第7話

何が正しいの。正しいってどういう定義なの。

昔、そう思ったことがある。

かの有名なエジソンは、幼少期には一足す一が二になることが理解できなかったらしい。でもその話にはある程度納得がいく。彼が考えたように粘土を使えば、どんな数もまとめれば一になってしまう。彼の言うことが分からない、そういう人も少なくないだろう。結局何が言いたいのかって、“正解”はないということだ。正解という言葉は私の辞書には存在しない。人間は、これがどういう原理なのかということを“暗記”しているにすぎない。本当はこんな世界に生きたくない。けれど、こんな世の中しか私の生きる世界はないから仕方ないと思ってる。幸いこの世界には私を必要としてくれている人が数人ではあるがいる。だから大切にしていきたい、そう、思う。


「おっはよー」

「はよ。元気だな」

ちょっと呆れている葉月。彼は最近私の家に来てくれている。なんでかって?それくらいはだいぶ前にも言ったよね、察して。でも私は別に来なくてもいいって思ってる。最近は自分で起きる機会も増えたし、もう頼ってらんない。それに葉月は意外と賢そうだから、これ以上一緒にいるとなにかを見透かされそうだ。私がお母さんに隠れてバイトをしていることも、一人で澪を捜索していることも、ぜんぶ葉月にだけはバレたくない。かと言って亜蓮や蒼にバレてもいいってわけでもないけれど、葉月にバレたら一番面倒そうな気がする。亜蓮は怒るけどそこまで女子に厳しくないからメソメソする真似をしておけばすぐ謝って来ると思う。蒼は勝手にしろみたいな感じ。蒼は受験勉強で忙しいだろうからそこまで干渉しなさそう。

「今日はコンビニでパン買うから先行ってて」

「んー」

葉月は私と一緒に登下校を共にする…というわけでもないけれど、一緒に行ったり帰ったりするのは五分五分かな。葉月が朝早く行かなくちゃならないって時はいつもより早い時間に起こされるし、それに葉月が亜蓮と行く時にはその後置いてかれるし。その代わりたまに購買で会うと奢ってくれるときもあるから、別に文句は言わない。

「コンビニでなんのパン買うの?」

「今日はたまごパンにしようかな」

たまごパンが結局一番美味しいと思う。たまご大好きな私にとっては最高のひと品。本当はサンドイッチにしたいけれど、二百円もするからちょっと躊躇う。スーパーでもあまり値段は変わらないし、そもそもスーパーは通り道ではないので行く気もしない。

「ん、じゃ俺行くわ。二度寝しないようにな」

「流石にしないし」

私がそう言うか言わないかのうちに、もう葉月は家を出て行ってしまっていた。

「お腹すいた…」

ぎゅるぎゅる…じゃなくてぐるぐるお腹の音が聞こえる。ぎゅるぎゅるは下痢の音だったか。でも生憎私にはそこまで時間は残されていない。仕方ないからコンビニで多めに買って学校で食べるか。私は制服を引っ掴むと、急いでそれを身につけながら家を出た。髪のセット…は、してないけれど今日はたまたま決まってるしいいか。

「いらっしゃいませー」

店員さんの元気な声に出迎えられ、私は若干引きながらコンビニに入る。パンコーナーを見てみると、ほわほわと柔らかそうなパンが袋に包まれて並んでいた。私に食べてもらいたいんでしょ、ごめんね私はあなたたちを全て食べることはできないの、また今度ね。…じゃなくって。私は端の方に並んでいるたまごパンを手に取った。たまごパンは人気なんだね、朝八時過ぎの時点でもラスニだもん。あとは牛乳パックとメロンパンを手に取った。メロンパンはここのコンビニが一番美味しいってのは割と知られた話。…もしかしたら私がそう思ってるだけなのかもしれないけれど。ここまで美味しくてサクふわなメロンパンを作れるコンビニは本当にすごいと思う。コンビニさまさまだよ。

