第18話 春が見えた
時が止まった。
桜吹雪に吹かれた小桜の残像が、いつまでも視界に残る。
――初めて、好きになりました。
そんな桜カクテルよりも甘い告白がこの世に存在するなんて、思いもしなかった。
心臓は完全に制御不能となり、胸を突き破る勢いで鳴り響き続けている。
視線は、逸らせなかった。
ギリシャ神話に登場するメドゥーサに睨まれた者は、きっとこんな状態のまま石になって動けなくなるのかもしれない。
静寂が痛い。俺は、何かを答えなければいけない。
――俺は何と答えればいい?
「あ、ありがとう……あの……」
「お礼を言うのはこちらの方です。だから、今日思い切って呼び出したんですから」
「そ、そっか……えっと……」
小桜は肩の荷が下りたような、あるいは憑き物が落ちたような、清々しい表情をしている。
告白してスッキリしたのだろうか。
……俺も、今の気持ちを正直に答えないと。
「あ、あの……嬉しいよ。でも、返事のことなんだけど……」
「返事?」
「す、少し待ってもらえないかな? 俺、実は失恋したばっかりで、まだ何も考えられないというか……」
うっかり、失恋したという余計な事実まで話してしまった。
だが、これが今の俺の正直な気持ちだ。
告白は嬉しいし、正直、さっきの告白で小桜を見る目が変化したのも事実だ。
こんなに激しい胸の高鳴りや高揚感を覚えたのは久々だから。
でも……俺はまだ、七香のことを忘れることが出来ない。
『コーポ夜桜』に来てから痛みは少しずつ浄化してきているが、それでもこの気持ちが桜のように散るまで、新しい恋を考えることはできない。
「だからごめん。もう少し待って欲しい……」
俺は俯いたまま返事をした。だが、この態度は誠意に欠けると思い、恐る恐る顔を上げてみる。
泣いていたらどうしよう……。
しかし、小桜は
「待つって何をです?」
「え……だから、俺の返事を……」
「お礼に対して返事があるんですか?」
「……へ?」
あれ、一体何が起きている?
もしかして、俺と小桜の話がかみ合ってないのか?
「小桜さん、さっき言ったじゃないか……」
「言いましたよ、ありがとうって。恥ずかしかったけど、助けてもらったから」
「そ、その後……」
「その後?」
小桜が腕組みして考え始めた。
ややあって、思い出したように呟いた。
「確かにその後、別の言葉を言いましたね。無意識だったけど、『私、初めて好きになりました』ってつい漏らしちゃいました」
「ほら、やっぱり……」
「でも、私が自分を好きになれたことに対しての返事って何ですか? まだ理解できないんですけど……」
「……」
狐につままれる、とはまさにこの状況。
もはや心の中で叫ぶしかない。
『初めて好きになりました』が自分自身のことだって、分かるわけねぇだろ‼
俺の胸の高鳴りを返せ‼
「……何だか話がかみ合ってないみたいなので、恥ずかしいけど説明します」
小桜は、やれやれという感じで嘆息した。
俺は言葉がみつけられずに、無言を貫いている。
「私、あんなパパに育てられたし、名前の由来もこんなだから、自己嫌悪が酷かったんですよ。勿論、能力が優れていることや聡いことなどの客観的事実は理解していましたが、それでも感情的な部分で言うと自分のことがほんとに嫌いで。東大に入ったのも、工学部を選んだのも、『コーポ夜桜』で管理人をやってるのも、全部おじいちゃんのためなんです。私をずっと支えてくれたおじいちゃんに喜んでもらうために、必死で勉強しています」
東大、工学部……ただでさえ告白の件で理解が追いついていないのに、これ以上強烈な追加情報を提供しないでくれ。
「つまり、私は自分が嫌いなので、おじいちゃんを喜ばせることを人生の目的にしていました。だから自分の人生なんてどうでも良かった。でも、この前生まれて初めて死にそうになって、なめろうさんが助けてくれたから、生きることの尊さを本当の意味で実感することが出来ました。そしたら、なんだか自分自身のことも初めて好きになれた気がしたんです」
わかった。小桜の生い立ちも、俺が助けたことによる心境変化も、だからこそのお礼も、よくわかった。
でも、あの言い方はないよ――
俺、久々にドキッとして、淡い感情が湧いてきて、嬉しかったんだから……。
そう、嬉しかったんだ、心から。
