第3話
「澪…は、今日はいるな…ってなんだそれは」
先生があからさまに顔をしかめていた。澪はまるで今までのことがなかったかのように自分の席に腰を下ろしていた。それはいいことだと思う。けれど澪はあの金色の髪をそのまま下ろしていた。髪を染めるのは校則で禁止されているから誰も破ったりはしない。…いや、茶髪に染めている人くらいならいるかもしれないけれど、でも金とか銀とか赤とか、そういう目立つような髪色には染めている人なんていない。なのに彼女は大胆にもそれを無視して学校にやって来ていた。
「ちょっと職員室に来なさい」
と先生は澪を呼び出した。でも澪は応じようとしない。
「沖田」
先生は滅多に澪のことを呼び捨てになんかしない。この先生は澪に限らず生徒のことを名前で呼び捨てにする。ちょっと変わった人だと私は思ってるけど、でも私的に名前で呼ばれた方が好きだから別にいいんじゃないかと思ってる。
「…チッ」
はっきりと鳴った舌の音。私は目を見開いた。ぺちゃくちゃ喋っていたクラスメイト達がしーんと静まり返って、いやな沈黙が広がる。
「…みお」
間違いない。今、舌打ちした。…澪が。
「沖田」
さっきより強い口調で先生が呼びかける。
ガシャン!
大きな音がして、私はびくっと身をすくませる。それは澪が机を蹴った音だった。
「…ついていけばいいんでしょ」
ポケットに手を入れたまま、彼女は立ち上がった。そして私達を振り返りもせずに教室を後にしていった。
しばらくしてからまた教室内はガヤガヤとした音が戻ってきた。
「沖田ってあんな感じだったっけ!?」
「なんか萎えたかも」
と男子が声を下げることもせずに大っぴらに喋っていれば、
「澪って意外と性格悪いんだね」
「それな、猫被ってただけじゃん」
と身を寄せあって喋っている女子も多い。澪はクラスの中心的人物のひとりだから皆ここまで注目するのだろう。
「亜蓮、どう思う?」
私は亜蓮にひそひそと耳打ちをする。
「やっぱりおかしいよな、何か変なことにでも巻き込まれているんじゃないか…」
亜蓮は頬杖をついてうーんと唸っている。
「こういうのって、…親に言ったら何とかなると思う?」
「…凛はまだ言ってないのか?」
ちょっと驚いたように彼が眉を上げた。
「ううん。もう言った」
「反応はどんな感じだった?」
「…あんまり、だった」
「そっか」
亜蓮はため息をついた。
「子供ってほんと不自由だな」
と亜蓮がぽつりと呟いた。その目は空を見ていて、私もそれが描く見えない線を追う。
「…」
本当は空がこの小さな私たちを覆っているはずなのに、ここから見るとこのこじんまりとした窓が空を縁どってしまっているようだった。
「…ちょっと私、行ってくる」
「は!?」
亜蓮がどうこう言わないうちに私は駆け出した。はあはあと息をはずませて生徒相談室に着くと、私は煩くなる心臓をよそにそっと耳を傾けた。本当はダメなのは知ってる。けど、聞かなきゃいけないと思ったから。
「…あのな、沖田。お前はまだ高校一年生だろ?そんな目立つ髪の毛だったら先輩にも目をつけられやすいし、もしかしたら不良が絡んでくるかもしれない。そうやって勘違いされてしまうんだよ。本当はいい子だってことを俺は知ってるから。もしお金が無いなら俺が出してやるから、元の黒髪に戻してきなさい」
ちょうど話が始まったようだった。
「いい子ってなんなんですか」
「ん?」
「…」
澪はそれっきり喋らずに黙っていた。時がゆっくりと流れるように感じた。
「…とにかく、今回は見逃すことにするよ。その代わり、明日からきちんと黒髪に戻しておくこと。話はそれだけだ」
そしてコツコツと足音が聞こえる。やばい!
