第6話

澪捜索活動(仮)は二度目に差し掛かった。ついでにこの前借りたネックレスと余ったぶんのお金をを返すのも忘れないようにしなきゃ。持ち物を確認すると、私は家を出発した。

「ふう…」

息を吐いて、澪が出てくるであろう扉をじっと見つめる。ずっと見つめていれば、澪が出てきそうな気がしたから。

「あ」

澪が出てきたと思ったら、私の口が音を発してしまった。運の悪いことに今日は休日でまだ起きていない人が多いので、その声は小さいはずなのに十分響いた。もちろん澪の耳にも届いたようで、彼女は私を目で捉えるなりダッと駆け出した。

「待って!」

このままじゃ距離を置かれるだけだ。私は澪に必死で食らいつく。澪は足が速い。けれど持久力はほぼほぼない。動物に例えればチーターみたいなものだ。次第に減速していく澪の腕を、私は両手でがっちり掴んだ。

「離してよ」

澪はうざったそうに私から逃げようとする。でも体力が無くなってきたらしく、私を振り払う力はそこまで強くはない。

「待ってって言ってるじゃん!」

「ったく…凛のせいだからね」

と澪が取り出したのは、何やら黒くて四角いもの。例えるとすれば、髭剃りとかに似ているような気がする。そしてそれで何をするかと思えば…。

「痛っ」

私に当てただけなのに、なぜか物凄くビリビリ痺れる。何これ…まさか、スタンガン?

考えているうちに、澪との距離はすっかり開けてしまっていた。

「澪っ!!」

叫んでも、あの距離ならどうしようも無い。…仕方ない、これを返しに行くだけにするか。


私は繁華街への最寄り駅で途方に暮れていた。そもそもあの男がサングラスとマスク、それに帽子をかけていたから、誰なのか全く分からない。声だけなら聞いたことはあるけれど、私はあんまり声を覚えられない。もう一度聞いても、「その人だ」とはっきり言える確証がない。ウロウロしていると、営業スマイルを顔面に貼り付けた男が声をかけてくる。

「お姉さん、チラシはいかがですか。うちこれから食べ放題やるんすよ」

「結構です」

私は軽く受け流しながら通りを歩いていく。いくら治安が悪くても、多くの人がこうやってちゃんと引いてくれる。しつこく声をかけるのはごく少数派だ。まあ、当たり前か。

「んー…あ」

私はお目当ての人を見つけてまた「あ」の字を発す。でも間違ってたらどうしよう、一応あの時と同じような全身真っ黒な服装ではあるが、あの人ではない別の人に渡してしまったらどうしようと嫌な考えがぐるぐると頭の中を駆けずり回る。でも声をかける必要はなかった。その人自身が声をかけてきたからだ。

「うわお、真面目ちゃんじゃん。おひさぁ」

ひらひらと手を振られて恥ずかしくなる。皆の目線が私の方に注がれる。

「あのー、これ、返しに来ました。ありがとうございました」

私はぺこぺこしながらお金とネックレスを返した。

「ん、ありがと。ついでだから俺の店に寄ってかない?」

「は?」

と言うと、男はちょっと傷ついたようすだった。

「べっ、別にいいもん!真面目ちゃんにモテなくても他の人にモテればそれでいいもん!」

とか言ってどすどす音を立てて私の元を離れていく。


「やっぱり来てくれると思ったよ〜、真面目ちゃんだもんねぇ〜」

その言い方が癪に障る。結局私は男にのこのこついてきてしまった。良心ってのはなかなか酷いものだ。

「今来なきゃ良かったって思ったでしょ」

げ。心の声が顔に出てしまっているらしい。

「お詫びになにかサービスするよ。何がいい?」

メニュー表を見て私はあんぐりと口を開ける。…美味しそう。

「じゃあこれで」

今日はお母さんも家に居ないし、ここで昼食にしちゃお。

「んー。なかなかいいチョイスじゃん」

とか言いながら、男は厨房に引っ込んでいく。一人になったところで、私は辺りを見回してみる。

暗くてどこかムーディーなその雰囲気からして、バーのようなところなのだろう。店には私以外の客は一人しかいなかった。私と同じ女性で、彼女がゆったりとくつろいでいる様子が感じられた。

