第一部 宿屋の娘

旅の男

 その男はふらりと現れた。

「母さん、お客さんが来たよー!」

 宿屋の娘である私は口に手を当てて家主を呼ぶ。ちゃんと勤めを果たした。えらい。

「はいはい、いらっしゃいませー!」 

 人の良さそうな笑顔かつ声とともに現れたぽっちゃり気味のおばさんは母だ。

「何泊で?」

 愛想の良い笑顔の返答に、男は銀貨二枚を出して応える。

「三泊で」

「はーい!」

 元気よく返事をしたのは私だ。

 男は私を見下ろして母の方に向く。

「この子は、娘か?」

「ええ、最近生意気盛りで、手を焼かせるおてんばでして。扱いに困っております。あ、なんならついでに買っていきますか?」

 母のタチの悪い冗談に男は

「いや、やめておこう。俺に人買いの趣味はない」

 手を振って応える。良い人そうだ、良かった。

「じゃあ、部屋案内するねー」

 私は彼を二階に連れていきながらそれとなく観察。

 黒いサー(服の一種。コートに似る)に黒いタリ(服の一種。ズボンに似る)。年齢はよくわからない。お兄さんと言えばそうかもしれないし、おじさんと言えば納得するかもしれない。

 顔はなかなか整っている。やつれているように見えるけど。近所のマーナなんかは喜びそうだ。

「お兄さんのお名前は?」

 一応お兄さんでいこう。さすが宿屋の娘、礼節をわきまえてる。

 そんなふうに自負する私に

「ガーナ」

 応えて部屋に入っていく。

「じゃ、ガーナさん! 部屋はこれで良い?」

「うむ、豪華ではないが清潔だ。良い宿屋だ」

「いや、木造建築に豪華とか求めない。そういうのは貴族野郎に求めてください」

 腰に手を当てる私にガーナさんは苦笑して、そうだな悪かったと言いながら荷物をおろして木の床に座る。そこで私は注意事項を一つ。指を一本たてて、

「最近『王国』の者がうろついてるから注意するように!」

 「王国」とは近隣のある国のこと。その国では魔法と呼ばれる人知を超えた力をつかう人々が暮らしているらしい。他にもいろいろと不穏な噂があって、人を喰うとか動物に変身するとか、聞くだけでも顔が不細工になっちゃうような話がたくさん。

 だからここの国の人はなるべくその「王国」の人と関わらないようにしている。忌避して、その恐れから彼らには近づかない。関わらない。それが最善だ。

「『王国』か‥」

 ガーナさんはちょっと顔を上げたがまた下を向いた。

「わかった」

「うん、よろしくね。でも『王国』の人って実際どうなんだろう。本当に変な力使って動物に変身したりするのかな」

「『王国』に興味があるのか?」

 再び顔をあげたガーナさんが物珍しそうに私を眺める。

「ここらの者は話したがらないと聞いていたが」

 独り言のように呟く。

「あー、うん。怖いとは思うけど、やっぱ知りたいじゃん? 噂って真実ではないけど、嘘っぱちでもない。火があるから生じる煙みたいなものだと私は思ってて、ならその火、つまり原因を知りたい」

「ふむ、確かにな。聡い娘だ」

「へっへ、お褒めいただき、ありがとーございます」

 深々とお辞儀をした私に苦笑を浮かべて、ガーナさんは荷ほどきをする。

「変身はしないさ。ただ、その力を‥」

 彼は はっとしたように口をつぐんだ。顔にありありとしまったと書いてある。それを見逃さない私は聡い子元気な子。

「え、ちょっと待って、ガーナさん『王国』について知ってるの?」

「いや‥」

 口ごもって迂闊な発言を悔やむガーナさんに私は

「お願い! 知ってるなら教えて! 」

 好奇心の塊だけ持って突撃する。

「いや、これは知り合いの言ってただけの噂だ。ほら、行った行った」

 急に邪険な態度に変わる。私は部屋を出ざるを得なくなる。

「いやん」

 部屋の扉をぴしゃりと閉められた。

 

 それから彼の二泊後。

 母さんが眉と声をひそめて私に言った。

「あのねぇ、あの人、ご飯を食べないの」

「食が細いってだけじゃないの?」

「けどねぇ、ほら、最近『王国』の噂もあるし‥」

「『王国』の人かどうか探ってこいってことだね、合点承知」

 応えながら、『王国』の噂には飯を食わないってのはなかった気がするけどなぁと首をかしげる。

「あー、でも、あと一泊だし、いいんじゃない? 関わらなくても」

「そうねぇ‥」

 母は不安そうに頷く。だいぶあの人怪しいけどね、という言葉は母の表情を見て飲み込んだ。

 

 事件が起こったのはガーナさんの三泊目の晩だった。

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