私は急いで掃除用ロッカーの隣に隠れる。それと同時にガチャリとドアが開き、先生と澪が出てきたのが分かった。先生は私と反対方向に向かってずんずん進んでいったから良かったのだが、澪はこちら側に歩んでくる。
「やっぱりいた」
澪はこういう気配を読むのが上手い。かくれんぼをしても、私が鬼の時はおバカな葉月しか見つけられなかったのだが澪は私やそれ以外の人を直ぐに見つけてしまっていた。
「お願いだから、…二度と近づいてこないで」
澪の笑顔は、一言で言えば複雑だった。少なくとも澪は自分が笑っていると思っているのか、口角はすこしだけ上がっている。けれど目は潤んでいるし、笑っているなら緩やかな弧を描くはずの口は歪だ。
「そんな、…澪」
私は何かを喋りかけようとしたが、澪はそっと私の口を両手で覆った。
「さよなら」
澪はそう言うと、さっき向かっていたのとは反対の方向に歩いていった。その方向には、昇降口しかないのに。
「待って…!!」
放っておけないと思った。放っておいてはいけないと思った。だから私は澪に追いついて、彼女の腕を掴んだ。
「は?何」
さっきの声とはまるで違った。さっきはいつもの澪が垣間見えた、そんなような気がした。けど今は最近の荒れている澪としか思えない。
「せっかく遠回しに言ってあげたのに、まだわかんないの?」
「え?」
私はよく分からずにまた聞き返す。
「…何なの、だから凛のこと嫌いなんだよ」
はっきりと言われ、私は澪からすこしだけ目を逸らす。
「お節介なんだよ。ヘラヘラ笑って心配した振りしてて、何が楽しいの?どうせ心の中では面倒だと思ってるんでしょ。やめてよ、それの方が教室で陰口叩いてるより余計うざったい」
澪の言葉は、その文字ひとつひとつが槍のように尖っていて、私の心に傷をつけた。
「おい、澪!」
この声、振り返らなくてもわかる。…亜蓮だ。
「ほらまた亜蓮じゃん。いいね、凛は守ってもらえて」
「違うだろ、俺は———」
「凛のことが好きだから。だからそうやってすぐ凛のことも追いかけるし、私のことも気にするんでしょ?」
「…っ」
亜蓮が黙った。
「別にそれ自体はいいよ、凛のことが好きなのは仕方ないことだし。そうやって今日も凛を慰めてればいいじゃん」
「澪!」
亜蓮が声を荒らげた。
「教えてくれよ。俺らに言いづらいことかもしれないけど、凛だけじゃなくて“俺が”気になるんだ」
「…ざんねん。時間切れ」
澪は笑みを浮かべた。その笑顔は『傲慢』という言葉が一番似合っていた。
「言ったから。もう私のことを追いかけてこないでね」
澪はそう言い残すと、私と亜蓮にスプレーを噴射してきた。
「うっ…」
スプレーに当たった場所…特に目が痛い。目から涙が溢れて止まらない。澪がいなくなってしまうから無理やりにでも目を開けようとしたが、痛さで開くことすら難しい。
「凛、無理するな!」
亜蓮が叫んでいるのが聞こえる。でも…
「澪…っ!みお!」
その頃澪が私達のことを振り返って、切なげに微笑んでいるのを知りもせずに。
私は彼女の名を必死に叫んでいた。
「いたたたた…」
私は保健室で亜蓮と共に休んでいた。あの後どうやら先生が通りかかったらしく、わんわん泣いている私達を保健室まで誘導してくれた。そして今保健室で処置を受けてようやく目が開くようになったところだ。久しぶりのカラーの世界は涙のせいでちょっと歪んでいた。
「一体どうしたの、二人とも。これって催涙スプレーの症状よね」
と腕組みをしながら、先生が私達を覗き込んでくる。
「遊んでて、間違えてかけちゃって…」
苦し紛れの言い訳だが、これくらいしか思いつかなかった。
「間違えて!」
その言葉を吐き捨てるように言った先生。
「催涙スプレーで失明してしまうことだってあるのよ。そんなもの持ち歩かないでちょうだい」
「…」
私達はとりあえずしゅんとした表情をしておいて、先生が
「もし気分が悪くなっても困るから、一時間くらい休んでから授業に戻りなさい。私は仕事があるから一旦空けるわね」
と言って出ていくまで互いに喋らなかった。
「ねえ、亜蓮…」
「な、何」
心做しか、亜蓮の頬がほんのりピンク色に染まっている。さっきの催涙スプレーのせいで皮膚が炎症を起こしちゃったのかな。
「疲れたね」
「…うん」
一日の疲労がもう溜まってしまったようだった。私は近くにあったベッドにダイブすると、こてんと眠りについてしまった。
「…ん」
「りん、凛!」
私は目をぱっちりと開けた。
「あれ、今何時…」
「もう五時だよ」
「えっ!!」
私はガバッと布団を跳ね除けて起き上がる。あれ、私布団なんてかけてたっけ…?
