第19話 全部やさしい
ボロアパート『コーポ夜桜』。
俺はここで、ゆっくりと、でも着実に、精神を浄化させている。
「おはよう、なめろうにぃ~」
「おはよう、なめ公」
「おはよう、なめしゃん!」
廊下ですれ違うたびに、挨拶をかわせる存在がいる。そして、俺を1人の人間として、あたたかく迎え入れてくれる。
人生で初めて、俺の居場所があると強く思えた。
七香と恋人の時にも感じることできなかった、絶対的な俺の居場所――
「おはよう、なめろう」
「おはよう、美葉」
「うぅ……」
小桜を美葉と呼び初めて1週間と少し。
当初よりは慣れてきたみたいだけど、未だに俺に名前を呼ばれると顔を桜色に染める美葉。
かわいい。
まだわからないけど、この感情は他の人に抱くそれとは少し違う、気がする。
「あ、あの……そうだ。なめろう、タスクです!」
「えっ、まだ8時前だよ」
「今日は2限があるので早めです。そして緊急です」
緊急……ということは、雑用でないことは確かだ。
それに、雑用であれば大体チャットアプリで依頼が来る。
「それで、雑用じゃないタスクって何?」
「な、なんで雑用じゃないってわかって……じゃなくて、タスクは全て立派な仕事です!」
「はいはい」
俺はいつものように美葉の言葉を軽く受け流した。最初は美葉の強引な言動や理論に辟易としていたけど、あの夜桜の夜からはそれすらもかわいく思えてしまう。
……不思議だ。
だが、態度には出さないようにしている。今日もいつも通りに振る舞う。
「ちょっと廊下だと話ずらいので、管理人室来てもらえますか?」
「えっ。もうみんな出かけてるから聞かれないよ?」
「いや……みんなではないです」
……なるほど。そういうことか。
俺は促されるまま、美葉の部屋に足を踏み入れた。
***
「家賃滞納? き、桐野さんが?」
「いや、桐井さんです」
俺は無意識に天井へ目を向けた。
この部屋の上、201号室の住人である桐井。
まだここにいる誰も会ったことがない謎の人物。
「『コーポ夜桜』での家賃回収は基本的に直接なので、会うのを拒否すること自体が家賃滞納に繋がります」
「でも、前管理人の時はちゃんと払ってたんだよね?」
「はい。おじいちゃんはどうやって桐井さんと会ってたんだろう……」
美葉の祖父だけ会うことができた住人、か。ますます謎が深まる。
「それで、管理人ですら会えない住人に、管理人見習いが会いに行けと?」
「お察しがいいですね。お願いします」
相変わらず無茶苦茶な管理人だ。
「それこそ管理人の仕事なんじゃないか?」
「だって、何度行っても出てくれないから……それに、家賃も回収できないようなら管理人失格、『コーポ夜桜』は取り壊しだってパパが。……あ、オーナー」
そして美葉以上に無茶苦茶な父親。どうやら是が非でも『コーポ夜桜』を取り壊したいらしい。
でも、今の俺にとって『コーポ夜桜』は1番大事な居場所だ。絶対に思い通りになんてさせない。
住人のためにも、自分のためにも、そして何より、ここを愛する美葉のためにも。
「わかった。俺がなんとかするよ」
「ほんとに?」
「ああ、まかせろ」
「さすが無職!」
「……ひとこと余計だ」
時々思う。美葉は余計なことさえ言わなければ、めちゃくちゃモテるだろうなと。
だけど、それが彼女の良さでもあるから改善して欲しいとは思わない。
……モテられても、困るし。
「なめろう、何か考え事? もしかして早速作戦を考えてくれてるんですか!」
「あ、や……ま、まあそんなところだ」
「さすが無職界の頂点!」
「……で、期限はいつまでだ」
俺がそう聞くと、美葉の顔が少し曇った。いやな予感がする。
「……明日」
「明日⁉ それはまた随分と急な」
「でも私、今日と明日は絶対休めない授業があるんです……パパのバカッ」
ここまでくると、娘の気持ちを踏みにじって人生を邪魔する彼女の父親に怒りを覚えざるを得ない。
だが、ゆるるの父親しかり、よるるの母親しかり、舞音の両親しかり。
