第5話

目の前に、彼女がいた。

ずっと私が探し求めていた彼女は、もう逃げようとはしなかった。

彼女の金色の髪が風になびいてさらりと揺れた。

「ようやく追いついたね」

私がそう言っても、彼女は何も返さなかった。

ただ微笑んで、私を見つめるだけだった。

「ねえ、名前を教えて」

思い出せないの。

ずっとその背中を追いかけ続けていた。

なのになぜ私は、彼女の名前すら知らないの?

「私に名前なんてないよ」

一生喋ってくれないと思っていたから、少しほっとする。

「ないわけないでしょ?待って、思い出すから」

私は彼女に向けて片手をあげた。

「いいの。凛が憶えていないなら」

「嫌だ!」

子供のように駄々をこねて泣く私に、呆れたような顔をする彼女。

「ほら言った。だから凛は嫌われるんだよ」

隣で声がした。そちらに顔を向けると、そこには桃花がいた。桃花は亜蓮と手を繋いでいて、彼には表情が全く無かった。

「亜蓮、私のこと好きだよね?」

「…うん」

眠りに落ちるかのように首を縦に動かした亜蓮。

「もう亜蓮は私のものだから。あんたには誰もいないよ。ほら葉月くんだって蒼くんだって、みんな私に味方してる」

確かによく見ると、桃花の周りを男子三人が囲っていた。葉月だけなにか強い感情が溢れだしているが、蒼はやっぱり無表情だ。

「凛!桃花を置いて逃げろ!」

葉月がいきなり叫んだ。

「えっ!?」

「俺らも置いてけ!二人のことはどうにかしておくから!」

その言葉を聞いた途端、なぜか足が動き出していた。

「はづき———っ」


そう呼んだ声で、目が覚めた。

辺りを見回してみると、やっぱり。夢だったことにほっとする。

実際に見た訳でもないのに、やけに現実臭かった。寒気がしたので少し動いてみると、冷や汗をかいていたことが分かった。

時計を見てほっとする。まだ夜中の三時だから、二度寝ができる。でもここまで冷や汗をかいたいるなら、そのまま寝る気にもならないので服を着替えることにした。

「びっちょりじゃん…」

まるで小さな子供みたいだ。ほうっとため息をつくと、私は寝巻きを全て放り出して別の服を着た。ちょっとだけ暖かくなったような気がした。

「凛…」

「ひっ」

私は声にならない叫びをあげる。振り向くと、お母さんがいた。なんだお母さんか、と

「こんな時間になにをしているの」

お母さんはちょっと嫌そうに目を擦っている。

「汗かいちゃって」

「そう。洗濯物を出すのは明日でいいから早く寝なさい」

「うん」

私はこくりと頷くと、おやすみと告げてから布団に潜り込んだ。


「ジリジリジリ…」

「ぎゃっ」

私は驚いて跳ね起きた。目覚ましで目を覚ますことができたのは久しぶりかもしれない。

「ふあぁ」

私は大きく口を開けて欠伸をすると起き上がった。急いで支度を終えてリビングに行くと、朝ごはんがラップをかけられて置いてあった。書き置きは特になし。お母さんらしい。

いただきます、と手を合わせてぽつりと言うと私はまずパンを手に取った。そのままがぶりと食らいつく。このパンはお母さんが作ったものじゃないけど、美味しい。スーパーで八個入りとかで売っているようなありふれたパンだけど、私的には十分だと思う。

そのパンを四個平らげて支度をし、急いで家を出ると、

「え、」

目の前にあるその姿を見て唖然とする。そこには葉月がいた。

「何びっくりしてんだよ。今日は亜蓮が休みだから俺が起こしに来たんだってば」

「あ、亜蓮が…休み?」

「ん。聞いてないのか?グルチャでも言ってたぞ」

私は慌ててスマホを掴み、ここのマンションの住人たちとのグループチャットを開く。ここには亜蓮、蒼、葉月、澪、そして私の五人が参加している。確かにそこには亜蓮からの手短なメッセージが書かれていた。