「ごめん!亜蓮待たせたよね」
「ううん、俺も寝てたから」
と首を振る彼。いつもより天パが目立っているから、彼もぐっすり寝ていたらしい。
「…帰ろっか」
「うん」
私は頷いて、ベッドから立ち上がった。ふと外を見ると、サッカーをしている高校生達が見えた。
「俺二人分の鞄取ってくるからちょっと待ってて」
「ありがとう」
私は亜蓮を見送ってから、またベッドに腰かける。
「はぁ…」
いつの間にかため息が出ていた。亜蓮と一緒にいたことに疲れていたんじゃない。…澪とのやり取りが、なにより疲れた。
何故澪はあんな態度を取ったんだろう?…私のことをあんなふうに思っていたということは聞いていて辛かったけどそれは私の個人的な感情だから置いておくことにする。一体何が…?
「凛」
と呼ぶ声で、私ははっと現実世界に引き戻された。
そこには亜蓮ではなく、
「葉月…」
残念イケメンである葉月が立っていた。
「よ」
葉月は外で運動でもやっていたらしく、汗をびっしょりとかいていた。
「澪にやられたんだろ?大丈夫か」
「うん。…」
「澪も子供だよな。あんなに幼稚になって」
その言葉に、一番子供みたいな葉月が言うなと突っ込みたくなる。葉月がいちばん何も知らないくせに、知ったようなことを言わないで欲しい。
「澪のこと、捕まえられたりした…?」
私は葉月に尋ねる。
「んーん、どっか行った。それにどうせ見つけて欲しいだけなんじゃないの?」
「…」
確かに葉月の言うことは一理ある。こういう時は、逃げるけど見つけて欲しいってことだ。見つけて欲しくないと上辺だけ思っているかもしれないが、心の中では見つけて欲しいと思っているはずだ。けれど葉月の言い方が癪に障る。その言い方が澪を馬鹿にしているみたいでなんだか腹が立つ。
「ふわぁ〜あ。まぁ学校には来たんだし、そこまで…」
「そこまでにしろよ、葉月」
亜蓮だった。彼はいつの間にか両手に鞄を抱えてドアの前に立っていた。
「おう、亜蓮じゃん」
全く空気を読まずに呑気に葉月が言う。
「澪のことをバカにすんな」
「別に馬鹿になんかしてないけど」
「葉月…もうふざけるのも大概にしてくれよ」
亜蓮が呆れた様子で言った。
「俺は自分に正直に生きてるだけだし、ふざけてなんかない」
「じゃあ凛や澪を傷つけるなよ」
「別に傷つけてない」
「そんなことなんで———」
「やめて!」
私は二人の間に入った。二人は黙った。
「確かに葉月はおバカそうに見えるけど、わざと人を傷つけるようなことは言わないじゃん。亜蓮も…分かってる、よね?」
「…」
「葉月も」
「…ごめん」
まず謝ったのは葉月だった。こういうところも葉月らしい。亜蓮はプライドが高いから、こういう時に直ぐに謝れないのが玉に瑕。
「すまなかった」
「…よし!今日は私の奢りでファミレス行こう!」
「「は!?」」
二人は口をあんぐりと開ける。その開け方と顔の角度があまりにも揃っていて、ぷっと吹き出してしまう。
「はい!二人の好きなファミレスでいいよ!」
「え、じゃあ…ガス○」
「俺デニー○がいい」
「…」
その二人の返答に、私ははーっと今日一番大きいため息をついた。
結局私達が…というよりは私が選んだのは、ガス○でもデニー○でもないファミレスだった。
「抹茶パフェとチーズハンバーグとミルクプリンとご飯のMサイズとプリンアラモードとチキン南蛮定食ください」