ってのは置いといて、早く買わなきゃ。私は急いでレジにその三点を置いた。

「合計三百十一円になります」

「はい」

よっしゃ、ちょうどあった。取り出そうとしたが、慌てていたせいか百円を落としてしまった。しまった!財布をごそごそと探ってみても、百円は見当たらない。ついでに言うとお札もない。サーっと全身の温度が下がる気がした。

「ん」

どこからか、ごつごつとした手とそれに握られた百円玉が見えた。

「ちょうどですね。レシートは…」

「いります!」

私は店員さんからレシートを貰うと、乱雑に商品を鞄の中に詰め込んでレジから退いた。

「亜蓮…ありがと」

「ん、たまには居てよかったって思うだろ」

「たまにはって何」

私は少し気を悪くする。

「亜蓮はいつもいてくれて嬉しいよ?だって私のことをよく考えてくれてたもんね。亜蓮のそーゆーとこ、いいと思う」

「っ⁉︎」

亜蓮の頬がすこし赤く染まった。確かに振り返ってみれば、告白っぽかったかもしれない。

「ま、私は付き合う気はないけど。亜蓮にはもっと他の子が似合ってるよ。私と亜蓮は合わないと思う」

「…分かってるよ。凛ならそう言うと思った」

ちゃんと前も振ってくれたしね、と独り言を呟いた彼は私から目線を逸らした。

「たとえ凛が誰を好きだって、誰も好きじゃなくたって、俺は自分に正直に生きたいから。それはそれでいい?」

なにそれ、いいって言わなければいけないみたいじゃん。

「…別に、勝手にすれば」

「ははっ、ツンデレ?」

普段はツンデレでもなんでもないんだけれどな、なぜここでツンデレ要素が出てきたのかな。

「否定されなくてよかったよ。凛に否定されちゃ俺のメンタルやられるもん」

「いやいやいや、肯定して欲しかったんでしょ?」

「まあな」

得意げに言う亜蓮を殴りたくはなったが、抑制しよう。百円の借りもあるしね。今度返そ。

「てか亜蓮今日は遅かったんだね。なんかあったの?」

「別にー、ここにバイク置きっぱだったから来ただけ」

「ば、バイク⁉︎」

私は目を剥いた。亜蓮ってバイクの免許取ってたの??

「ん、夏休み暇だったから」

「…」

夏休みの間にそんなんマスターできたんだ…。そっか、バイクの免許は十六歳から取れるもんね。私の誕生日はもう少し後だけれど、亜蓮は既に五月の誕生日を終えている。ちなみに誕生日が早い順に幼馴染を並べてみると、亜蓮澪私葉月になる。要するに葉月が一番年下になるのだが、身長で言えば彼が一番高い。葉月のお父さんは身長が高いから、おそらくそこから遺伝したのだろう。この前身長を聞いたら「百八十は超えたかな」とか言われたし。“は”って何よ、“は”って。私は百六十五で精一杯なのに。女性の平均身長よりは超えていると思うけれど、私は男子に並ぶくらいになりたいんだよね。あと五センチで百七十なのに…。

「凛はもう俺に追いつくのを諦めた方がいいな」

「えっ、なんで⁉︎そんなんあり得ないよ、まだ伸びるって」

私はふるふると首を振る。だって亜蓮の身長は百七十代でしょ、いけるって!

「去年だって二センチ伸びたんだよ?夢じゃないって」

「俺は五センチ伸びたけどな」

もうそろそろ身長も伸びなくなるかな、と亜蓮。その言葉、憎たらしい。

「またバレー始めれば?今バレー部人数が少ないらしくてさ、助っ人必要なんだって」

「ふーん」

「ちょっと出るくらいならいんじゃないの」

「…」

別に私自身が大きな怪我をしたわけでもない。部活内でいじめがあったわけでもない。なんで辞めたかって、理由はただ単に面倒だったから。もう部活に振り回されたくない、そう思ったから。別にガチ勢になりたかった訳でもないし、それなりに出来ればよかった。県大会で一回か二回くらい勝って、途中でわーん負けたねってみんなで泣いて、カラオケでも行けば別によかった。

