08-03


 当然だが、現実に帰ってきた俺のそばに、やっぱり後輩はいなかった。

 あのときのあれが、やっぱり最後のお別れだった。もう少し気の利いたことのひとつでも言ってやるべきだったかもしれない。

 

 お前が好きだとか(それは言った)。

 お前にそばにいてほしいとか(似たようなことは言った)。


 気が利いているかどうかはともかく、まぁ悪いお別れではなかったのかもしれない。

 いずれにせよ彼女は傍にいない。

 

 寂しくないのはどうしてだろう。


 彼女のことを思うと胸が詰まる。けれど、それでもどこかに、甘酸っぱいような幸福感があった。

 つまり、そういう存在なのだ。俺にとって彼女は。





 シラノはヤガタに殺されかけた。と、その年の冬、俺はシラノ本人から聞いた。

 彼女はかなり危険な目にあったそうだが、黒スーツに助けられたという。


 やっぱり、物事はそんなに単純にはできていない。

 そのことを嬉しく思うのは、ちょっと無神経だろうか。




 今でも妹のすすり泣く声が壁越しに聞こえる夜がある。

 俺はそのことに気付いても、やはり何かをしてやれる気がしない。


 だって彼女の悲しみは彼女のものなのだ。

 俺にできるのは、彼女を泣かせないように努力することだけで、泣きたいときはどんな状況だろうと泣いてしまうものだ。

 俺はその数を減らしてやれたらいいと思う。

 少なくとも、俺を原因に涙を流すことがなくなればいいと。


 世界中の人が周囲の人間に対してそういう態度でいられたら、ひょっとしたらこの世の中の悲しみはずいぶん減るんじゃないだろうか。

 そんなことを大真面目に考えたりした。





 自転車を漕いで、携帯ショップに向かう。携帯の修理だ。

 

 受付の女の説明はよく分からないが、とにかく音声が小さくなっているらしい。設定ではなく機器の問題だという。

 俺は携帯を預けて、代替機を借りた。

 五日後、携帯は新品同様の姿で帰ってきた。


 俺は帰ってきた携帯をめいっぱい充電した。


 メールが届く。返す。電話が来る。出る。電話を掛ける。繋がる。


 たったこれだけのことが、あれだけ込み入っていたのだ。





 秋を過ぎ、冬を過ぎ、春になっても、俺は足しげく屋上に通った。

 誰もいない場所。閉ざされ、開かれた空間。俺はそこで考えごとに耽る。


 結局のところ俺はそういう性質の人間だろう。趣味なのだ。考えるのが。

 だいたいネガティブなことを考える。でも、あんまり落ち込んだりはしなくなった。

 ネガティブさを楽しめるようになった。だんだんとそういう情緒を理解していく。


 これを成長というのか老いというのかは分からないが、昔は受け入れられなかったことを、今なら簡単に受け入れられるような気がしている。

 頭が柔軟になったのだ、と思いたい。


 時間が経つにつれ、若返っているような気がした。






 半年後の春先に俺はコンビニでバイトを始めて、煙草の銘柄やレジ打ちの仕方を覚えるのに四苦八苦した。

 ピーク時の混み合いはひどいもので、俺はすぐに混乱してわけがわからなくなってしまう。

 それでも先輩に教えられ、助けられながら、なんとか続けていくことができた。


 思えば不思議なことだ。俺はどうしてコンビニを選んだんだろう。

 おそらく、俺が一番苦手とするジャンルの仕事だ。


 でも俺は選んだのだし、それは多少なり俺自身に変化をくわえたような気がする。

 あるいは、変化したと思いたいだけかもしれないが。


 いずれにせよそういった種類の変化を繰り返すにつれ、思うところがあった。


 あの"ズレ"について。






 魔法使いは春に街を去った。

 別れの日、彼女は早朝、スクーターにリュックサックだけを背負って去って行った。


「いい経験になったよ」

 

 彼女は笑う。


「それならよかった」


 と俺がおどけると、「調子に乗るな」とまた笑った。


「まあ、元気にやりなよ。アンタに会えてよかったよ。八割くらいはね」


 彼女は笑う。

 そうして俺たちは別れた。みんな去っていく。

 俺は寂しいようで、寂しくないような、妙な気持ちだった。

 