「見慣れない客ね」

そちらを見ていると、いきなりその女の人に声をかけられた。艶のある黒髪をゆるくまとめていて、すごくお洒落だ。二十代後半くらいなのかな、大人のムードと若さが感じられる。きっと常連さんなのだろう、この雰囲気とすごく合っている。

「…初めて来ました」

「やっぱり?」

彼女はくすっと笑った。その笑顔が子供っぽくて可愛かった。この人はなんでこんなに色々な部分を持っているんだろう…。

「私は海華って言うんだけど。あなたの名前は?」

「り、凛です」

「凛ちゃんね。可愛らしい名前だね」

「ありがとうございます」

凛という名前はありきたりだと思ってた。けど、そう言われてみるとちょっと嬉しくなる。

「凛って名前はたしかにありきたりかもしれないけれど、裏を返せばそれほどその名前が好きな人が多いってことだよ」

私の心を読んだように、海華さんが言った。なるほど、そんな考え方もできるのか。

「私はありきたりじゃないから、逆に嫌だったの。膿みたいじゃん、とかからかわれたことだってある。けれど、親に意味を聞いてから考えが変わったの」

海華さんの気持ちは、私には分からないはずだった。けど、不思議とよく分かるような気がする。

「それにね?好きな人が出来ると、それは変わるものなの」

「どういう…ことですか?」

訳が分からず、私は聞き返す。だって好きな人ができたって自分の名前が変わるわけじゃないし…あ、

「好きな人ができて、彼に名前を呼ばれると自分がこの名前で良かったって思えるの。凛ちゃんにはそんな経験、ない?」

確かに分からなくはない。けれどそういう経験は、もちろん私にはない。人を好きになること、それがどんなに楽しくて辛いことか、私には分からない。

「…特には」

「凛ちゃんは子供ねえ、なんてことは言わない。凛ちゃんみたいに恋愛に興味がない子がいたっておかしくないもの。恋愛は子孫を残すために備わっている感情じゃない?でも今は必ず子供を産まなきゃいけないわけじゃない。だから、自然となくなっていってもいいと思うの」

海華さんはそう言って微笑んだ。

「海華さんは…その、恋をしてよかったと思っていますか?」

私はそう尋ねてみる。不躾な質問だっただろうかと思っていると、海華さんはくすっと笑った。

「どうなんだろうね。後悔していない、って言ったら嘘になる。けれど彼への愛を知らないよりは、この苦しみを味わった方がいいと思ってる」

「…海華さんって、大人ですね」

私が紡ぎだせた言葉はそれだけだった。

「大人なんかじゃないよ。ただ、昔の初恋を引きずってて忘れられないだけ」

海華さんは私から目線を逸らして、グラスを手に取った。血のように紅い液体が彼女の口を濡らす。

「はー、やっぱワインは慣れないな。もう少しお酒に頼れればいいのに」

「ワイン、苦手なんですか…?」

私は目を丸くして尋ねる。どうしてわざわざ好きでもないワインを注文するのだろう。

「お酒が飲めれば、今までの記憶がぱーっと無くなってたりしないかなーって思ってさ。ごめんね、変な人で」

「いえ、」

私は否定しようとしたが、適当な言葉が思い当たらなかった。そこでどういうタイミングなのか、さっきの男が料理を抱えてやってきた。

「はい。当店自慢のAセットです」

営業スマイルが酷い。それは置いといて、私は運ばれたものに手をつけてみる。

「美味し…」

私が頼んだAセットは日替わりらしく、洋食がメインで出てくるらしい。今日のメニューはオムライス。デミグラスソースがかかっているタイプで、私はケチャップよりこちら派だから嬉しい。そのふわっとした卵の温かさが染みる。お洒落なレストランと家のを掛け合わせた感じのオムライスで、ちょっと甘めに味付けされている。