「凛?」

心配そうに眉を下げてこちらを見てくる亜蓮。

「んーん、大丈夫。別にそんなに強い訳でもなかったし、私はやらないよ」

「凛…」

亜蓮は嘘つけよ、とでも言いたげな口調だ。確かに私は弱い訳ではなかった。練習試合とかでも私のお陰で点が入ったことも少なくはない。でも強い訳でもなかった。チーム内で一番の実力者というわけでもなかったし、みんなをまとめるようなリーダー格でもなかったし、強いて言えばモブキャラと言ってしまえばいいのかな。この物語では私に焦点が合っているからモブではないけれど、もしこれが澪の友達が主人公に選ばれたら私は確実にモブになる。亜蓮とか葉月はイケメンキャラとして出てくるんだろうけどな…って何考えてんだ私。ぐるぐる嫌な方向に向かってしまうのは私の悪い癖。そのせいで寝るのが遅くなることもたまにあったりする。そんな自分が嫌いだ、なんてことは死んでも言いたくないけど。何故かって?自分が見えなくなるからだよ。

「どうせまた誘われるだろうけどな」

「そんなん知るか!」

なんて言いながら、私は亜蓮を追い越していく。

「あのさあ、このためにバイクがあるんでしょ」

「まさか亜蓮…」

「凛が変なことを言わなきゃ乗っけてあげたんだけどなー。凛は俺を怒らせたから」

ダラダラと冷や汗が流れてくる。夏でもないのにこんな汗出したくない。最近…というかここ一年遅刻スレスレで学校に来ていることが多いからな、今回もスレスレでもいいからなんとか滑り込みたい。

「えっごめんなさい!お願いします乗らせてください」

と言うと、亜蓮はくすっと笑った。

「うそうそ。ほら、ニケツしよ」

「ん」

私は亜蓮の後ろに飛び乗った。程なくしてバイクは発進した。

「気持ちい〜、バイクっていいね」

「そう言えるのなんて今のうちだよ。夏は暑いし冬は寒いし、それに雨が降ったら終わりだし」

「確かに」

そうではあるけど、じゃあなんで免許取ったんだよと突っ込みたくなるのは私だけ?

「車の免許取ろっかなって思ってる」

「いんじゃない」

「それで大人になってからまた五人で集まってさ、バーベキューでもするとか」

「あー、いんじゃない」

「それで俺が別荘を貸し出すとか」

「んー、いんじゃない」

「返し適当すぎない?」

「んー?あ、ごめん。なんか喋ってたか」

ってのは嘘だけど。

「てかさ、帰りちょっと付き合ってくんない?バイクも乗っけたしさ」

「…まあいいけど」

私はぽつりと言うと、ふわあっとあくびをした。


「荒川凛さん‼︎どうか私達バレー部の助っ人として入っていただけないでしょうか!」

亜蓮の言っていたことは本当だった。まさか学校で勧誘されるとは。

「ちょ、何で私」

「あなたがバレーで有名な夢が丘学園の出身だと伺いまして…どうでしょうか、私らと試合をしてくださらないでしょうか」

「してくださらない」

と言うと、明らかにしょんぼりした顔をする彼女。

「…あの、今日だけでも良いので」

「今日は空いてない」

「じゃあ明日からでも…」

「やだ」

「……実は私、凛さんの好物も伺いました。アイスですよね、よければ好きなものを奢ります」

「やります」

ここまで食い意地を張っていると悲しくなってくるが、仕方ない。アイスのためだ。


というわけで、私は明日バレー部の練習に参加することになった。今日は亜蓮との用事があるからね、断った私偉いでしょ。…なんて、ね。ただ亜蓮が何か奢ってくれるんじゃないかって思ってしまっているだけ。