『休む。報告よろしく』

「これだけじゃ分かんないじゃん」

私が文句を言うと、葉月は口をへの字に曲げた。

「そんなこと俺に言われても分かんねえし。知恵熱でも出したんじゃないの」

「知恵熱ってのは小さい子供が出す熱のことだってば」

「そんなんどうでもいい。凛、お前もう少し人のことを考えろ」

葉月はうるさそうに手を振った。

「考えてるよ!だからこんなに…」

「全く、どんだけガアガア言い合ってんだよ」

「蒼!」

振り向くと呆れ顔の蒼が。

「お前たち煩い」

「…ごめんなさい」

「アヒルじゃねえんだからもう少しマンションの住人のことを考えろ」

「…はい」

「葉月もだぞ」

「はいはい」

「はいは一回!!」

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい」

「ったくもう、葉月の馬鹿さ加減は澪が居てもいなくても変わらないのな」

「はいはいそうですよ」

「ほらまたはいを二回も」

「あのっさあ」

私は二人の会話を遮った。

「あんたらも煩いって自覚、ないの?」

「……」

二人とも面白いくらいに黙った。

「まあいいや、ばいばい」

私は手を振ってからすたすたと歩き始めた。ちなみに行く先は学校ではない。元々学校には休みの連絡を入れておいた。その代わりにどこに行くかって?澪の追跡、だよ。みんな何もしないから私が行くしかないじゃん。

「あ」

やっぱり。金髪という分かりやすい特徴を持つ澪の姿を見つけるのはたやすかった。澪が私たちと家を出る時間をずらしているのは分かっているから、私はわざわざ早めに家を出てきたというわけだ。といっても葉月が来たりと想定外の出来事があったりはしたけど、もしもの時のために制服を着ておいてよかった。

澪がどこに入り浸っているのかを見に行くために、私はひそひそと彼女の後を追っていた。彼女は電車で五駅先にある繁華街に来ていた。もちろん私も同じ電車に乗り、彼女を追跡した。ちなみに交通費は自腹である。行きがたった100円前後でも、帰ってくる場合も考えなければならないのでそうなるとそこそこの支出だ。100円台でも決してバカにならない。

ここまで来ると制服を着てこなければよかったと思う。私が今着ている制服はもちろん私が通っている高校の制服で、そしてたまたま運の悪いことにかなりばれやすい。スカートがチェックなだけならまだいいが、ブレザーの胸に大きな校章も縫い付けられているし、それに何より分かりやすい。なのでとりあえずブレザーを脱ぐことにした。ちょうどそれをしまっている間に、誰かに声をかけられた。

「お姉さん可愛いねえ。俺の店で働かないか?」

ナンパかよ、と呆れた目でそいつを見る。誰ふれ構わず可愛いねとか言うやつの気が知れない。ちらっとそちらの方に顔を向けたが、またすぐに目を逸らす。なんだ、亜蓮や葉月よりかっこよくないじゃん。亜蓮とか葉月を見慣れているせいか、一般人だとどうしても見劣りしてしまう。

そして私はそれに「結構です」と答えるほど馬鹿ではない。それを無視して澪をまた目でも足でも追いかける。彼女はそう離れていないところでゆっくりと歩いていた。

「っ!?」

いきなり誰かに強引に手を引っ張られ、路地裏に連れ込まれる。やばい!そう思った時はもう遅かった。壁に押し付けられごつごつとした手で口を覆われ、何も話すことができない。その手の正体を見てみると、大きなサングラスと目が合った。やっぱり男だった。ここまで強い力とこの大きな手は男ならではの特徴だ。男はサングラスに加えてマスクをつけていて、髪までも帽子で隠していた。服も含めて全て黒色で、明らかに怪しいオーラが出まくっていた。

「こんなところに一人で遊びに来るなんてよぅ、なかなかいい度胸してんじゃねえの?」

もごもごと声を出そうとしたが、だめだ。そもそも唇が動かせない。

「さてそんな小娘ちゃんを味見させてもらおうかなぁ」

「〜っ!!」

私はその男の胸板を無理やり押し返した。ちょっとだけよろめいた男だったが、ほぼびくともしないのと同じだった。

「ん?そんな力で男に適うと思ってんの?可愛い子だね、さっきのお兄さんが言っていた意味がわかるよ」

その言葉に背筋がぞわっとした。まさかこいつ、私の後ろをつけてきた…?

「そ、ご名答」

男はそう言うとさっと後ろに手を回してきた。程なくしてぷつりと何かが緩くなったのを感じた。…こいつ、一発でホックを外した。ってことは慣れてる…?