「だろ?この俺がシェフだからな」

彼の自意識過剰っぷりにはついていけないけれど、美味しいもんは美味しいんだからとりあえずはそれでいい。

「ルイトの作るオムライスは最高だからね」

海華さんが言った。

「ルイト…ってこの人の…?」

「そ。てか自己紹介もしせずに連れてきたの?」

海華さんは彼に避難めいた視線を送る。彼は誤魔化すようにぱちぱちと瞬きをした。

「えーと…ルイト。漢字は種類の類と、飛翔の翔。凛、だよね?よろしくな」

初めて挨拶してもらい、若干目を瞬かせながらぺこりとお辞儀をする。なぜ名前を知っているのかは疑問…というか若干怖いが、海華さんが信頼していそうな人なのでなんとなく私も信じられる気がする。

「ルイトは…今、何歳なの?」

漢字を教えてはもらったものの、ルイトは片仮名表記が一番合っていると思った。

「俺?二十歳かな」

となると、意外と差がない。私は十六歳だから、四歳差か。身長が高いせいか、もっと年上に見えたからちょっと意外だったかもしれない。といっても相変わらず顔は見えないし、完全な偏見だけど。

「ルイト、いい加減そのマスクを取ったら?凛ちゃんに失礼だと思う」

確かにそれは思う。私はあまり綺麗でもない顔面を見せているのにも関わらず、ルイトはほぼ顔を、いやそもそも肌を見せていない。流石に帽子は取ってあって癖はあるがその分艶もある黒髪が見えているけれど、長袖長ズボンでマスクもサングラスもかけたままだし。

「そうですね」

と返事をすると、ルイトはマスクとサングラスを外した。途端に私の目が丸くなった。

「綺麗…」

彼は陶器のような白い肌をしており、その白さは女子でも白い方である私よりも更にというレベル。長い睫毛がそのぱっちりした大きい目を縁どっている。鼻はすっと通っていて、鉤鼻に近い。でも外国人ほど高くはなくて、ちょっと日本人らしさも出ている。彫りは深いほうだとは思うけれど、この深さでいえばハーフくらいなのかな、というのが初見のイメージ。

「ルイトは見た目だけは十分だからね」

「ちょ、見た目“だけ”って何すか」

ルイトが慌てたように海華さんを見る。

「ルイトは私の双子の片割れの子供でね。だから私の甥っ子にあたるんだけど。お店を開いているって言うもんだから、ついつい来ちゃったの。そしたらルイトの料理に圧倒されて」

「見た目だけじゃないじゃないですか」

ルイトはそうは言ったものの、嬉しそうな表情をうまく隠しきれていない。

「この子は裏の世界ばかり知りすぎて学校にも行ってないの。だから若い女の子との出会いも初めてがホテルだったりしてね…。凛ちゃんみたいな純粋な女の子が友達になってくれるといいんだけど」

「えっ」

初めての出会いがホテルって…。どういう生き方してんだこの人。どうせ見た目がいいから女の子なんてゴミのように沢山集まってきたんだろう。てかそれより前に、…遅いが私はあることに気がつく。

