第6話 女子高生を助けたら、自宅で……

 通勤ラッシュで忙しない自宅の最寄り駅。

 23区内にあり、駅周辺には商店街や飲食店が所狭しと立ち並ぶ賑やかな都会らしい街。


 七香の浮気現場を目撃して以来、俺はこの街の喧騒けんそうに紛れることでなんとか自分を保ってきた。


 しかし、1週間後にタワマンを完全退去してからは、先程までいた東京の西側、田舎ではないけど都会とも言い難いあの街で過ごさなければならない。


 アパートの周辺は閑静な住宅街、アパートに入れば狡猾な管理人と横暴な住人。

 おまけに1週間以内に新しい住人を探せと言う無理難題(小桜曰く、タスク)。

 

 果たして、そんな環境で俺は自らの傷を癒すことが出来るのだろうか。


 もしこれ以上精神状態が悪化したら、俺は――



「うぅ……うぅ……」



 タワマンのエントランスに入ろうとした瞬間、うめき声が耳に入った。どうやらすぐそこの茂みあたりに何かがいるようだ。



「うぅ……うぅ……」



 怯えている猫だろうか? 傷を負っている犬だろうか? 

 気になった俺は、植栽に足を踏み入れて茂みの裏を覗いた。


 そこにいたのは――



うずくまっている女子高生……?」



 黒髪のショートヘアに、薄水色のリボンが目立つブレザーの制服。

 顔は血色が悪く、悶えているようにみえる。


 昨日に引き続き、なぜ倒れている女子とばかり遭遇してしまうのだろうか?



「うぅ……うぅ……」

「あの、どうしたんですか?」

「……み、水……」

「じゃあそこのコンビニで買ってくるから」

「あ、待って……」



 俺がコンビニに向かおうとすると、女子高生は歪んだ表情を俺に向けた。



「もうひとつお願いが……」

「うん、なに?」

「あの……」



 先程まで青白かった頬が赤く染まる。



「……ナプキンを」

「あ、え……わかった」



 その言葉の意味を理解するまでに数秒かかったが、事の重大さに気づいた俺は、走ってコンビニへ向かった。


 生理痛。俺は七香と付き合うまでその苦しみの実態を全く知らなかった。

 人によって程度の差はあるらしいが、七香はそれが重い方だった。


 毎月生理が始まると激痛で動けず、横になるしかなかった。俺はそんな七香のために生姜スープを作ったりした。


 薬で少し良くなってからスープを飲んだ七香は、本当に幸せそうな顔で「ありがとう」と言ってくれて……


 ……だめだ、そんなことを思い出したら。今は女子高生を助けないと。


 俺はコンビニに入ると、水とナプキンを手に取り、急いでレジに向かった。


 若い女性の店員が俺とナプキンを交互に見たので変な汗をかいたが、見知らぬ男性にナプキンの購入を頼んだ女子高生の方が勇気を要したと思う。そう考えれば、会計での恥ずかしさくらいなんてことない。


 エントランスに戻ると、女子高生は先程より深刻そうに蹲っていた。

 俺は急いで彼女に水を差し出す。



「お待たせ、これ水だよ」

「……ありがとです……」



 女子高生はブレザーのポケットから何かを取り出すと、口に含めて水で流し込んだ。おそらく薬だろう。



「あ、それと……これはどうする?」



 今度は袋ごと女子高生に差し出す。



「あの……トイレを……」



 女子高生の目には涙が溜まっている。

 泣いている女子は、放っておけない……。


 俺は女子高生を背負い、エントランスを抜けた。

 幸い、誰ともすれ違わずにエレベーターに乗ることが出来た。安堵のため息を漏らしながら、17階のボタンを押す。


 機械音のみが静寂を埋めるエレベーター内。女子高生の荒い呼吸がやけに響く。



「はぁ……はぁ……うぅ……ん……」



 吐息がダイレクトに耳に当たり、身体が硬直する。


 そして気づいた。女子高生の生足を直に触っていることに。

 冷たい太ももに自分の指が食い込み、柔らかな感触が伝わる。


 非常事態でこんなことに過敏になってしまう自分にうんざりするが、変な汗は止まらない。


 心の中で「はやく着け!」と念じながらようやく17階に到着すると、急いで自室にかけこんだ。



「トイレはリビングのドアの手前。玄関のすぐ横が寝室だから、落ち着つくまでそこで寝ていいよ」

「……はい……ありがとです」



 女子高生はお腹を抱えたままトイレへ入っていった。

 俺はリビングに入り、鉛のように重い身体をソファに預ける。


 ――疲れた。


 全てを失いって生きることすらままならないと思っていたのに、変人たちと出会い、タスクを強引に与えられ、女子高生を助け……人生ってこんなに目まぐるしいものだったっけ。