ぎゅっと目を瞑ると、

「なーんてね」

と男は私から手を離した。

「…?」

私は訳が分からず目をぱちぱちさせる。

「一人でこんなとこ歩いてちゃ危ないじゃん。今のは俺だったからよかったけど、飢えている男だったらどうなっていたことか」

予想外すぎて何も言えない。

「さ、駅まで送るから。駅まで行けば安全だし」

「…別にいいです」

私は断った。ただでさえ怪しい人なのに、のこのこついていく馬鹿がどこにいるか。

「ちょっ」

男があれこれ言う前に、私はダッと駆け出した。澪の姿を追っていたのに、これじゃ無意味だ。もちろん澪の姿はもう見えなくなってしまっていた。それなら闇雲に探したって意味は無い。私は回れ右をしようとして、躊躇った。

ここ、どこ…?

慌てて道路の端によってスマホを開く。ネットを使えば簡単だもんね!とたかをくくっていたのが良くなかったらしい。

「ってーなぁ、嬢ちゃんよー」

「え!?」

勝手にぶつかってきて文句を言われるあのシチュって本当にあるんだと驚いた。わたわたしていると、更にじりじりと詰め寄ってくるヤンキーたち。

「えーと、あのー…」

しかもこの時に限って出てくるのは意味を成さない言葉のみ。

「ほらゆった」

後ろから、ついさっき聞いた声が聞こえてきた。

「この子俺の連れだから」

「えっ!?…す、すみませんっ」

ヤンキーは驚いたように去っていった。

「あ…ありがとうございます」

と私は頭を下げる。やっぱり後ろにいたのは、あの明らかに怪しい人だった。

「ほら言っただろ?ここは治安が悪いんだ、見れば分かると思うけど」

「はい…ごめんなさい」

私はぺこりと頭を下げた。

「ところで、俺がここでそこそこの実力を持っていることがバレたかな。これを持ってれば襲われることはないから、駅まで堂々とこれをつけていきな。駅に行ったら外していいから」

「えっ…でもこれ、どうやって返せばいいんですか…?」

「あー、どうしよっか。次来る時があったら返してもらおっかなー…最寄り駅どこ?お金出すから」

また返しに来るんだったらこれつけていく意味が無いと思うのは私だけ…?

しかしこの男にそんな口を叩けるほど私の肝は据わってない。なので私は別の疑問を口にした。

「いいですよそんなの!たかが百円前後ですから」

それにここは繁華街だからといっていつも危険な訳では無い。たまにではあるけれど私も遊びに行ったりはするくらいだ。

「百円前後だって、大切なんだから」

そう言う男を見て、初めて彼の本性が見えたような気がした。

「黙って貰っときな。罪悪感がするでしょ、今年中には返してね」

「あ、え、ありがとうございます…でもこんなに必要ないです」

手渡された千円札を見ながら、私は言った。

「べつにそれ位いいんだけどなー…まあじゃあ次の時に返して」

「…?はい」

さっきと言ってること違くないか?と疑問に思いつつ私は護身用のネックレスを首につけようとする。

「あれ?痛っ…」

ネックレスに髪の毛が絡まってしまい、しかも後ろは見えないのであたふたしていると、

「かして。やるから」

その声とともに、さっとネックレスを奪われる。一瞬だけ冷たいと思ったら、その男の顔がすぐにひょこっとこちらの方からも見えた。

「はい終わり。気をつけるんだよ」

「ありがとうございます」

ぺこぺこ頭を下げると、ひらひらと手を振ってくる。なんだか子供扱いされていていい気がしなかった。

澪を探すために旅に出たはずが、本来の目的は達成できず、そして借り物までしてしまうという大失態を負った私は、全く家に帰る気にならなかった。元々もう少し時間がかかると思っていたし、お母さんが帰ってくるまではまだ時間がある。お母さんには今日欠席することを言っていないので、家やマンション周辺で鉢合わせしたら大変だ。

かと言って行く場所も思いつかない。どうしよう…

「あ」

次ここに来るときのために男の服装を買っていこう。私の最寄りにも男装のグッズとかが売っている店があったし。私はネックレスを外すと、じっと見つめてみた。よくありがちな羽の形だった。裏を見てみると、何かが書かれている。目を凝らしてみると、次のような文字が彫られていた。

“Любовь как война: легко начать, но очень трудно кончить.”