「…ん?ってことは今海華さんって…」

「私?もう四十代よ」

「え!二十代だと思ってました」

「お世辞はいいのよ」

くすくすと笑う彼女は、ルイトと横に並んでもカップルとして違和感がないくらい若々しい。

「海華さんはこんな若い見た目だからよく勘違いされるよ。なんで私以外の女といんの、とか。ほんと女って面倒だって思うよ」

「あー、よくあった。それで何故か私も責められるしね」

「そうそう」

「…」

私は会話に入れず、ただ黙っているしか無かった。

「凛は、なんでここに来たの?まさか一人で観光、とかじゃないよね?誰かを追いかけてたの?」

「…」

私は黙りを貫く。

「ここに一人で来るなんて、正気の沙汰じゃないよ。いくら繁華街だからって、ここは危険と隣り合わせなんだから」

「ルイトには関係ないでしょ!」

私はそれを遮った。何も知らないくせに、大口を叩かないでほしい。

「ルイト」

海華さんがたしなめるような目線を彼に向けたのを、私は見逃さなかった。

「…確かに俺には関係ないよな。ごめん」

まるで暗記した言葉をただただ丸読みしただけのように聞こえた。

しばらく、私が出すカチャカチャとした金属音がやけに響いた。

「あのさ、凛…またここに来たりしない?」

「は?」

「凛は他の女みたいに、俺に迷惑をかけることもないだろうから。普通に客として、時には友人として、ここの店に来てくれるといいんだけど」

「…」

私はすこし悩んだ。ルイトは私の中に土足でずけずけと入り込んでくるような嫌なやつだ。今回のでそれはよくわかった。でも、ルイトの作るオムライスはすごく美味しかった。料理は自分の鏡なんだよと、いつかお母さんが教えてくれたこともある。だから、根はいい人なのだろう。それに、まだ澪のことについて正解に辿り着いた訳じゃないし、またこの繁華街に来ることだって有り得るだろう。

「わかった」

「まじか!まかないでいいんならお代はいいから!」

「ん」

私がお金のことを気にしているとでも思ったのだろうか。まあ、あながち嘘ではないけど。私が金欠なのは読者の皆様も知っていることだろうしね。

「あ、まかないと言えばバイトしてくれたりしない?うち今手が足りなくて困ってんだよね…って、ダメかな…」

「別にいいよ」

「え!?」

答えた自分自身に驚いた。何を根拠にして直感的に答えたのだろうか?…まあ、お金も集められるしもしかしたら何か澪について知れるかもしれないし、いっか。

「ありがとう!嬉しいわ」

ルイトは子供みたいに無邪気な笑顔を見せた。可愛いな。

「じゃあ、シフトは自由に組んでくれていいから!ここに書き込んどいて」

ぺらっとした白紙を渡され、私は途方に暮れる。バイトってのはシフト表とかに書くもんじゃないの?まあいいや、入れる時間帯を書いとこ。…って言っても、私大体は暇だったんだ。部活があった頃は週五とか六とか埋まってたけれど、今はすっからかん。強いていえば八時くらいに帰ればお母さんがちょうど帰ってくるかな。もうちょっと遅くすればご飯も出来てるかもしれない。お母さんもお父さんもそれくらいまで仕事をしているから、本当は自分で料理を作らなくちゃいけないとは思う。けれど学校が終わってからそんなのを始めるのは正直面倒くさい。真面目にはやってないかもしれないけど一応三百分の間は勉強してきたんだから疲れてる。これでちゃんと家事をやってる子もいるんだろうから、そういう子は本当にすごいと思う。私は壊滅的に料理ができないからやらないとは言ってるけど、もし出来たとしてもたぶんやらない。

「ち、ちなみにバイトってサーブとか…?」

「ほんとは厨房にも入って欲しいんだけどねー、…料理、得意?」

「得意じゃない」

「ははっ、即答かよ」

笑われたけど気にしない、気にしない!

「厨房に入るんだったらそれなりに勉強してもらわないとね。野菜切るのはできる?」

「もちろんできるし!」

私は言い返した。それくらい朝飯前だし!

「じゃあこっち来てみな」

とルイトに呼ばれ、私は厨房に入った。お肉のいい匂いがふわあっと私の鼻孔に入り込む。

「まず、ネギを小口切りにして」

小口切りってのは、ネギを横に置いて円柱になるように切るやつだよね。根を取ってからさくさくと切っていると、すぐにそれを取り上げられた。

「いちょう切りは?人参でやってみな」

人参を縦に置いて、それをすぱーんと半分に切る。それからまたそれを縦に分割して、それを横向きにしてから小口切りみたいにトントン切っていく。

「ん、短冊切り」

さっき四分割した人参を横に三等分して、それからそれを縦に切ってく。

「んー、じゃあスクランブルエッグ作ってみてよ」

スクランブルエッグ?ああ、あのカピカピの卵の炒め物ね。私は正直言ってそれが好きじゃない。卵は半熟なのが好きなんだよね。…アレンジってことで火は通しすぎないようにしよ。だいぶ前にお母さんがレシピを教えてくれたから、それ通りに作ってみよう。