 そんな風に考えていたらいつの間にか寝落ちてしまい、意識が戻ったのは夕方だった。


 レースのカーテンから透けて見える空は濃い橙色をしている。

 心が凪いでいる人は綺麗だと思うだろうし、俺みたいな人は不気味だと思ってしまう。


 同じ事象でも、捉える側の心構えや精神状態で意味合いは180度変わってしまうのだ。

 だからこそ、事実というものは常に歪んでしまう可能性を秘めている。


 俺の無実も、そうやって捉える側の偏見によって歪んでいってしまった。


 ……だめだ。俺、病みすぎだ。


 このままだとマイナス思考の底なし沼に呑みこまれて再起不能になる。

 そこで、気分転換に生姜スープを作ることにした。もちろん、女子高生のためにも。


 俺は冷蔵庫を漁り、余っていた野菜と生姜を切って茹でた。

 いい香りが鼻孔を擽ると同時に、自分自身の活力もほんの少しだけ復活してゆくのがわかる。



「あの」



 声がしたので振り向くと、女子高生が佇んでいた。

 先程とは違って頬が桃色に染まり、血色がよい。


 そして、10人いれば10人の男が振り向くであろう、かわいらしい顔をしている。



「……お、起きたんだ。もう大丈夫?」

「薬が効いたけん、大丈夫です。ごめんなさい」



 女子高生は俺に向かって深々と頭を下げた。

 イントネーションに少し違和感があるから、地方出身者なのだろう。


 俺はちょうど今できたばかりの生姜スープをカップによそい、彼女に差し出した。



「いや、大丈夫だよ。それより、よければ飲む?」

「えっ! ……これ何と?」

「生姜スープ。口に合うかわからないけど」

「ありがとです!」



 カップを受け取った女子高生の表情はぱぁっと明るくなり、さっそくその場で飲み始めた。



「これ、ばりうまか‼」



 彼女は恍惚とした表情を見せ、喜んでくれた。

 俺は何だか照れくさくなって、人差し指で頬を掻いた。



「そ、それは良かった」

「おじしゃん、天才たい‼」



 再び若い女子から『おじしゃん(さん)』という言葉を聞き、高揚した気持ちが一気に霧散した。


 『しゃん』の方が可愛げがあって幾分ましではあるが、それにしても……


 俺、そんなに老けているのか?



「一応、まだ20代で……」

「す、すみません‼ くまがすごいけん、つい。疲れとーと?」

「いや……まあ、うん」



 そういえば、自分の顔なんて久しく鏡で見ていない。

 周囲の人間全員に避けられだしてから、いつの間にか自分の容姿には無頓着になっていた。



「そうや! ちょっと座ってくれん?」

「え、あ、うん」



 すっかり元気を取り戻した様子の女子高生は、俺の腕を掴んでカーペットに誘導した。行動の意図は察せないが、言われるがままに腰を下ろす。


 すると彼女は俺の背後に回り、肩を揉み始めた。


 その絶妙な力加減が気持ちよすぎて、思わず「うぅ……」とか「おぉ……」とかいう変な声が漏れてしまう。我ながら恥ずかしい。



「急に動けなくなったけん、ばり助かったばい」

「こちらこそ、マッサージをしてくれてありがとう。君、地方から来たの?」

「うち、福岡出身ばい。東京に来て1年になるっちゃけど、博多弁ぬけんくて」



 なるほど、これが噂の博多っ子か。確かに方言が可愛らしい。



「わかるよ、俺も茨城出身だから。県南だから方言は薄いけど、上京した時はめっちゃなまってて指摘された」

「お揃いで嬉しか~」



 女子高生はころころ笑いながらマッサージを続けてくれた。

 天真爛漫で素直な子なんだろうな、と思う。



「ところで、もう夜になるけど帰らなくて大丈夫?」

「う……」



 先程まで明るかった雰囲気が一気に淀み、気まずい沈黙が続いた。


 もしかして、家に帰りたくないのだろうか?

 俺が戸惑っていると、ややあってから女子高生が口を開いた。



「……ここ、泊めてくれん?」

「え……」



 慮外りょがいな言葉に、心がざわつく。

 この女子高生は男性にそう言うことの意味が分かっているのだろうか。



「さ、流石にそれはまず――」

「うち、家がなかよ」



 俺は何も言えなかった。

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