第16話 頬に触れる手と破顔

 ――なめ公がゆるるの父親だったらいいんだけどな。



 花栗のこの言葉は、あくまでもゆるるのためを思った母親としての発言なんだろうが、男としてはその裏の意味を考えずにはいられない。


 まぁ、花栗に至っては本当に他意はないのだろう。

 そもそもちゃんと話したのは初めてだし……。



「あー、いらんこと言った。照れるわ」

「照れる……?」


 

 花栗はそういうと、鼻の下を指でこすり、日本酒をさらにぐびっと飲んだ。



「ゆるるの父親がとんでもねぇ無責任野郎だから、優しい奴に弱……ダメだ、酔ってる。飲みすぎたかな」

「確かに、ちょっと飲みすぎです……だね」

「お、いいじゃん。その調子でちゃんとよるるって呼んでくれよ」

「う、うん……あのさ、どうしてよるるなんです……なの?」



 俺は、ずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。

 すると花栗は虚空こくうを見つめ、日本酒をあおった。



「あたしの名前、花栗夜っていうんだよ」

「夜……珍しい」

「そうそう。都会生まれの母親が、南房総の夜は暗いから、家の近くの灯台のように明るく照らして欲しいって意味でつけたんだ。なら、あかりとかひかりとかにすればいいだろ!ってツッコミたいけど」

「た、たしかに」

「まぁ、それで『あなたは夜を明けさせる存在なのよ』ってな具合で、過剰な期待を寄せられたわけ。厳しい教育で、習い事も散々やらされて、門限もきつくて。いわゆる毒親って奴だな」



 赤髪で言葉遣いが荒く、酒豪の花栗。彼女にそんな過去があるなんて意外だった。

 小桜もそうだけど、親に人生を左右されるというのは精神的にも肉体的にも相当な苦労があるはずだ。



「そんで高校生になったら家出してやるって思ったわけさ」

「家出!」

「ああ。だけどもちろん単に家出するだけじゃ警察沙汰になっちまうから、しっかり都内の名門校に受かって正式に1人暮らしをしてやったよ」

「それは、すごい」

「そんで、そこであたしは自分のことを『夜』と思うことは辞めた。周りには『よるる』って呼ばれてたんだよ」



 花栗は自分の辛い境遇を自分の力で打破した。名門校まで受かって、自分の人生を切り開く努力をした。


 俺は、自分の現状を打破するために何かを努力したことなんてなかった。

 周りから不倫だと誤解されて針のむしろになっても、耐えて、諦めて、何も改善しないまま逃げただけだった。


 俺は、花栗よりもずっと弱くて稚拙な人間だ。


 恥ずかしくて、残り半分の缶ビールを一気飲みした。

 俺も少し酔ってきた。



「そんでさ、あたしの高校の同系列大学の奴との子どもがゆるるだ。親には勘当される勢いで反対されたし男には逃げられたけどさ、あたしは高校を中退して産む決意をしたんだ」

「それは、男が酷すぎるな」

「な、酷いだろ? まあそいつも親と色々あったみたいなんだけど。とにかくあたしはゆるるに同じ道を辿って欲しくなくて、『ゆるく幸せに生きて欲しい』って思いと私の第2の名前『よるる』を掛け合わせて『ゆるる』にしたわけだ。キラキラネームだと思って引いてたか?」

「いや、最高の名前だよ」

「おう、最高の名前だな」



 大人の悪酔いというやつだろう、俺たちは目を合わせて笑い合い、『ゆるる最高!』とかなんとか言ってハイタッチを交わした。


 その後、俺は花栗から日本酒を貰って飲んだ。


 酒に酔うのは本当に久々だ。会社の飲み会でも七香の前でも、失態を犯さないように2杯に控えていたから。


 だが、程よく酔うのは気持ちがいい。それに、花栗は俺が思った以上にちゃんとしていて、怖くなくて、気さくだった。くだらない雑談が楽しくて、すっかり打ち解けていた。


 宴もたけなわ、というところで花栗が「そろそろあいつら見てくるか~」と呟いた。



「まあ、流石に遅いしね」

「だよな。きっと仲直りして『まねっこジェスチャーゲーム』やら『ウキウキ虎鵜とらうのゲーム』やらで遊んでんだろうなぁ」

「うきうきとらうの……?」

「ああ、ゆるるは創作が得意なんだよ。『ウキウキ虎鵜のゲーム』はトランプとUNOと虎と鵜を掛け合わせた新感覚カードゲームなんだと」

「……なあ、ゆるるって天才なのか?」

「まあ、あたしの娘だし天才だな」



 俺たちはニヤニヤしながら再びハイタッチをした。この時間が終わってほしくない、とさえ思ってしまう。



「じゃあ、ついでに風呂借りてくるから、なめ公はここでゆっくりくつろいでてくれ」

「ああ、わかったよ」

「酒、好きに飲んでいいぞ」

「ありがとう」

「あとで2倍にして返してもらうからよ」

「はは、冗談がきついぜ、よるる」

「へへ、冗談じゃないぜ、なめ公」



 よるるは指で鼻下をこすりながら立ち上がり、バスタオルや着替えを用意した。

 俺は巨大な容器に入った焼酎をあおる。



「あ、なめ公、手ぇ出して」

「え? なんで?」



 俺は不思議に思いながら、掌を上に向けて差し出した。

 すると花栗は、その上にふわっと何かを置いた。


 よく見るとそれは、2つ葉のクローバーだった。



「え、これ……」

「ゆるるがなめ公にあげたって言ってたから、もう何なのかはわかると思うけどよ」

「え、うん。でも、なんで?」



 花栗は俺から目を逸らして再び指で鼻の下をこすった。

 そして訥々と呟いた。



「いや、その……あ、この2つ葉のクローバーのことはあたしがよるるに教えたんだけどさ、で……そう。あたしはなんかきっかけがないと色々苦手でさ。で……つまり……」

「俺に、謝りたいってこと?」

「そんな直接的に言うなって。あ、頭下げるの苦手なんだよ……すまなかった!」



 途中までしどろもどろだった花栗が一気に頭を下げた。

 俺は目を大きく見開いた。心から驚いた。


 花栗がストレートに謝ろうとしていることにも、ゆるるに2つ葉のクローバーを教えていたことにも。



「なめ公がここに来た日、殴って悪かった。ゆるるはあたしが守んないといけないから、ゆるると一緒に寝たと聞いて必死になってたんだ」

「あ、ああ、わかるよ。俺もちゃんと説明してなくてごめん」

「いや、あたしが悪い、ごめん」


 

 花栗はそういうと、その場にかがんで俺の頬に手を添えた。

 冷たい手の感触が頬全体に広がる。

 そして、彼女の顔と巨乳の谷間が視界を埋め尽くした。


 大人の女性とこんなにも接近したのは久々だった。

 心臓が早鐘を打つ。酔っていることもあって、顔が瞬間的に上気した。



「ここ、痛かっただろ。ごめんな、ほんとに」

「え、え、や、あ……」

「これからはさ……『平和』にいこう。よろしくな、なめ公」

「あ、ああ……よろしく、よるる」



 花栗は破顔し、ゆっくりと立ち上がって外へ出た。


 

 普段のキリッとした顔と、今の柔和な笑顔のギャップが、俺の心をくすぐった。

 

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