まずは卵二個をボウルに割る。しまった、殻が入り込んだ。慎重に取り除いてから、そこに砂糖を小さじ二杯掬って入れ、一旦混ぜる。何故かって?この後の牛乳を入れる前に混ぜておかないときちんと混ざらないから。私はそれを身をもって実感したこともある。仕上がりが超絶よくなくて、あの時はちょっと凹んだな。それにこのとき混ぜるのをサボると、黄身と白身で分裂するから酷い。

そこに牛乳を適量…多すぎると卵が固まらなくなってしまうので少量…入れる。それを全て混ぜてからある程度温めて油を入れてあるフライパンに流し込む。ここでフライパンの縁にある卵が若干固まってくるから、それを真ん中に寄せていくようにする。ある程度火が通ったら余熱で片付けて、皿に盛り付けて終了!

もしかしたら料理ができる人にとってはかなり簡単かもしれない。けれど私にとっては難しいことなんだよ、お願いだから馬鹿にしないでおくれ!

「んー…まあ若干違うけど、いっか。もしかしたらこれから色々教えるかもしれないけれど、基本はサーブ頼む」

だろうね、野菜の切り方も多分違ったし。

「うん」

「今日は海華さんの貸切で誰も来ないから、予定があれば帰っていいよ」

「…」

「帰りたくない理由があるのか?」

ルイトの問いかけに、私はうんともすんとも答えずに悩みふけっていた。別に帰りたくないわけではない。でも、ここに来た意味が全くなくなってしまうから澪がどこに入り浸っているのか、それだけでも突き止めたい。土日の澪のスケジュールはよく分からないから、自分で突き止めるしかない。

「ううん、帰るね」

とりあえずここは出ておかないといけない。今日はパーカーを着てきてよかった。これなら身を隠せるし、もし澪に会ってもバレない。

「…気をつけて。駅まで送ろうか…」

「いいから」

私はそれを遮った。ルイトだけでなく、海華さんの眉も上がった。

「どうしたの、そんなに意地張ったような言い方して」

「別になんでもないです。私、急いでるので。じゃあ!」

私は急いで店を出た。後ろをくるりと振り返ると、入った時には気づかなかった文字が見えた。

『прихоть』

何語…?テイストで言えばさっきまで持っていたネックレスに書かれていた文字と似てる。でもやっぱりこれが何語かすら分からない。英語でも中国語でも韓国語でもない、それくらいの平々凡々な知識しか持っていない自分が情けない。

しばらくそこに佇んでいたが、私はまた向きを変えて歩き出した。

闇雲に探しても意味は無い。だから私は駅で待つことにした。本当は今日帰って別日に本人を尾行した方がいいのは決まってる。でも、あんまり行き過ぎるとお母さんにお金の減りようがおかしいってバレるし。そしたら交通費を自分で出さなくちゃいけないかもしれない。それだけは極力避けたい。あーでも、交通費だったらバイトで出るかな。…だったらいいんだけど。私は人を待っている振りをしてスマホをいじりながら、ちらちらと視線を改札口に向ける。この駅は改札口がひとつしかないから、ここ以外に入る場所はない。ということは、ここで待っていれば確実に澪が現れるということだ。楽しみなような、なんだかすごく馬鹿らしいことをしているような、そんな気持ちが入り混じる。

一時間経過。意外と来ない。

二時間経過。この時間はスマホを見てて良かったかもしれない。

三時間経過。金髪の女の子が通りかかったと思ったら、ケバいギャルだった。もしかしたら澪だってケバいギャルなのかもしれないけど。

四時間経過。辺りが夕焼けのオレンジ色で染まり始めた。

五時間経過。やばいお腹空いてきた。

六時間経過。流石に帰るか、私は澪を待つのを諦めて家路についた。ただ待っていただけなのに、超疲れた。私が待ってからすぐに通っていった人が、夕方になってまた通り過ぎたりしたのを見た時は正直言って泣きそうになった。だってきつくね?