ちなみに抹茶パフェは私で、チーズハンバーグとご飯のMサイズは亜蓮、プリンアラモードとチキン南蛮定食は葉月が頼んだ。…奢るとか言ったけど結構頼まれてちょっと危ういかも。
「お待たせしましたー」
女性の店員さんが食事を持ってやってきた。そして亜蓮と葉月を見て目が潤み、その後私を見てあのお決まりの表情をする。全く、逆ハーでもなんでもないのに。逆ハーが存在するのは可愛げがある女の子の周りだけ。
「さぁて、いただきまぁす」
真っ先に葉月が手を伸ばしたのはプリンアラモード。そこから食べる!?と突っ込みたくなるのだが、葉月は昔からこのよく分からない食べ方をする。一度訳が分からず葉月に聞いてみたところ、『スイーツは甘いから』らしい。結局よく分からない。でももうずっと見てきたのでもう慣れっこだ。
「葉月、プリンアラモードちょっとちょーだい」
と私は隣の席にいる葉月に尋ねる。
「あー、まぁいいけど」
葉月がそう言うか言わないかのうちに、私はプリンのカラメルがかかった部分を大胆にもたっぷりと掬って口に運んだ。
「あ!取りすぎ」
葉月がふくれっ面をする。確かに自分でも取りすぎかなぁとは思ったけど、一回掬ったものを元に戻す方が嫌じゃない?と思ってやめておいた。
「ん〜おいひ」
プリンがちょうど良い硬さで、しかも上にはホイップクリームがかかっている。素直に美味しい。低コストでこんなにクオリティが高いものを出せるなんて、ファミレスって本当にすごいなぁと感嘆する。
「食べたいならそれ頼めばよかったじゃん」
「だねー。それとこれ交換してくんない?」
「んー…まぁいいけど」
というわけで取引成立。こういうのは幼なじみだからこそ出来るんじゃないかと思っている。
するとブーブーとスマホが震えているのに気が付き、私はポケットからそれを引っ張り出した。どうやら電話らしい。
「もしもし…」
「凛!どこほっつき歩いてんの!」
「え!?」
私は目を丸くする。電話の相手はお母さんだったらしく、大音量の怒鳴り声が聞こえてきた。思わずスマホを耳から離す。
「出来るだけ早く帰ってきなさい」
「…はい」
お母さんがこんなにシリアスな声を出すのは久々かもしれない。“なんで”という言葉を許さないくらいの剣幕だった。
「ごめん、ちょっと帰る。お金出しとくからお釣り返して」
私は五千円札をバンとテーブルに置いた。
「いや、じゃあ俺も帰るよ。亜蓮は?」
「帰る」
亜蓮はそう言って私が置いた五千円札を渡してきた。
「へ?」
「俺が払うから」
「お〜亜蓮イケメソ!」
葉月がおちゃらける。
「いや、でも私が奢るって言ったし…」
「俺最近給料入ったからさ」
亜蓮はバイトをしているからこのマンションにいる子供の中で一番お金を持っていると思う。だからよく奢ってくれるし、誕プレとかもかなり豪華だ。去年も服なんか貰っちゃったし。
「でも…」
「あーもううるさいなぁ、間をとって俺が払うよ」
と葉月が面倒くさそうに言う。
「いや、」
「お会計お願いしまーす」
というわけで、結局葉月に奢ってもらって帰っている途中。
「葉月、余計なことしないでよ」
「余計なこと?なにが?」
きょとんと首を傾ける彼に悪意はないのだろうが、ちょっとイラつく。
「それより凛、なんでいきなり帰るとか言い出したの?」