「じゃ、帰ろっか」

「うん…どこ行くの?」

「んーとね、ここ」

と言って亜蓮はスマホの画面を私に見せてくれる。私はそれを見てテンションが少しだけ下がる。今は洋菓子の気分だったんだけどな。

「ここの抹茶アイスが美味しいらしくてさ、凛とか好きかなって思って。どう、洋菓子の方がよかった?」

げ、心読まれてる。てか亜蓮は私が洋菓子派なのを知って誘っているでしょうよ。そして私が抹茶が入っているお菓子が大好きなことも、彼は知っているはずだ。もちろん私も、彼の好きなものも嫌いなものも言えるし。好きなものは蕎麦で、嫌いなものはうどん。それを聞いたときは、蕎麦好きならうどん嫌いにならないでしょという意味の分からない解釈をする葉月もいたなと思い出す。

「うん!好き好き好き」

私はこくこくと頷いた。赤べこみたいになっているのが恥ずかしい。

「だろうね、行こっか」

「んー…あ、待って」

そういえばバイトのことをすっかり忘れてた。今日が初出勤…のはずだったのだが。

「ちょっとバイクで新高まで行ってくれる」

「は?なんでそんな繁華街に」

「バイト入れてたの忘れた。今度でい?」

「そーいうのは早く言えよな。てかなんでそんなとこでバイトしてんだよ?大体、ちゃんと許可取ったのかよ」

「お母さんに?取ってない」

「は?バイトってのは普通親に許可取らなきゃできないだろ、もしかしてお前キャバクラとかでもやるのか…」

「なわけないじゃん、ただの飲食店でサーブするだけだよ」

「本当か?そもそもなんでバイト先そこにしたんだよ。他にも安全なところがあるだろ」

「んー…」

「凛、真面目に聞けよ」

「真面目に聞いてるって。澪の手がかりを掴むためには、あそこの店員と話すしかないの。毎回高い金払ってディナーを食べに行くお金なんてないし、だったら稼いでやろうみたいな?」

「危険すぎだよ」

「分かってるって。でも私がこうでもしなきゃ、みんな動いてくれないじゃん。澪の様子がおかしいって分かってるのに、みんな何も行動を示さない。思ったより冷たい人たちだったんだね」

「凛」

「澪は今頃一人で苦しんでいるかもしれないんだよ?例えば彼氏にDVされたとか」

「縁起でもないことを言うな。言霊ってのがあるだろ、本当になるぞ」

「そりゃ私だってそんなん嫌だよ。でもそうとしかありえなくない?わざわざ自分の好みでもない服を着て、しかも髪を金色に染めるまでして。そこまで好きになった相手だもん、簡単に離してくれないし、澪だって離れないよ」

「凛、お前…」

「何?」

「…いや、なんでもない」

「今なんて言おうとしたか分かるよ」

「は」

「どうせ亜蓮は私に恋愛経験がないくせにとか思ってるんでしょ」

「…そうだな」

「本を読めば感情移入することだってできるし、私だって少しは分かりますよ」

「ふーん?」

「今嘘っぽいとか思ったでしょ」

「いーや?」

亜蓮の一言一言に腹が立つ。しかし私には時間がない。バイトいつから入れてたかさえ分からないし、シフト表も配られたはいいけれど白紙で出したし。やばい、急がなきゃ。

「時間ないからここで失礼すんね」

「〜っ、分かった!分かったから俺の後ろに乗れ」

「変な道に誘導しない?」

「しようかと思ったのに聞かれちゃまずいな」

「ねえ!」

「わーった。だからつべこべ言うな」

「つべこべ言ってるのは亜蓮でしょうが」

「ん?」

しまった。人ってのは悪口にだけ敏感に反応するんだから、面倒ったらない。

「後ろ乗れよ」

「ん」

私はまたもやスカートが捲れるのを気にせずバイクに跨った。亜蓮もそれに関してはあまり気にしていないらしい。パンツなんて勝手に見えろとでも思っているのだろうか。まあそれはそれでいいけど。