それがぬか喜びになってしまったことの喪失感が大きい。
「なめろうさん、顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
「……ダメ」
そう、ダメなときはダメだと言っていい。
それは小桜を見て学んだ。
「風、強くなってきましたもんね。そろそろ帰りましょうか」
いや、体調がダメってことじゃないんだが。
なんでこうも俺と小桜はかみ合わないんだ……。
俺はむしゃくしゃして、桜カクテルを一気飲みしてうなだれた。
既に冷えたそれは、やけに甘ったるく、やたら喉に絡みつく。
……はぁ。
「なめろうさん」
「……」
「なめろうさん!」
呼び声が聞こえたので、ぬるりと顔を上げた。
すると、小桜が俺に手を差し伸べている姿が瞳に映った。
「体調が悪いなら、支えますよ。私も助けてもらいましたし」
「いや……悪いわけじゃない」
「そうですか。ならいいですけど、とりあえず帰りましょう」
小桜に促されて仕方なく立とうとするが、身体が鉛のように重く、しばらくベンチから離れられそうにない。
「小桜さん、あの、先帰ってもら――」
「あ、なめろうさん、もう1つありました」
「え?」
小桜は何か思いついたような顔をして、ベンチに座る俺に視線を送った。
「『小桜さん』ってもう、やめません?」
「……へ?」
「その、舞音子に聞いたら、下の名前で呼んでるみたいじゃないですか。ゆるるちゃんもそうだし、ゆるるママのこともそうだし……」
「……」
確かにそうだ(よるる、は強引だったが)。
だが、だからと言って今更呼び方を変える必要なんてあるのだろうか?
……恋人でもないのに。
「俺、小桜さんって呼び方に慣れちゃってるし……」
「ダメです」
「ダメ……?」
小桜は腰に手をあて、ぷくっと頬を膨らませた。
「なめろうさん、これはタスクです。美葉って呼んでください」
「タスクって……管理人業務じゃあるまいし……」
「あーもう、わからずや‼」
小桜はそういうと、俺の額にいきなりデコピンをした。
「痛ッ……なんだよ、急に‼」
「わからずやなんだもん‼」
「何がだよ‼」
俺たちは、また言い合いになった。
やっぱり、とことんウマが合わない。
「だから……なめろうさんに……なめろうさんだから、『美葉』って呼んで欲しいの‼」
「……え?」
「私が自分を好きになれたきっかけがなめろうさんだから、なめろうさんに『美葉』って呼んで欲しいの‼ ……ダメ?」
暗くてもわかる。小桜の頬は桜色に染まり、目は潤んでいる。
……それが本音なんだとわかった。
「ダメ……じゃない、美葉」
「……‼」
俺が名前を呼んだ瞬間、彼女は両手を頬に当て、俺から視線を逸らした。
何やらそわそわしている。
「どうした、美葉?」
「……‼」
俺がもう1度呼ぶと、さらにそわそわし始めた。
もしかして、照れているのか?
……自分で言い出したくせに。
そう思ったとたん、急にすべてがどうでも良くなった。
なんだあまりにも可笑しくて、馬鹿馬鹿しくて、楽しくて……。
そう、楽しい。美葉といるのが。
「なあ、美葉」
「……‼ な、な、な、なんです」
「俺のこともさん付けやめて」
「な、な、な、なんでです」
「それは……美葉と同じ理由。今そう思ったから」
「……⁉」
とうとう美葉は、小動物のように小刻みに動きながらそっぽを向いてしまった。
その様子がおかしくて、大声で笑った。
「な、な、なに⁉」
「いや、面白いから……美葉が」
「……‼ お、面白くない! なめろうさんの、バカ!」
「だから、さん付けじゃなくていいって」
「じゃあ、なめろうの、バカ! ……あれ、そういえば本名ってなんだっけ?」
美葉は、上半身だけゆっくりとこちらに向けた。
視線がばちりと合う。なんか気恥ずかしくて思わず逸らした。
「……なめろうのままでいい」
「えっ」
「俺、なめろうって呼ばれたいから。美葉に」
その時、再び突風が吹いた。
ひらりと舞い散る夜桜。
闇の中でも、花びらが鮮やかな桜色に見えた。
「……よろしく、なめろう」
「……よろしく、美葉」
俺にもやっと、春が見えた。
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