第4話 背後から抱きつかれて……
小桜の言った『すみません』は、謝罪ではなく『住みません?』という意味合い。
つまり、誘われているのか、俺。
「ここのボロア……和風のアパートに、俺が?」
「ボロって聞こえてますよ。『コーポ夜桜』に住むんです」
「なんで?」
「なんでって……昨日まで会社員で今日から無職ってことは、QOLを下げる必要がありますよね。そのシャツがエンポリオアルマーニ、時計がティソだから、きっと部屋も割といいところに住んでるはず。タワマンとか? ということは住み替える必要がある」
俺は一瞬息が止まるくらい驚いた。
昨日は泥酔していただらしない女子が、急に名探偵張りの推理力を発揮していることが信じられない。
確かに、シャツは買い物デートで七香が選んでくれたもの、時計は去年の誕生日に七香がプレゼントしてくれたものだからいい品物だ。タワマンも図星。
そして住み替えが必要というのも当たっている。給料は大手だから割とよかったが、大学院までの奨学金返済、タワマンの家賃、七香との交際費に使ってしまって(だいぶ見栄を張っていた)、お金に余裕はない。
というか、20歳になったばかりで男性ブランドの知識が豊富にある小桜は、一体何者なんだ?
「その反応、あたりですね。じゃあ、ここに住むの決定!」
「えっと……いや……あ、家賃は?」
「3万9000円」
「安っ」
俺の今住んでいる家の約4分の1。
駅からは遠そうだが、風呂もあるみたいだし、何より都内でこの値段は魅力的すぎる。
「お風呂はないですけど」
「え? キッチン横にあるの、風呂じゃないの?」
「この部屋だけおじいちゃん……前の管理人が体調を崩してしまったので、トイレと物置を壊してユニットバスを置いたんです。この辺に銭湯はないから家で済ますしかなくて」
「へ、へぇ。……あれ、銭湯がないならどうするの?」
風呂がないとなると話は別だ。俺は潔癖症まではいかないものの、結構な綺麗好き。風呂も銭湯もないなら流石に住むことはできない。
「最寄駅の駅前にネットカフェがあるので、そこでシャワーを……」
「遠くない?」
「たったの徒歩25分です」
「帰ってくる頃には汗をかいているだろう」
「……」
「確かに俺は部屋を住み替えるつもりだけど、風呂なしは考えてないんだ。じゃあ……」
よくよく考えたら、職務怠慢な管理人がいる家に住むのはあまり好ましくない。とりあえず家賃6万くらいの風呂あり物件を探した方が無難だ。
傷が癒えたらいずれ転職活動をして再就職すればなんとかなるだろう。
……傷が癒えればだが。
「ちょっと、まって‼」
すると突然、小桜が俺の背中に抱きついてきた。その拍子に豊満な胸が押し付けられる。
弾力がありながらも柔らかい。一気に心拍数が上昇する。
「な、な、なんだよ……⁉ は、離――」
「……お願い……して……しいんです」
俺を強く抱きしめる腕は小刻みに震えている。声はか細く、よく聞き取ることができなかった。
俺は、溶けてなくなりそうな雪のように儚いものに弱い。
七香のなめらかな肌にも、ゆるるの潤んだ目にも、そして今の小桜のか細い声にも。
そんな風に言われたら、とても断れない……。
「……わかった」
「……え? ほんと?」
「うん、住むよ、ここ。約束する」
すると、小桜の腕が俺の腰からゆるりと解かれた。
振り返ると、小桜は俯いて肩をひくひくさせている。
泣いているのだろうか。もしかしたら1人で何かを抱えているから、俺を誘ったのかもしれない。20歳で管理人をやるくらいだから、何か特別な事情があるはずだ。
それならば、優しい言葉をかけてあげなければ。
……俺はつくづく、女子の涙に弱い。
「困ったことがあったらなんでも言って。協力す――」
「っやったぁぁぁぁぁぁ‼」
「……⁉」
小桜は顔をひゅんとあげ、飛び跳ねた。涙は1滴も流れておらず、寧ろ満面の笑み……というかしてやったり顔をしている。
どういうことだ?
「予想通り、なめろうさんには泣き落としが効いたっ」
「……は?」
「あ、心の声……ごほん、今のは何でもないです。ここに住んで、管理人業務手伝ってくれることが嬉しくて」
「え、俺そんなこと、ひとことも言ってないよ?」
「え、言いましたよ? 私が『管理人業務の手伝いをして欲しいんです』って言ったら『わかった』って!」
……この女、肝心なところをあえて小声で聞き取れないようにしたな?