「やっぱ風が涼しいねー」

「そうだな、今のうちに楽しんでおけよ」

「亜蓮偉そー」

「だって俺が運転してるんじゃん、少しくらい偉そうにしたってよくね?」

「そうだねありがとー」

確かに亜蓮のおかげで交通費も浮いたし現地まで送ってくれるって言うし、歩く手間も省けた。あでも現地なんかまで知られたら絶対小言言われる…。

「あのー、駅まででいーから」

「そんなんじゃバイク使った意味ないだろ。大人しく道案内しな」

「じゃ、いーや。降りる」

「は⁉︎」

信号でバイクが停まっているのをいいことに、私は急いで駆け出した。

「おい!凛!」

亜蓮が怒鳴るが、私は知ったこっちゃない。脚力にはあまり自信はない。しかし持久力なら多少はあるはずだ。この前葉月と並走した時にはすぐにぜいぜい言っていたけど、それはお願いだから無視して。

亜蓮の姿も見えなくなり、私は路地に駆け込んだ。そして大事なことに今更ながら気がついた。

ここ、どこ。

急いで辺りを見回してみるが、特に見知った建物はない。唯一見慣れているといえば、チェーン店の看板のみ。どうしようとスマホを開くと、充電はない。そもそも電源が入らない。モバイルバッテリーはあるけれど貯めるのって意外と時間かかるんだよな。私はとりあえずモバイルバッテリーとスマホを接続し、それごと鞄にしまう。ここはあまり治安が良くなさそうだし、とりあえず元来た道を帰った方が無難だ。しかしそこには亜蓮が待ち構えているかもしれない。どうしよ…

「そうだ!」

バッグと制服は変えられないけれど、髪型とメイクをどうにかして、マスクを着ければなんとかなるかもしれない。私は急いで髪をひとつに括ってスカートを二、三個折ると、アイシャドーを入れ始めた。ベースを塗っている暇なんてないし第一面倒くさい。眉も軽く整えたし、ビューラーもしたし。なんで普段はしないようなものが入ってるのかって?いつか役立つだろうと思ったからだよ。ほんと過去の自分に感謝感謝。

準備が終わったところで、私はまた来た道を戻った。辺りをきょろきょろ見回してみる。亜蓮はいないようだ。ほっと息をつくと、私は駅まで歩くことにした。駅からじゃないとお店までの道のりが分からないし。すると後ろから誰かに小突かれた。

「み〜つ〜け〜た〜ぞ〜」


「何もそこまで殴ることないだろ」

「だって…いきなり背後から来られたら怖いじゃん」

それはそうである。特に女子は怖がるに決まっているだろう。私は護身術などを習っていないし、もしそこまで近づかれたら強引にどこかに連れ込まれてしまうかもしれない。

「ん、ごめん」

思ったよりあっさり謝った亜蓮に、私は目を丸くする。

「凛は最近隠し事が多すぎる。あんまりひどいと凛の母さんに報告するぞ。俺も一緒に行く」

「それだけはやめて」

別にお母さんは私が勝手にバイトしても何も言わないと思う。けれど、他のこと…澪を探しにわざわざ電車賃を使っていることがバレたりしたら絶対に怒られる。

「…分かったよ」

結局私が折れるハメとなった。


「ここかぁー、ずいぶん穴場だな」

「そんなこと言わないの!」

葉月じゃないんだからデリカシーがないことを言わないで欲しい。

「こんにちはー」

「いらっしゃいませ」

と出迎えられた男に、亜蓮の口があんぐりと開く。無理もないだろう、亜蓮でもこの魅力には圧倒されてしまうほどである。

「あー、凛じゃん。何、彼氏とバイト入ってくれんの?それとも彼氏は外待ち?」

「この人は彼氏じゃない」

「つめたー」

「…凛」

「で?ニセ彼氏くんお名前は?」

「…別にお前に教えることないだろ」

「うおー、こっちも冷たいな」

わざとらしく身体をぶるっと振るわせるルイト。

「ま、天パくんが教えてくれないならそれでいいよ。とりあえず俺は自己紹介しとくね。ルイト、種類の類に飛翔の翔って書く。よろしく」

ルイトは手を差し出した。亜蓮はその手を無視するかと思えば、素直に握った。

「で?天パくんも仕事してくれるの?」

「いや?俺はここで凛の帰りを待ってる」

「ふーん。片想いか」

「うっさいな」

男同士で会話が盛り上がってしまっているので、私はそこから外れてブレザーをリュックの中にしまった。サーブだから色々動いたりするだろうし、そう考えるとブレザーは邪魔だ。

