛が同じハンカチを貸していた。
洗濯したということは、柔軟剤の香りだろう。
そしてこの甘い香りは、俺の心を癒してくれた。
美葉のことを思い出しただけで、じわじわと心があたたかくなってゆく。
「なめろうさんって、わかりやすいですよね」
「……え?」
「私が小桜さんをなめろうさんの彼女と間違えた時も、このハンカチから小桜さんの香りが漂っていることに気づいた時も……ふふ、お好きなんですね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
心愛は微笑んでいるが、俺は動揺を隠せない。
好き……美葉への想いは恋愛感情、か……。
「次の恋は、どうやら恋に落ちる前に失恋してしまったようです」
「え、いや……」
「でも、失恋には慣れっ子ですので、じっくりと恋をしていきます。もちろん、なめろうさんに」
心愛は掴みどころがなく、いつも突飛な発言をするから毎回困惑してしまう。
だけど、彼女の優しさと淡い笑みは、確かに俺の心に響いた。
だから俺も、こんな状況なのに少しだけ笑うことができた。
***
102号室の前で美葉が仁王立ちしている姿を目撃した時は、心臓が止まるかと思った。
さっきはインターフォンを押しても出なかったのに、一体どういう風の吹き回しなのだろうか……。
「なめろう、遅いです」
「ご、ごめんなさい」
美葉は腕組しながら俺にジト目を向けている。お昼は泣いていたのに今は激怒とは、嵐のように目まぐるしい情緒だ。
でも、会えてよかった。
今度こそちゃんと謝ろう。
「美葉、さっきは本当に悪かった。実はあれには事情が――」
「舞音子からさっき聞きました」
「えっ」
ということは、誤解は解けたはずだ。じゃあどうしてこんなに……。
「そんなことよりも、なめろうの元カノ! 最低! 極悪人!」
「へっ」
俺は一気に血の気が引いた。舞音、それは言っちゃダメだろ。俺のプライバシー……。
ということは、俺の醜態が美葉にバレた?
……絶望しかない。
「なんであんな下劣なことをされて、何も悪くないなめろうが仕事を辞めなきゃいけないんですか?」
「いや、当事者が弁解してもどうにもならないから……」
「じゃあ、私が行く! エレクトリマに行く!」
「はっ⁉」
美葉はそういうと、ズンズンと歩き出した。
俺は泡を食って一瞬怯んだが、慌てて美葉を追いかけて手首を掴んだ。
「離して!」
「やめろ!」
「なんで? なめろうはそれでいいんですか?」
……それでいいわけないだろう。
でも、もう終わったことだ。
「……美葉には、関係ないだろ」
「はぁ⁉」
「……ご、ごめん」
余計に怒らせてしまっただろうか……。
「関係、あるもん!」
「え?」
「今、規約作ったから!」
「え……」
規約って一体……?
「【第1条 『コーポ夜桜』の住人が抱えている問題は、住人で協力して解決する】」
「……」
「違反したら、家賃3000円値上げです」
「お、おいっ」
美葉は無茶苦茶だ。この前は心愛にもズケズケ事情を聞いていたけど、人の問題に干渉しすぎる。
だが裏を返せば、ものすごく優しいということなのかもしれない。
「桐井さんが知り合いなんですよね、元カノの?」
「ああ……実は、さっき心愛さんの家に七香が訪ねてきて、鉢合わせて……」
「心愛⁉ 七香⁉ 鉢合わせ⁉ ……女ばっかり、ばかばかばか!」
「い、痛いって!」
美葉が俺の身体に向かって両手をグーにしてポカポカ叩いてくる。そんなにやきもちを焼かなくても……。
あれ、やきもち?
それって――
「……ってもしかして、元カノってさっき走ってここを通り過ぎた女の人⁉」
「あ、ああ……」
「嘘! 追いかければよかった! むぅ!」
最後の『むぅ!』がかわいすぎて心臓がドクッとなった。
それどころじゃないのに……美葉のあの言動がやきもちだと気づいてから、余計に美葉がかわいく見えてしまう。
「じゃあなめろう、タスクです!」
「……へっ?」
「近日、『コーポ夜桜』の住人全員参加の会合をセッティングしてください」
「ど、どうして全員……」
「さっき規約を決めたからです」
美葉は1度決めたら絶対に折れない。そして俺は逆らえない。
「わ、わかった……」
「それまでに私、作戦を考えます」
「な、なんの……」
美葉は俺の目をまっすぐに見つめた。俺はその視線にあっさりと心を射抜かれてしまう。
「決まってるじゃないですか。なめろうを、助けるための作戦です」
……ああ、俺、好きだな。
この無茶苦茶で強引で真っ直ぐで……どうしようもなく人想いの、美葉のことが。
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