これがどのような意味を示すのか、私には分からなかった。そもそもこれが何語なのかさえ分からない。ラテン語…かな?いずれにしろ私が分からないのに変わりはない。私はそれをポケットに滑り込ませると、改札をくぐった。


「凛」

怖い顔をした葉月が、私の最寄り駅で待っていた。

「えっ!?」

私は目を見開いた。出口も何個かあるのにどうしてここだと気づいたのか…??そもそもなぜ私が学校をずる休みしたことを今気づいたのか…??

訳が分からず、私はダッと駆け出す。

「待てよ!」

慌てて葉月が追いかけてくる。けれども人混みに紛れ、私の姿は見えにくくなったらしい。それでも葉月は歩む足を止めない。

「凛、待て!お母さんに連絡するぞ!」

私は一瞬足を止めた。その隙に葉月が私の腕を捕らえた。

「離して!」

「離さない」

葉月の握力が強すぎて、私の腕を握り潰してしまいそうだった。


「亜蓮が休んでるのってなんでか分かるか?」

いきなり路地裏に連れ込まれて言われたのは、今とは全く関係のない話題。

「…?知らないけど」

「凛がこういうことをするからだよ。澪と同じようになってしまうんじゃないかって」

「澪を下に見ないで!」

私は葉月を遮った。なんでこんなにお節介なの、いつもは関心を持たないくせに。

「澪のことを下に見ているわけじゃない」

葉月は私とは違って冷静に言った。

「ただ———」

「ただ澪がグズなところを見つけて笑いたいだけなんじゃん?」

私はまた彼を遮った。

「別にそういうわけじゃない」

「いつもはヘラヘラしてるくせに」

私の言葉に、円滑に動いていた葉月の口が止まった。たっぷり十秒ほど時間を取った葉月は、さっきよりかなり落ち着いた口調で言った。

「凛。まずは俺の話を聞いてくれないか?」

その声に私自身も落ち着きを取り戻し、こくりと頷いた。

「亜蓮は澪と凛のことでかなり悩んでいる。自分が何をしてしまったか、そして自分が何をしなければいけないかを」

「…」

私はなにかを言いかけようと口を開くが、先程の葉月の言葉を思い出してまた口を閉じる。

「凛はそのことを考えなきゃいけない。これ以上、亜蓮に迷惑をかけちゃいけない。ただでさえ澪のことで頭が一杯なのに」

前も聞いた、と言いたいのはやまやまだが私が何も気にしていなかったのも事実だ。

「…ごめん」

「俺じゃなくて亜蓮に言えよな」

「…はい」

「じゃ、これから家に帰るか」

「は!?」

なぜここでそう展開する!?

「今から学校なんて戻ったら、ふたりで何かしてきたみたいじゃねーか。それよりは家で大人しく待ってる方が懸命だな」

「…それって結局お母さんにバレるじゃん」

私がぷくっとフグみたいな顔になると、葉月は意外なことを言った。

「いいよ、俺の家に来なよ」

「えっ、いいの!?」

それは大助かりだ。

「ん。その代わり食糧を調達するのを手伝ってくれないか?」

「え?…うん」


葉月の言う「食糧を調達する」は、スーパーに行くことらしかった。そういえばこの前ここで亜蓮のお母さんに会ったな、と思い出す。

「てかマイバッグ持ってんの?」

私は何も買う予定がなかったのでマイバッグなんて持っているわけない。スーパーなんだから袋くらい用意してくれればいいのにね。いくらゴミ減らそうって取り組みでもスーパーのレジ袋はそこそこ大事だってお母さんも言ってたし。ああいう袋ってゴミ捨てるのとかだって結構使えるじゃん?

「ん、持ってる」

え、男子に女子力負けた。

「てか今日何食べたい?」

「パン…って、え?自分の分くらい出すし」

私は慌てて言う。

「こっそり出しといてやるよ」

「…じゃあ、お言葉に甘えて」

最近金欠なのは前にも言ったよね。後で借りを返せ、とか言われるかもしれないけどこの際どうでもいい。財布を出すことすら面倒だし、出したところで百円玉が数枚しか入っていない。…さっきあの怪しい男から貰った千円札を除けば、だけど。