「お、凛やるき満々だね。じゃ今日から働いてもらうよー、まずこの服に着替えな」

「うん…ありがと」

着替える場所はトイレらしい。個室に入って手渡された服をまじまじと見てみると、意外と悪くはなかった。メイド服なんて着せられたら似合わなすぎて死にそうだもん。どちらかと言えば執事服みたいな感じかな。私的には恰好いいのは好きだから良かったかな。

「おー、締まってるじゃん」

ネクタイをビシッと決めた私を見て、ルイトが納得したようにふんふんと頷いている。その隣にいる亜蓮も親指を立てている。なんだ、いつの間にか仲良くなったみたいだ。

「お客様は今はそこまでいないけれど、これから結構来ると思うから。サーブは問題ないよね、他にもスタッフはいるけど今日はフリーにしてるから凛ひとりで働いてもらうよ。スプーンとフォーク、ナイフの並べ方は分かったりする?」

「えー…わかんない」

「うちでは右側のみ置くスタイルが多いからまずそれから。内側からスプーン、フォーク、ナイフの順で並べる。

両側に置くものも一応教えるな。右側にはナイフとスプーンを置く。大きいナイフ、小さいナイフ、スプーンの順。たまにこの後に小さいナイフがついたりすることもある。

左側にはフォーク。内側から大きいフォーク、小さいフォーク。略式の時が多いかな」

「へええ…」

覚えておかなくちゃ。私はその配置をぱしゃりと写真に収めた。

「食事の配置の仕方はそこまで問題ないだろ?基本は左がご飯で右が味噌汁、真ん中にメインディッシュ、左上側に飲み物、右上側にスープってな感じで守ってくれれば大体でいい」

「了解」

「作ったらどんどん出してくから、サーブを頼む。オーダーと会計は別のやつがやってくれるから頼むな…って、亜蓮は働く気ない?」

「…」

そもそも亜蓮が名前を教えていたことに驚く。

「時給そこそこ高いよ?千円ちょっとは出るよ」

「…分かったよ」

「やったー!ちなみに亜蓮は料理できる?」

「いや?からっきしダメ」

「…そっかあ、じゃあ愛しの凛ちゃんと離れて申し訳ないんだけど皿洗いしてくんない?今日調理するやつが俺しかいないからさ」

「愛しの凛とか言うな!」

「ごめんごめんっ、口が滑った」

「わざとだろ」

愛しの凛とかこっちが聞いて吐き気がするわ。

「まあそう怒るなって。賄い付きだぞ」

「やります」

「…」


サーブの方はそこそこ忙しかった。いくらオーダーを取ってくれる人がいても、すぐには出来ないし出来上がるのがちょうどのタイミングになるとどこから運べばいいのか分からなくなる。慌てているとオーダーを取ってくれる人が運んでくれたりして、本当に申し訳なかった。最初の方は私もオーダーを取ったりはしていたが、とりあえず運ぶので精一杯。

「ごめんなさい…足手まといで」

オーダーの人…じゃなくて黒坂さんに謝った。黒坂さんは私より一、二個上くらいなのかな、年上オーラが出ている。しかしよく話してみるとあどけなさも残っていて、どこか子供っぽい部分もあるから接しやすい。