「…なんかお母さんが帰ってこいって」
「あー…もしかしてこれじゃね」
と亜蓮がスマホを向けてきた。私はそれにじっと見入る。
『今日の午後四時に、行方不明になっていた園田晴美さん(14)が死体で発見された。死後二日ほど経っていたようで、晴美さんの自宅から400メートル離れた○○市の公園で発見されたという。晴美さんは両手両足を縛られたまま殺害されていて、首を締められたことによる窒息死であると公表されている。警察は未成年者誘拐と殺人の疑いで男(48)を逮捕した。男は容疑を認めているという。』
「こんなん出されたら、親も気にするだろ」
「…」
私は黙り込む。○○市というのは私達が住んでいる市で、しかもその公園は私達のマンションから一キロと離れていない。ここまで近いと心配するのは当然だ。逆に近すぎて自分も怖くなってきた。
「とりあえず家まで急ごう」
私達はその言葉に頷き、足早に家に帰った。「凛!よかった…って亜蓮くんまで!もしかしてわざわざ凛を送ってくれたの!?」
「あ…はい、危ないので」
もごもごと呟く亜蓮。ちなみに葉月は
「亜蓮が送るなら俺いらないよね〜」
と言ってさっさと帰ってしまった。葉月らしい。
「いつもありがとうね」
「いえ…」
亜蓮はぺこりとお辞儀をすると、「またな」と手を振っていってしまった。
「凛、もしかしたら澪ちゃんもこれと同じなんじゃないの?」
リビングに入ったすぐ後、お母さんがスマホを見せてきた。それはさっき亜蓮が見せてくれたものと同じ画面だった。
「他のサイトでは、この女の子と犯人が出会ったものがマッチングアプリだって書いてあったの。澪ちゃんもそうやって何かに巻き込まれかけているんじゃ…」
お母さんが何故かそこで言葉を切った。
「凛、あんた大丈夫なの?顔色が悪いけど」
「え?」
「こんなこと聞かせるのは良くなかったね、ご飯作っておくから少し休んでなさい」
「あ…うん」
私はこくりと頷いて自分の部屋に行き、ぼすっと音を立ててベッドの端に腰をかける。
そんな私、疲れたような顔をしていた…?
近くに置いてある鏡越しの自分と目を合わせてみると、大していつもと変わりはしない。
もしかしてお母さん、気を使ってくれた…?
「ありがと」
誰の耳にも入らないのは分かってるけど、それでもいいから言いたかった。
次の日、澪は学校に来なかった。その次の日も、そのまた次の日も、ずっと。
「湊さん…お邪魔してもいいですか?」
私は一人で澪の家のインターホンを鳴らしていた。理由は亜蓮も葉月も忙しいらしく、暇なのが私しかいなかったから。
『ええ』
くぐもった声が聞こえると同時に、パタパタと足音がしてドアが開いた。
「凛ちゃん…もう、どうしていいか分からないの…」
湊さんは私に抱きつくなり子供のようにわんわんと泣き出した。私はどうすればよいか分からずあわあわとしていたが、少し待とうと思って湊さんの背中に軽く手を置いた。
「…ごめんなさいね、取り乱して」
湊さんは鼻を赤くしてテーブルに腰掛けていた。少し落ち着きを取り戻したのか、もう泣いてはいなかった。
「いえいえ」
私は首を横に振った。私も心配だけれども、きっと澪のことで一番悩んでいるのは湊さんだから。
ぶしゅーっと霧のような音を立てて鼻をかむと、湊さんは途切れ途切れに話し始めた。
