第3話 寝起きの誘い

 繊細で上品なシルクのような肌。

 触れてしまったら溶けてしまいそうな淡く儚げな肌。


 今、その肌が俺の身体と絡み合っている。接触部分にじんわりと熱が帯びる。



「雪くん、あったかい。溶けちゃいそう」

「溶けるって……七香の方が俺より『雪』って言葉が合うよな」

「そうかな」

「そうだよ。なんか……春になったら消えていなくなりそう」

「ええ、なにそれ。ずっといなくならないよ」



 七香は柔らかな笑みを浮かべると、俺の身体をより一層強く抱きしめた。

 俺も負けじと抱きしめ返す。


 この時間が永遠に続けばいい。


 そう思いながら、七香の梅色の唇を塞ぐ――



「泥棒……いや、違う」

「……え?」

「変態……いや、もっと酷い」

「……え?」


 

 先程まで愛おしい笑みを浮かべていた七香は、急に俺の頬を手で押さえて顔を遠ざけた。



「そっか……この人、強姦魔だ‼」

「……は?」



 七香は何を言って……いや違う、この顔は七香じゃない。服も着ている。


 ……もしかして、今のは夢――


 バチーンッ‼



「ッってぇ‼」



 混乱する俺の頬に、電気を流されたような痺れと石を落とされたような鈍痛が同時に押し寄せた。

 あまりの衝撃に、霞んでいた視界が一気に明瞭になる。


 俺に馬乗りになってビンタをしたのは……泥酔管理人。


 昨日は暗くてよく見えなかったが、桜色がかった茶髪が肩までかかり、寝癖でボサボサなのに艶やかさは維持されている。小顔で目が大きいので幼く見えるが、右目の涙ぼくろが色っぽい。


 じろじろ見ている俺の視線に気づいたのか、泥酔管理人は俺をさらに睨みつけた。



「なに! ……というか、どこから入ってきたの⁉」

「ど、どこからって、君が昨日倒れてたのを助けて……」

「倒れてた? そんな嘘、通用するわけないでしょ!」

「は……?」

「私を抱きしめてキスしようとしてきたじゃん‼」



 抱きしめてキス……どうやら七香の夢と現実の境が曖昧になっていたようだ。だから妙に生々しい夢だったのか。


 だとしても……



「そ、その前に、なんで俺の上にいるんだ?」

「そんなの知らない‼ あなたが私を犯そうとしてやったんでしょ⁉」



 泥酔管理人はゆるるを挟んで反対側に寝ていたはずだ。いくら夢と現実の境が曖昧になっていた俺でも、彼女を自分の上に乗っけることはしないだろう。


 となるとこの人……



「俺は君に何もする気はない。それより、君、もしかして相当寝相が悪かったりする?」

「……‼︎ う、うるさい! 警察呼ぶ‼」



 俺に馬乗りになっている泥酔管理人は、俺の股間辺りでジタバタと暴れ始めた。ただでさえ朝なのにそんな風に動かれたら……と考える暇もなく、彼女はポケットからスマホを取りだし、電話をかけようとした。


