第3話 死なないでくださいと、それだけは言わせてください。

 授業中だった。

 教室全体を揺るがす衝撃と、どこかで窓ガラスが勢いよく割れる音が響いたのは。


 直後に非常ベルが鳴り響き、教室は一気に騒然となった。

 一体何が起こったのか。それを知らせたのは、緊急の校内放送だ。


 聞きても顔が浮かばない先生の声が、焦りを孕んで状況を説明し始める。

 理科室で爆発事故。火災が発生し、有毒ガスが発生した可能性があるため、生徒は至急避難をするように。


 これは訓練ではない。これは――


 僕が聴いていたのはそこまでだった。教室を飛び出して、廊下を走る。階段を駆け上り、辿り着いた四階は黒い煙に覆われていた。


「……ッ!」


 酷い有様だった。廊下に横たわるのは、はたして人なのだろうか。

 ところどころ黒く焦げ、爛れた肌はその下にあるべきピンク色を覗かせている。


 彼が生きているのか、そもそも彼なのか、それすらもわからなかった。

 ……それでも、


「行っちゃダメですよ、先輩。有毒ガスで死んだら、繰り返せなくなります」


 煙の向こうへ足を踏み出そうとした僕の手を、あの子は強く掴み取った。


「放してくれ」

「ダメです」

「あそこには、アイツが居るんだ!」


 ……そう、爆発事故を起こした理科室は、彼女が所属するクラスが実験に使用していた。

 あの煙と炎の中に、彼女はまだ居るはずなんだ。


「放してくれ! 僕がアイツを看取って――」


 言いかけた言葉は、あの子の行動に遮られた。

 あの子は僕の手を放して、後ろから僕の体に抱き着いたのだ。


「少し、安心しました」

「え?」


「先輩があの方の死に慣れちゃわないか、心配していたんです。とんだ杞憂でしたね」


 穏やかで優しい声が、僕の足から前へ進む力を奪い去る。


 あの子は僕にしがみついたままだった。あの子の柔らかさと温かみが、背中から全身へと広がって行くようだった。


「行かないでくださいとは、言いません。だけど、死なないでくださいと、それだけは言わせてください。先輩が死んでしまっては、今まで繰り返してきた全てが、無駄になってしまいます」


「…………」

「先輩」


 ――ギュッと、あの子は僕を抱き留める腕に力を込めた。


 彼女の元へ駆け寄りたい。その気持ちは依然として、僕の中で強く叫びを上げていた。


 それと同じくらい、……あの子を裏切りたくない。そんな思いも確かにあって。

 最後は理性が、僕を思い止まらせた。


「わかった」


 腹に回されたあの子の手に優しく触れて、離すように促す。

 僕の返事に安心してか、あの子はすんなりと僕を解放した。


「僕は……また、繰り返すよ」

「お安い御用です、先輩」


 振り返った僕に、彼女はいつもの微笑みを浮かべる。

 その微笑みがこの時だけは、どこか歪で儚いものに思えた。


 触れたら壊れてしまいそうな、脆く、繊細な笑みだった。


「それでは先輩、逝ってらっしゃいませ。また今日の朝、お会いしましょう」


 あの子に押されて、僕は校舎四階の窓から外へと落ちた。

 人間が落下死する目安はおよそ十メートルだと聞いたことがある。


 校舎の四階から地面までは十メートル以上の十分な高さがあった。

 一瞬だと思っていた時間は、実体験するととても長く感じる。


 校庭に避難した生徒だろうか。どこかから悲鳴が聞こえたような気がした。

 落下しながら薄れ行く意識の中、僕を見下ろすあの子の顔が目に映る。


 笑みはなかった。


 あるのは、悲痛にひたすら耐えるような、苦しげな表情だけだった。


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