「じゃあこれで」

私は冷蔵庫に入っているサンドイッチをカゴに入れた。ちなみにお昼代を出してもらうので私が荷物持ちということになった。

「俺のも」

葉月が持ってきたのは私よりなお悪いメニューだった。ポテトチップスにハンバーガーや炭酸飲料、グミに板チョコ、そして優に一人分はありそうな弁当。どういうメニューだ、と突っ込みたくなるくらいひどい。まあファストフード店に行ったらこんなもんなのかな。いや、そしたらこの弁当の存在意味。

「言っとくけどこれはおやつだからな!」

「ふぇ!?」

「流石にこれ全部なんて食えねえよ。お昼に食うのは弁当とハンバーガーだけ!」

「ああ」

それで納得した。それにしてもお菓子がやけに多い。

「凛にもあげるからさ」

「えっ、いいの??」

お菓子と昼食に釣られた私は、珍しくスーパーに出てからも荷物役を申し出た。


「ん〜、んま」

もしゃもしゃと口を動かす葉月は子供みたいだ。

「ちょ、手洗ってないじゃん!」

「さっきウエットで拭いたからいいだろ」

「よくない!」

と言ったが葉月は頑として動かないので、私は急いで手を洗って自分の分の昼食を手に取った。

「ふぁーやっぱおいしー」

同じように口をもしゃもしゃ動かす私に、葉月が自慢げに言う。

「だろ?」

いやいや、と首をふるふるする。

「葉月が作ったわけじゃないじゃん」

「そうだけどさ」

しばらく沈黙が続く。

「そうだ、亜蓮にあれ渡しに行くか?」

葉月は今思い出したというような口調で言った。

「ん、そうだね」

亜蓮のお母さん…真莉さんが家にいるとも限らない。前にスーパーで会った時は多分仕事帰りだったか、それかたまたま仕事が休みだったか、そんなもんだと思う。真莉さんも仕事をしているし、そんな中一人だったら亜蓮も可哀想だし。というわけで、お節介かもしれないけど私たちはゼリーとスポドリを買ってきた。それらが入った袋を持って、私たちは亜蓮の家に行った。

「ピーンポーン」

安定の間抜け音が響く。しばらくすると寝巻き姿の亜蓮が出てきた。普段は落ち着いている天パが、今日はあっちこっち色々な方向を向いている。

「なんか用」

亜蓮は眠そうに言った。具合が悪そうなのはひと目で分かった。目もとろんとしているし、マスクから少しだけ見える頬は熟れたトマトのように真っ赤だ。

「まだ調子悪いかなって。スポドリとゼリー買ってきた」

「ありがと」

俺あんまりスポドリ好きじゃないけど、と亜蓮はその袋を受け取った。スポドリが好きじゃない…?前部活に入っていた時はおかしいくらいに飲んでたくせに。

「あんとき飲みすぎたんだよ」

あの、心読むのやめてもらってもいいですかね。

「なんか手伝いしようか?」

「熱移すと悪いし、もういいよ」

と戻ろうとする亜蓮だが、玄関のドアを閉めようとした際にふらっとよろめく。

「ほら、大丈夫なんかじゃないじゃん」

と私が言うと、亜蓮は力なく笑った。

「じゃ、お願いしようかな」


「ひっど…」

「だって俺ほぼ起き上がれないし」

まあそうだけどさ、…思ったより酷かった。何かがどさどさと詰め込まれたエコバッグが数個、乱雑に置かれている。シンクにはまだ洗われていないお皿が重ねられていた。

「これ大丈夫なの?」

私はエコバッグの中から取り出した卵のパックをしげしげと眺める。

「大丈夫じゃないだろ。とりあえず俺らでやろう。亜蓮は大人しく寝てろ」

「家ん中で這いずり廻られてんのに誰が寝られるかよ」

「いいから!明日学校行けなくなるぞ」

「別にいいもん」

「はぁー…」

葉月が大きなため息をつく。

「もう、分かったから」

亜蓮はどこからともなく現れたクマのぬいぐるみと共に、自分の寝室へと戻っていった。そんなふうに亜蓮が行ったあとを眺めていると、葉月のひそひそ声が耳元で聞こえた。

「あいつのぬいぐるみ見たか?あれ俺が小学生の頃にあげた誕プレだぜ」


亜蓮の可愛い部分が見れたところで、さて片付け開始だ。どういう状況なのか分からないが、要冷蔵の食品をこのまま置いておくのはいけない。正直言ってチルド室と冷蔵庫の違いは分からないが、入れないでおくよりはマシだろう。とりあえず適当にでも詰め込んでおく。