子どもというのは、親の事情に左右される存在だ。それは生まれた時からの定めで、簡単に覆すことはできない。
つまり親という存在は、この世で最も理不尽且つ絶対的な呪縛なのだろう。
だからこそ、例え間接的にだとしても、彼女たちを救いたいと思う。
「わかった。明日までに何とかする」
「……ありがとう、なめろう」
美葉の瞳に光が射した気がした。こんな俺でも、頼りにしてくれることが嬉しかった。
「じゃあ、私はそろそろ行かないといけないので」
「2限って10時30分とかじゃないの?」
「大学遠いんですよ」
「あ、そっか……東大、だもんな」
この前さらっと言われたけど、美葉は東大なんだった。
……七香と同じ。
「そんなにひかないでください。他の大学と変わりませんよ」
「いや、十分凄いよ。俺落ちたし」
「なめろうも受けてたんですね。そしたら、私が聡いから普通に思うだけで、一般的にはすごいのかもしれません」
流石に若干イラッとしたが、スルーしておく。
「……あれ、工学部だっけ?」
「はい。東大が良かったというより、学びたい先生が工学部にいたので受験しました」
「へぇ~、すごいな。受験する時、教授のことなんて知らなかったよ」
「そうですか。私には夢があるので」
夢、か。
舞音もそうだけど、10代で明確にビジョンがあるところに、素直に尊敬する。
「まぁ、『コーポ夜桜』を残すことは、夢を諦めることと同意なんですが……」
「え?」
「でも、せっかく希望のゼミに入れたので、今は目の前のことを頑張ります」
美葉は虚空を見つめた。瞳に影が宿っている。
『コーポ夜桜』を残すことは夢を諦めること……そういえば前に、『コーポ夜桜』を残すには3つの条件があると言っていた。
1つ目はここに住んで管理人になること、2つ目は入居率を50%以上にすること。すると3つ目が、夢を諦めることに繋がっている?
……どっちも、諦めて欲しくない。
だが、俺が詳しい事情を聞こうとした時、美葉がすっと立ち上がった。
「……さ、無駄話は終わりです。桐井さんのこと、よろしくお願いします」
「……ああ」
荷物を取ってスプリングコートを羽織った美葉は、玄関のドアノブに手をかけた。俺もここにいるわけにはいかないので、後を追う。
外に出たら、雨の匂いがした。そろそろ降るかもしれない。
「傘、持って行った方がいいぞ」
「え?」
「雨降るかも」
「なんでわかるんですか?」
「匂いでさ」
「……野生育ちですか?」
……これだから都会育ちは。
「私、傘持ってないです」
「まじか。じゃあ、ちょっと待ってて」
きょとんとしている美葉を残し、俺は自室へ戻った。そして玄関に立てかけてあるビニール傘を手に取り、すぐに戻った。
「はい、これ」
「いいんですか」
「まあ、俺は今日家にいるから」
「さすが無職」と軽口を叩かれることを予想していたが、美葉は淡く微笑んだ。
「……しい」
「ん?」
「はっ! ……な、なんでもないです」
「そこまで言ったら聞きたくなるだろ」
「大したことじゃ……」
美葉は俺から受け取ったビニール傘を両手でぎゅっと持ち、俯きながら小さく呟いた。
「……やさしい」
「え?」
「なめろうは、全部やさしいなって……だから、心強くて嬉し……あ、今のは、なし! なしです」
美葉の頬が桜色に染まる。
俺はなんだか照れくさくて人差し指で頬を掻いた。
「ま、まぁ。美葉のことほっとけないし……あ、いや……」
「むぅ……」
つい口が滑ってしまった。お互いに目を逸らす。
「わ、私、も、もう行きます」
「あ、ああ、いってらっしゃい」
美葉は足早に俺の元を離れた。すると、ぽつり、と雨が降り始めた。
天を仰いで雨を確認した彼女は、バサッと傘を開き、それをさしながら歩き始めた。
小柄な身体には大きすぎる傘。
そのビニール傘越しに見える美葉のぼんやりとした後ろ姿が、妙に愛おしく感じた。
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