しかもさっきのは丸々演技……クソッ。やっぱり小桜とは絶対にウマが合わない。
俺は怒りを奥歯で噛み潰しながら、乱暴にドアを開いた。
「じゃあ契約書にサイン……あれ、どこに行くんですか?」
「帰る!」
「まって、サイン――」
「初対面の大人相手に騙すやつが管理人の物件には住めない」
「騙したんじゃない! 私が
「そういうのは聡いんじゃなくて
「え、なにそれ、ひどい!」
「ひどいのはお前だ!」
俺たちは鋭い視線交わし合った。
こんな風に沸々と怒りが湧いたり、人と喧嘩したりするのは何年ぶりだろう。
七香の浮気現場を目撃した時ですら、怒りではなく喪失感が胸を支配していた。
というか、怒っている最中に冷静になってしまう自分の感情は、どこか壊れているのだろうか?
「ゆるるはどこだ~? ……って男?」
「……え?」
俺と小桜が睨みあっていると、突然玄関のドアが開かれ、背後から声がした。驚いて振り向くと、赤髪をラフに束ねた美女が立っていた。
身体は華奢なのに胸だけが暴力的な大きさで、無意識に目が奪われてしまう。
「お前、泥棒か? 変態か?」
「……へ?」
「いや、強姦魔だな」
「……ち、ちが……ふぁっ」
赤髪の美女は俺の胸倉を掴むと、そのまま上に持ち上げた。理解が追い付かないうちに、自分の身体が宙に浮き始める。
体重60kg台の俺を、軽々持ち上げている?
「うちのゆるるとその女に手を出すな‼」
「ぐわぁ⁉」
何が起きたかわからないが、気づいたら俺は外廊下の柱に激突していた。ただでさえ小桜を背負ったダメージが残る背中に、とび膝蹴りを喰らったような激痛が走る。
……え、俺、投げ飛ばされた?
「さて、どこを殴られたい? 顔か?
「ちょ……ま、まってくださいって……俺は何も……」
「反省の色がないなら、再犯できないようにしてやる!」
再犯できないように……まさか、狙われてるのって――
「やめてくれ‼ 本当に何もしてないんだ‼」
「そんな言い草、通用しないから‼」
……そうか、俺の言うことなんて誰も信じないんだった。
ああ、もう赤髪の美女に股間がやられる。
終わった――
「まって‼ あの、もしかしてゆるるちゃんのお母さんですか?」
「そうだけど、黙って隠れてな。こいつは強姦魔で、お前もヤられるところだったじゃないか」
「いや、その人、強姦魔じゃないんです」
「なに?」
信じられないことに、あの狡猾で無責任な小桜が俺に助け舟を出してくれた。
そのおかげで、ゆるるの母親は俺への攻撃態勢をややゆるめた。
「その人、今日から102号室の住人です」
「「は?」」
俺とゆるるの母親の素っ頓狂な声がハモった。
というか、俺はさっき断っただろ。
「なめろうって名前の人で」
「だから、俺は行川ゆ――」
「お、あたしの好物。つまみにいい」
俺の反論はゆるるの母親の言葉にあっさりと遮られた。
それと同時に、ゆるるがなめろうを知っていた理由が解明された。
「無職でスキルがないので、私の管理人見習いになりました」
「「は?」」
本日2度目のハモり。
『管理人見習い』ってなんだよ⁉
スキルがないっていうのも適当すぎる。家電とSEの知識はそんじょそこらの奴には負けないという自負があるんだ。
小桜の発言は、いちいち癪に触る。
「なので、ゆるるママも困ったことがあったら、なめろうさんに何でも言ってください!」
「……なるほど。そういうことなら仕方ない。誤解して悪かった、なめろう」
「え、あ、や……はい、ゆるるさんのお母様……」
「なんだその堅苦しい呼び方。よるるでいいよ」
「……えっと……え、本名?」
「違う。でも、いいからそう呼ぶんだ」
この乱暴な美女をよるると呼ぶことには抵抗がある。でも、呼ばないと殺されそうだ……。ならばせめて、心の中では花栗って呼ぼう。
「あ、ママ‼」
「おう、ゆるる! どうしてここにいたんだ?」
「お家が真っ暗になっちゃったの」
「それは大変だったな」
「でも、なめろうさんが隣で一緒に寝てくれたんだよ!」
「……はぁ?」
花栗は俺をぎろりと睨みつけると、拳をごきゅっと鳴らし始めた。
その殺気に、思わず肌が粟立つ。
俺は久々に、死にたくない、と思った。
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