「澪はね、家に帰ってはくるの。…でも、夜遅くにしか帰ってこないの。夜の零時すぎにチャイムがなったと思えば、あのけばけばしい格好のまま澪が立っていたりした時もあった。あの時はとても怒れなかった。まず何より澪が帰ってきてくれたことが嬉しくて…。そのまま私はずるずると引きずってしまっているの。
それに、日中澪がどこにいるか分からないの。凛ちゃんも言ってたけれど、学校にも行ってないんでしょう?…どうして学校でもない場所で一日を潰せるんでしょうね」
「…」
いつ話していいか分からず、私はずっと口を閉ざしたままだった。でもその機会は思っていたよりもすぐに来た。
「凛ちゃん、ごめんなさいね」
「何がですか?」
「澪のせいで凛ちゃんに迷惑をかけているよね。それに澪のことを何でも相談しちゃって、…本当にごめんなさい。凛ちゃんがどんなにいい子か知っているけれど、それでもストレスが溜まったりするよね」
「いえ、…」
何て言えばいいか分からなかった。でも、別に負担ではなかった。むしろ同じような境遇の人がいて、それについて話しているだけで安心するような気がする。
「もうこんな時間。長い間ごめんなさいね」
「あ、全然…」
私は首を横に振って、
「こちらこそありがとうございました」
という言葉と共に軽くお辞儀をし、澪の家を後にした。
「…らしいんだよね」
私はその後葉月と亜蓮に招集をかけ、邪魔にならないようなマンションの中庭で話をしていた。
「それで思ったんだけどさ、…尾行してみるのよくない?」
「「は?」」
葉月も亜蓮も全く同じように反応した。あれ、デジャブかな。
「やめとけよ、それに俺らが尾行なんてしてたらストーカーみたいじゃん」
「いや、別に葉月には頼んでない。私ひとりで行く」
「それこそやめとけよ」
と嫌そうに彼が繰り返す。
「一人じゃ危ないだろ」
「あーもう、本当めんどくさい」
私はむっとした表情をおさえきれなかった。
「私は女子だけど、そこまで気にするほどでもないじゃん。これじゃ何もできない赤ちゃんと一緒だよ」
「…何だよそれ」
「ふたりが忙しいのは分かってる。だからこそ、私ひとりで行った方がみんな楽でしょ?」
「余計なことをするな」
「澪が事件に巻き込まれてから探し出すの?そんなんじゃ意味ないじゃん。巻き込まれる前に止めないと」
「それじゃ凛が巻き込まれたらどうするんだよ」
葉月がこんなに怒っているのを、私は今まで一度も見たことがなかった。
「…」
私は黙って俯いた。けれど心の中は全く変わらなかった。その葉月の怒りようでも、私の意思は変えられなかった。
その週の土曜日。私は珍しく早起きをし、お母さんに行ってきますも言わずに置き手紙だけ残して外に出た。
「…あ」
身を隠す場所がないことに気がついたけれどもう遅い。澪がちょうど家のドアを開けたところだった。
でもこちら側には階段しかないし大丈夫かな。そう思っていたのが甘かった。
「…っ!!」
なんでわざわざこっちから降りてくるの!?
私は壁と壁との隙間を何とか利用して、そこに入り込む。どうにか息を殺していると、澪は何も気が付かなかったようでそのまま私の真ん前を通り過ぎていった。
「ふう…」
私はほっと息を吐き出した。さて抜けようとぐいぐい身体を引っ張るが、抜けない。
それは無い、まだ澪を追いかけなきゃいけないのに…!