「おかえり」

しかも家の鍵が空いていたと思ったらお母さんも帰ってきてるし。お母さんが帰ってきてるってことは、私はそうとう長い時間待ってたんだろう。

「ただいま」

「なんでそんなに不機嫌なの。遊びに行ってたんじゃないの」

説明するのが面倒なのでそこはスルーする。お母さんは私が休日の間に何をしているか分からないだろう。朝も早いし夜も遅いから自分が帰ってきた時に私がいるかいないかでしか判断できないし、逆を言えばそれさえ守っていたら遊びに行ったことだってバレないだろう。正直言ってバレても怒られないんだけどね。

「友達が来なかった」

うん、私正しいことゆってる。

「それはご愁傷さま」

お母さん酷…。でもそもそも私遊んでないし、とか言うと嘘ついたことがバレるし。

「そうだ、お昼代渡すの忘れたけどなんか食べてきたの?」

「あー、うん」

「はい、千円で足りる?」

ルイトのおかげで千円(?)はチャラになったしのちのちバレたら面倒臭いので押しかえ…そうとしたけどお金が足りないのは事実!貰う!

「ありがとう」

「お昼毎回は外で食べてこないでいつもはコンビニで済ませなさいよ」

「はーい」

お母さんは私が料理できないのを一番よく知ってる。だから、若干高いコンビニのパンでも許してくれる。本当は健康に良くないけれど、私が料理ができないから仕方ない。それに平日は基本お母さんが作った料理を食べれるし、言うて週二回のペース。そこまで食べてるわけじゃない、よね?

「本当は凛が料理出来たらいいんだけどねえ」

そしたら私の負担も減るのに、とか言われても無駄無駄!

「でも頑張ろうとは思ってるから!」

「そうなの?」

ルイトの厨房に立てたら教えてくれるかもしれないし、やってみる価値はあると思う。てかなんで私こんなにバイトに対して積極的なん?

「ま、それができるならカレーライスを作って欲しいかな。数日間保存ができるし、飽きないし?」

「カレーライスかぁ…」

いきなりレベルが高そうなのが来たな。野菜と水とカレールー入れて終わり!だったらいいんだけど、そうもいかない。てかそんなので料理が終了してたら世の中の主婦めっちゃ楽じゃん。…ちょっと待って、もしこれで気分を害した人がいたら申し訳ない。つまり言いたいことは主婦はめっちゃ忙しいんだよってこと。うん。

「一ヶ月もすればなんとかなるでしょ。凛は器用な方なんだから、それくらいあればカレーくらい作れるよ」

「え!?」

カレー“くらい”とは何事か。スクランブルエッグ作るので精一杯なんだぞ!?なのにそれってないよ、ないない。

「とりあえず今日の夜食べようか、ハンバーグだから」

「うえ!まじか!」

ハンバーグでこんなに喜ぶのは私くらいなんじゃないか。小学生かよって言われるかもしれないけど、別に良くない?普通の女子高生だったら脂肪が〜とかどうのこうの言うのかな。でも正直言って面倒くさいし、痩せたいとは思うけど食事制限とかほんと無理。太ってなければそれでいい!ってことにしといて!

「凛もちょっと手伝ってみなさい」

「え」

「えじゃない。カレー作るんでしょ」

まだ作るとは言ってない!と反論したかったが、仕方ない。私はお母さんと一緒にキッチンへ向かう。

「まずは肉こねるの手伝って。ハンバーグに必要な材料はなんでしょう!」

「えーと、ひき肉、卵、パン粉、塩?…あとなんかある?」

「んー違うね。パン粉は要らない。ついでに言うと玉ねぎが足りない。でその後混ぜるんだけど、どれくらい混ぜればいいか分かる?」

「ねばねばするまで!」

これには自信があった。これはテレビとかでもよく見るし楽勝。

「そう。そこからどうするの?」

「ピザみたいにパンパンして空気抜くんでしょ?」

「…そう」

私の語彙力の無さに幻滅しないで欲しい。

「まあこれからは邪魔だからあっち行って宿題でもしてきなさい」

「はあい」

自分でもそう思ったからお母さんのそばに居るのはやめておいて、取り出したのは宿題でもなんでもないもの。ゲーム機だよゲーム機。たまにはこーゆーのやりたくならない?