 孤独というものは、ひとりぼっちでいることではなく、これから先もひとりぼっちに違いないと感じたときに存在するものなのかもしれない。

 少なくとも、俺は今ひとりだが、家に帰れば妹に会える。その気になればいろんな人に会える。

 一人じゃないというのは、たぶんそういうことだ。






 秋の終わりごろ、公園のベンチの下で、一匹の捨て犬を拾った。家に連れて帰って、そのまま飼うことになった。

 少なくとも捨てまい。と思っていたのだが、親にはあまりいい顔をされなかったし、金はやたらかかる。

 バイトを始めることになったのは、結局のところそういう事情もあった。


 犬の名前は妹がつけた。由来はきかされていないが、少なくともまともな名前だ。犬にまともな名前をつけるというのも少し可笑しい。


 春には、ときどき妹と母が一緒に散歩に連れて行った。


 俺は彼女たちが家を出ている間、自分の部屋の窓を開いた。すると気持ちのいい風が吹き込んでくる。

 どうせなのでドアを開ける。二階の廊下に風が吹いていく。俺は妹の部屋の扉、両親の部屋の扉を開けた。

 ついでに二階の廊下の窓を開けた。


 風が通り抜ける。空気が入れ替わる。





 俺は文化祭の前に一本の小説を書き上げた。くだらない小説だった。

 誰も俺の小説を面白いとは言わなかった。本当のところ誰も読んでいないのではないかと今でも思っている。

 けれど部長は俺を褒めた。読んだのかどうかは信用していない。


 彼女は引退して、俺が部長になった。なんでだよ、と俺は思った。普通は二年がやるもんだろ、と。

 でも、そういえば文芸部に二年の生徒はいなかった。


 俺は、かくして部長になったのだ。

 




 ある予感が、ずっと胸のうちにあって、その予感は二年後の春になってから、より鮮明になった。

 その日、俺は妹と街へ繰り出して、ホームセンターにペットボトルのジュースを箱買いしに出かけていた。

 春休みの、最後の一週だった。


 妹も高校にあがる春だった。時間は過ぎていく。ハカセはとっくに進学していた。

 俺は徐々にトンボを考えても涙を流さなくなった。悲しくなくなったのではなく、慣れてきたのだ。彼のことを考えることに。

 そうすると、不思議と、彼としたやり取りや、彼の仕草のひとつひとつ、彼のふとした言葉を思い出すようになった。

 忘れていたはずの記憶が、何度となく反復され、触発され、思い出されている。


 俺は知っていたようで知らなかったトンボのことを思い出していく。


 俺たちは帰りに、駐車場にとまっていた移動販売のタイヤキ屋でカスタードクリームのタイヤキを買った。


 俺と妹は、しばらく肌寒い駐車場で話をしていた。どうでもいい話だ。そういうタイミングがある。

 こうした時間をとれるようになったことは、いくらかの変化を示しているかもしれない。


 無駄なことなどなにひとつない、と言うか、無駄なことがあってもいい、と言うか。


「あってもいい無駄」は既に「無駄」ではないので、やっぱりどっちでもおんなじことだ。


 ふと、駐車場にとまっていたオデッセイから一人の少女が下りてきた。見知らぬ少女。

 彼女は鯛焼きを五個注文した。家族の分だろうか。


 クリーム三つ、あんこ二つ。俺は何の気なしに彼女の顔を見る。


 風が吹く。彼女の髪が揺れる。


 不意に彼女が振り向いて、目が合った。


 俺は急に泣き出したい気持ちになった。懐かしいような、寂しいような気持ちで、胸から何か強い鼓動のような感覚が突き抜けてくる。

 心臓が強く鼓動した。


 彼女は一瞬、目を見開いて、息を呑み、おそるおそるといったように口を開いて、


「きいくん?」


 と言った。





 彼女は俺と同じ学校に入学した。妹と同じ学年。

 俺は高三で、彼女は高一で、妹と同い年で、つまりは後輩だった。

 

 俺は最初、彼女とまともに話せる気がしなかった。いまさらどんなことを言えるというのだろう。

 予感が現実のものになったことには、喜びよりも呆れのような感覚しか出てこない。そういうものなのだ。

 あまりに唐突な出来事は、驚愕を通り越してあきれしか運んでこない。


 俺は何もかもを喜ぶことはできない。誰も彼もについて祈ることができない。

 今も、胸を焦がすような憤りはなくなっていない。あの漠然とした怒りの感情は。

 あのカリオストロが俺の胸の内に住んでいるのか、と大真面目に考える。

 おそらくはあれすらも俺の一部だったからだ。


 自己完結。そういうものだった、と納得すること。


 それでも、彼女とふたたび会えたことが、俺はたまらなく嬉しかった。

 俺は彼女のことが好きだったからだ。




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