 まずい……‼



「ちょ、待て……」

「カンリニンさん、その人、なめろうさんっていうんだよ」



 すると、たった今起きたであろうゆるるが、目をこすりながら眠たげに呟いた。

 泥酔管理人は目を見開いたまま、俺とゆるるを交互に見つめている。


 助かったかもしれない……。ありがとう、ゆるる。



「……へ? えっと、女の子……」

「202号室の花栗ゆるるだよ」

「あ、おじいちゃんが言ってた子……え、なめろうってなに?」



 それからゆるるは寝ぼけ眼で、昨日起きたことを訥々とつとつと語り始めた。


 泥酔管理人はやっと自分の失態に気づいたのか、ブラジャーの中にあった鍵のくだりあたりから顔を桜色に染めてじっと俯いている。


 そしてゆるるは話し終えると、控えめなあくびをしてすぐに2度寝を始めてしまった。


 泥酔管理人と2人きりの空気が気まずい。俺は沈黙を破るため、ゆるるが来る前の出来事を話した。

 すると泥酔管理人はおずおずと俺から降り、正座になって頭を下げた。



「と、とりあえずビンタはごめんなさい。でも、私の右手はやっぱり痛くて骨が折れてる可能性があるから、おあいこということで……」



 泥酔管理人はわざとらしく右手をさすって目を泳がせている。

 いや、さっきはその右手でビンタしただろ!……というツッコミは心に留めておいた。



「まあそれは置いておいて……君……えっと管理人?」

小桜美葉こざくらみよ、です」

「……小桜さんは、なんで昨日あんなところで花見をしてたの? 管理人の仕事は?」

「ええっと……まあ、いろいろあって……しかたなく……」



 小桜は人差し指で頬をポリポリと掻き、虚空を見つめた。

 しらを切るつもりらしい。



「そもそも未成年なんじゃない?」

「そんなことない‼ 昨日で20歳だもん‼」

「え? 俺も昨日が誕生日」

「え? 何歳……ですか?」

「27歳だけど」

「わ、おじさん」

「まだお兄さんだわ!」



 小学生ならまだしも、同じ20代に『おじさん』と呼ばれるのは心底凹む。


 しかし、自分ではまだ若者のつもりでも、さらに若い世代から見たらまるっと一括りに『おじさん』なんだよな……そんな年齢で無職になってしまった事実が心を締め付ける。



「仕事は? 今日、平日ですけど」

「グサッ」

「心の声、出てますけど……もしかしてニートとか?」

「ニートじゃない! ……無職だ」

「どっちも同じじゃないですか? 今時私みたいな女子大生でも職があるのに」

「グサ……」


 

 どうやら小桜にはデリカシーというものがないらしい。精神的ダメージを最小限に抑えるため、なんとか話を逸らさないと。



「こ、小桜さんこそどうなの? 初日から仕事をさぼって」

「ギクッ」

「心の声、漏れてるよ。ゆるるは電気がつかなくて困っていたのに。仕事は責任を持たないと」

「む、無職の人に言われたくありません」

「俺は昨日までは社会人だったの」

「でも今は無職なんですよね」

「……」

「……」



 本能的に分かる。小桜とはウマが合わない。


 俺からすれば小桜の無責任さは看過できないし、彼女からすれば俺はただの口うるさい無職のおじさんでしかない。おまけに出会い方も最悪。


 きっともう、これ以上は話さない方がいい。



「じゃあ、俺はもう帰るよ。ゆるるの部屋の電気を替えて、部屋に戻してあげて」

「え、あ、はい……」



 俺は先程のおんぶで痛めた腰をさすりながら立ち上がり、玄関のドアノブに手をかけた。


 その時、玄関のすぐ横にある傷だらけのシンクと汚れたコンロが目に入った。


 あと1週間で退去しなければいけない1LDK、家賃16万のタワマン。

 七香を呼んでも恥ずかしくないようにと2年前に無理して借りただけあって、シンクに傷1つない清潔で綺麗な部屋だった。


 だがこれからは、玄関のすぐ隣にキッチンがあるここのような部屋に住むのだろう。そう思うと心が痛む。


 ……いや正確には、こういう部屋自体が嫌というより、七香を呼べそうにない部屋に住むことが辛い。


 もう彼女が俺の部屋に来ることは永遠にないとわかっているのに……。


 俺はドアノブを持つ手に力を込めて勢いよく開けた。



「……あの、なめろう?さん」

「……え?」



 声を掛けられたので振り向くと、すぐ後ろに小桜が立っていた。



「わっ、近……なめろうじゃなくて、行川ゆ――」

「すみません?」

「えっと、さっきの謝罪? ……それなら、俺も言いすぎてすまな――」

「違います。隣、住みません?」



 純粋で真剣な視線が、俺の瞳を射抜いた。

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