「皿洗い頼んだ」

「おう」

と頼んだ葉月の皿洗いはしばらく終わりそうにない。そりゃあそうだ、冷蔵庫にぽんぽん突っ込んでいくのとは訳が違う。

「手伝うよ」

私は食器についている泡を流す係を申し出た。

「ありがと」

葉月と共に黙って作業をすると、みるみるシンクが綺麗になっていく。

「ぬあーようやく終わったぁ」

「亜蓮の家なんでこんなに食器置いてんだろ」

「ほんとそれな?汚いとか思わないのかな」

私たちは半分愚痴を言いながら、亜蓮の部屋をあとにした。

「あー腹減った。なんか食べよー」

「そうだねー、部屋に戻るか」

「まるで自分の部屋みたいに言うんだな」

「今日は貸切だし」

「は?」

てなわけで馬鹿みたいな会話をしてから、私たちはまた先程までいた場所に戻ってきた。

「ポップコーンやんね?」

「あぁー、いいね」

「おし!」

というわけで、よく分からないがそういうことになった。

「ぬあーぱちぱち言ってるぅ」

「当たり前でしょ」

なぜか興奮している葉月を見て、私は半ば呆れた口調で言った。どうやら葉月はポップコーンを一から作る訳ではなく、市販のポップコーンになにかを絡ませるらしい。その証拠に近くにはポップコーンと書かれた大きな袋が置いてあるし、葉月は今ポップコーンに絡ませるものを先に準備している。

「そんな不貞腐れんなよ。凛にもあげるからさ」

「そういうことじゃなくて」

やっぱり葉月は空気を読まないなと思っていると、

「家に友達呼ぶの結構久しぶりなんだよ。折角だからもてなしたいじゃん」

「…」

それならまあいいかと思いながら、黙ってフライパンを見つめる。葉月はバターを加えた後にマシュマロを加えていた。

「それって何味になんの?」

「キャラメル」

「ほんとになんの!?」

キャラメルって、あのキャラメルだよ?

私が疑問に思っていると、葉月はそこに堂々と全てのポップコーンを投入した。いい匂いがしてくる。たしかにキャラメルらしいあの香ばしくて甘い匂いがする。

「ん。食べてみな」

「んー…って、むぐっ!」

ぽっかり開いていた私の口に、熱々のポップコーンが放り込まれた。

「あふ…って、ほんとだ!」

テーマパークで食べるポップコーンの味とよく似てる。葉月ってこんなに料理得意だっけ…?

「高校にあがるときの春休み超暇でさ。何しようか悩んでたら、菜月がこれ作ってて。俺も作り方を教えて貰ったんだ」

「へぇー」

このアイデアは菜月ちゃんからか。それにしても美味しいな、私はそこら辺にあった菜箸でポップコーンをつまもうとするが、器用に避けられた。

「今のは味見。ちゃんと出来てからにしろ」

「なんで!」

葉月はひょいひょい手で引っ掴んで味見をしているではないか。

「今のは俺が料理人だから。凛は黙って待ってろ」

「む」

料理という料理をしている訳でもないのに、腹立つ。

「貸して。私がやる」

「やめろよ、凛が出来るわけないだろ」

「私にだってできるもん!」

「ばかやめろ!」

ガシャンと大きな音が鳴り、私の指になんの前触れもなく痛みが感じられた。

「凛!」

葉月の大きな声がして、私ははっとした。

「さっき火傷しただろ」

「火傷?してないよ」

私はふるふると首を振る。

「いいから冷やせ!」

大きな声で言われて、私は急いで葉月が出してくれた保冷剤を指に当てた。保冷剤を当てる前にちらっとそこを見てみると、ぷくーっと腫れていた。

「ぬあーかゆい!でも痛い!」

「引っ掻くな!」

なんて言ってしばらく落ち着いた頃、私達はすっかり冷えきったポップコーンを口にした。

「美味しいけど…冷たい」

ポップコーンはしっかりキャラメル味になっていた。私としてはかなり不思議な結果だった。

「文句言うなよ」

「…葉月、ありがとね」

「は?」

葉月は今更なんだよと言ったようすで口をへの字に曲げる。と思ったら、への字がくるりと逆転した。

「おうよ」

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