「ううん、凛ちゃん?だったよね。運動部だからかな、初めてにしてはフットワークが良かったかもね。もう少し落ち着いてサーブしても全然良いから」

「あ、はいありがとうございます…」

私はペコリと頭を下げた。一年半ほど前に辞めたはずだが、まだ運動部だと思われているのが嬉しかった。

「そんな気ぃ使わなくていーって。だって凛ちゃんとか高一?大して私と変わんないじゃん」

「え、あの失礼ですが黒坂さんっておいくつですか…?」

と言うと、黒坂さんはぷっと吹き出した。

「ぷっはははは!失礼ですがって私がおばさんみたいじゃん!私は凛ちゃんの二個上。まあ二個だけおばさんだけどねー。あ、あとそれと私の名前で呼んでくれると嬉しいんだけどなー」

「え、えーと…南さん?」

と言うと、顔がぱあっと華やぐ彼女。彼女は私が今まで出会ったどの人よりもコロコロと表情が変わる。そういうところが本当に可愛い。でも仕事をしている時はキリッとしててかっこよくて、だからこそこのギャップが強調されるのだろう。

「えー嬉し!南さんって呼ばれるの夢だったのー‼︎」

「⁉︎」

「あ、驚いてる。私ね“南”とか“南ちゃん”とかは呼ばれたことがあるんだけど“南さん”は無いんだよねー。なんか嬉しー」

確かに、“凛さん”って呼ばれることはあまりない。でも私は“凛さん”より“凛”の方が嬉しいかな。

「あ、話逸れてたか。話戻すけど凛ちゃん初めての割にはよく出来てたよ。お疲れ、賄い食べよっか」

「はい!」

私達はそんな感じでキッチンへ向かった。

「おつー」

「お疲れ。お前オーダーの紙雑すぎ。もう少し俺に配慮しろ」

「はーい」

うちでは番号で料理のオーダーを出すことになっている。私は客から番号の注文を受けるだけだから、正直言って何を頼んでいるか分からない。ルイトはそれを完全に覚えているみたいで、テキパキとオーダー通りの物を出していく。テーブルの番号はなんとか覚えたから、私はそれをとりあえずそこにサーブしていく。

「凛と亜蓮も。お疲れ」

「「お疲れ様ー」」

亜蓮もようやく終わったみたいで、ヘトヘトになっている。彼は

「トイレ行くわ」

と言って厨房から姿を消した。

「賄い用意しといたから食ってな」

と言うと、ルイトはさっとまたキッチンの奥の方に戻ってしまった。

「あれ、ルイトは?」

「まだ午後八時だけどさ、客はこれから来るようなもんだよ。だから一人でやんの」

「うえ⁉︎」

あの仕事を一人で⁉︎

「あー、そういうわけじゃなくて。厨房は一人だけど接客は別にいんの。多分ルイトのお姉さん?なのかな、昼は別の仕事をしてるけど夜は弟の仕事を手伝ってるみたいなの。といっても、来る時と来ない時があるけど」

「週に一回は来ない日があるんだけどね、その日は怒涛の日々らしいよ。一人でオーダー取って作ってサーブして会計して後片付けもして。まあだから週一回、大体水曜日が多いかな、その日は予約制になってるみたい」

「へええ…」

なかなかハードなんだな、最初はただの暇人かと思ってたけど。

「ちなみに定休日は月曜と火曜と木曜ね」

「休み多」

と言うと、くすっと笑う南さん。

「そうだ、賄いできてるって言うから食べる?」

「はい!」


賄いとは言っていたけれど、目の前に並んでいる料理はなかなかお洒落だった。お肉がほんの少しだけのっている丼とシンプルなものだったが、ソースが甘辛でクセになる。普通にお店でも出せそうなくらい美味しい。南さんはよっぽどお腹が空いていたのか、数日間何も食べていない獣のごとくガツガツと食べている。

「ん、私彼氏と約束あるから早めに出んね」

「あ、はいお疲れ様です」

私は座ったまま軽くペコリとお辞儀をする。そんな私を見て、南さんはなぜかくすっと笑った。

「凛ちゃんも早く彼氏作った方がいいよー」

「っ⁉︎」

いきなり何⁉︎

「なんてねー。ばいばい」

南さんはひらひらと手を振ると、いそいそと出て行ってしまった。残された私はひとり、丼をつっつくしかなかった。

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