「凛!」

あ、バレた。

「あんた最近全然勉強してないでしょ!少しはやりなさいよ」

「えー」

学生の仕事とも言える勉強。しかしそれを好きだという学生は数少ないだろう。もちろん私も例外ではない。勉強が好きだって人はいいよね、羨ましい。趣味イコール仕事じゃん。最高すぎかよ、って

「あんまりやらないと私が抜き打ちテストするからね!基準点以上取らなかったらスマホ没収するよ」

「なにそれ!?」

約二十五年前に勉強したことなのに抜き打ちテストなんて作れんの!?って注目するところ違うか。そんなんされたら私確実にスマホ没収じゃんよ、そんな頭良くないし。

「ちゃんと勉強してたらそんなことしないから。さっさと勉強しなさい」

「…はい」

仕方ない、数学の課題が出ていたんだしそれでもやるか。いや、待ってわかんない。

「mって何!?」

二次関数ならxとyが動けば十分じゃん。なのになんでmも動くわけ!?

「お母さん教えて」

「無理」

即答された。お母さんは私の勉強にはあまり干渉しない。勉強しなさいとは言われるけど、問題の解き方だとかスケジュールとかは口出しされない。んー仕方ない、自分で解くか。確かこれって場合分けするんだよね?mがなんとか以上だとかそんな感じで。しかし場合分けの方法が分からん。え、無理じゃね?

『だれかー』

仕方ないから私はグルチャで助けを求める。

『このもんだいのときかたおしえて!』

写真付きでそれを送ると、既読がひとつ、ついた。

『ぜんぶ平仮名で送ってんじゃねーよ、小学生か』

この憎まれ口を叩く人は…もちろん、

決まってる。

『いいから解き方!』

『場合分けする。以上』

いやいやいや。その場合分けが分かんないんだってば。

『その場合分けを教えて!』

あれ。さっきまで秒もかからずについていた既読一がつかなくなった。逃げたなあいつ、ずるいのなんの。まあいいか、あとで調べよ。

分からない問題でグズグズしていても仕方ないから、私は他の教科に取り組むことにした。数学は苦手だから英語に行くか。英語もそこまで得意ではないけど、数学よりは自信ありだと断言出来る。数学ほど苦手な教科はない、と思う。

「ん」

いい匂いがすると思ったら、お母さんがハンバーグを焼いていた。この音もいいよね、じゅーじゅーと美味しそうな肉の音。

「そろそろできるよ」

「はあい」

ようやく勉強から解放される。といってもほぼやってないけど。

「お母さん、お腹空いたからご飯よそってもいい?」

「勝手にしなさい」

と言われたので、私はいそいそと炊飯器を開ける。とたんにふわっとあたたかい蒸気が飛び出してきて、そのいい香りが私を覆う。幸せだよな、やっぱり日本のお米は美味しい。まるで海外旅行の帰りみたいなシチュだが、まあいいか。私はそれをよそい勉強道具を脇へ押しやりながら自分の席に着いた。炊きたてのご飯ほどほっとするものはない。数分の勉強でも疲れるもんは疲れるんだ。

「はい」

お目当てのメインメニューが目の前に並ぶと、私のお腹がぐるぐると唸り声をあげた。狼じゃないんだからどうかそんな唸り方をしないでおくれという私の願いを他所に、その音はお母さんにも聞こえてしまったらしい。

「女子らしくないお腹の音だこと」

むっとする私を放って、お母さんは自分の分を食べ始めた。仕方ないので私もハンバーグにかぶりつく。

「んまぁ」

私の家のハンバーグはデミグラスソースを使っている。私とお母さんはケチャップよりこちらの方が断然好きだからいいけど、お父さんと恋菜はケチャップの方が好きらしい。家族で好みが分かれることが多いから、こういう時は面倒だ。今日はたまたま恋菜が外で食べてくるからデミになったけど、でも別にケチャップでもいいしそこら辺はそこまでうるさく言わないのがうちのルール。じゃないと食べさせてもらえないし。

「おひほうはま」

「物が口に入っているときに喋らない!」

「ごめんなさい!」

と言いながら、私はこそこそと食器をシンクに置いた。しばらくして、そちらの方からがちゃがちゃと食器がぶつかり合う嫌な音がした。

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