「バカだな」
と低い声がした。
「は、葉月…」
部屋着であろうスウェットを身につけたまま、葉月が腕組みをして壁に寄りかかっていた。
「ごめんなさい…」
と私は謝りながらコップにお茶をこぽこぽと注いでいた。あの後引っ張り出してもらう代わりにお茶を淹れろという意味のわからない取引をして、私は葉月の家に上がり込んでいた。葉月のお母さんもお父さんも仕事らしく、それに妹の菜月ちゃんまでも既に家にはいなかった。
「亜蓮はお前のことを信じてたんだぞ。だから俺だって信じてあげようかなって思ったのに、たまたま通りかかってみたらこの有様ね」
「ごっ、ごめん…」
亜蓮は私を信じてくれていたんだ。その事実を耳にして、申し訳なく思う。亜蓮は私のことを大事に思ってくれている。それ自体は嬉しいけれど、私は守られてばかりじゃ嫌だ。その気持ちの方が、嬉しさなんかよりずっと強かった。
「ごめんごめん謝るより、約束してくんない?もう二度とひとりで澪を探さないって」
「…」
そんなの、言えるわけないじゃん。たとえ“ひとりで”って言われても、ふたりは忙しいから結局は私だけで頑張るしかないじゃん。だから私は黙った。
しばらく、辺りがしーんと静まり返る。
「……俺らだって、心配していないわけじゃないんだよ」
不意に葉月が言った。
「……」
また黙る私。なにも言えなくて、そんな自分が歯がゆい。
「けど、ミイラ取りがミイラになるのは良くないじゃん?」
「……うん」
「だから、どうやったらそんなヘマをせずに澪を取り戻せるか考えてるんだよ」
「…そっか」
てっきり葉月はあのいつもの無気力さが出てめんどくさいから〜って言うかと思ってたのに、葉月なりに考えていたらしい。
「……ごめん、葉月は全く考えてないと思ってた」
私は正直にそれを伝える。笑うかと思えば、逆に彼は真剣な表情になった。
「最初はそう思ってたよ。澪がグレたくらいしか思ってなかった。けどあんな事件聞いたら流石に黙ってらんないよな」
「あんな事件……?」
私は首を傾げる。
「澪が私と亜蓮に催涙スプレーかけたこと?」
「それもそうだけど、俺が言ってるのはそれじゃなくて」
葉月は首を振った。
「知らない?昨日の」
「え?」
正直言って昨日何があったっけ、レベルだ。昨日私にあったことといえば、授業中に寝てたのが先生にバレて、しかもくすくす笑われたことくらい。澪は学校に来ていなかったし、特にこれといった事件もなかった、……はずだけど。
「昨日の夜くらいかな。湊さんから聞いたんだけど、澪が通りすがりの中学生を殴って腕を骨折させたんだって」
「み、澪が……」
澪は私と変わらないくらいの普通の女の子。な、はずだった。けど、いつから変わってしまったの……?
いつだったかな。高校生になってすぐ後だったか、私たちは喧嘩をしたことがある。口喧嘩だけならよかったのだが、お互いイライラしていたのかどんどんエスカレートしていき、ついにはお互いに手を出し合うほどの激しい戦いとなった。亜蓮や葉月、そして蒼が止めにかからなければ延々と続けていたかもしれない。けれどその時は私の圧勝で、その差は澪が私に全く歯が立たないほどだった。
その時今のように腕を骨折させるほどの強い力があったならば、喧嘩は澪の圧勝だったはずだ。澪は意地っ張りだから、怒られるのを覚悟で死ぬ気でかかってきたはずだ。なのに澪はあっさり負けた。だから澪はこの少ない期間…と言ってもどれくらいかは分からないけど…であれほどの力を身につけたということが推測できる。そんな力をつけるのにはかなりの時間がいるはずなのに、なぜ……?
「これ結構有名な話だと思うけど。マンションで持ちきりの話なんじゃないかな。湊さんも大変だよね、あんな娘持ってさ」
「違うでしょ」
私は葉月の言葉を遮った。
「結局澪がそういう人だったってことだよな。俺らがただ単に気付いていなかっただけで」
「澪のことをそんなふうに言わないで!」
私は叫んだ。
「実は、ってことだってあるじゃん。俺らは幼馴染だろうけど、でも幼馴染だからって何でも知ってるわけじゃないんだからな。とりあえず今はそっとさせてあげろよ」
「……」
私はまた黙ってしまった。そんな私に葉月ははーっと大きなため息をつき、こう言った。
「……お茶ありがと、とりあえず帰って頭冷やせよ。もう澪の尾行なんてできないからな」
「ごめん」
葉月はきっと、……。
私は葉月に謝り、彼の部屋を後にした。
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