07-01
「ずっと考えてたんですけど」
と後輩は口を開いた。彼女は道の真ん中に立っていた。俺たちはその場で言葉を交わす。
「やっぱり、そういうことなんですよね?」
「なにが?」
「わたし、いないんですよね、本当は」
「さあ?」と俺は首を傾げた。そんなことは確認のしようがないことだ。
仮に彼女が現実にいないとしても、今目の前には確かに居る。
そういう意味では「いる」と言うことができる。
だが現実には「いない」。……かもしれない。俺が知らないだけで、確かにいるのかもしれない。
少なくとも彼女のいる場所は俺の身の回りではないし、そうである以上、彼女の居場所は彼女にしかわからない。
「居てほしいと思っているけど」
「どうして?」
何かを期待するような顔で、彼女は訊ねた。俺はためらったが、結局言った。
「たぶんお前のことが好きなんだよ、俺は。お前に傍にいてほしいなと思ってた。なぜかは分からないけど。いろいろなことが混乱してるんだ。順番が入れ替わっていて、時間と時間が繋がり合ってない。でも本当にそう思うんだ。矛盾してるけど。そんなふうに考えてる」
彼女は何も言わなかった。
「本当のことを言うと、俺はお前のいない場所になんて行きたくないんだ。お前がいるなら現実だろうと夢だろうとなんだっていいんだ。気味が悪いって思うかもしれないけど、そうなんだ。俺にとってお前はそれくらい大きな存在だった。俺と現実を繋ぐ糸みたいなもんだった。だからお前がいなくなるとつらい。お前がいない場所になんて行きたくないんだ」
彼女はそこで初めて笑った。
俺は胸が詰まるような気持ちになった。
「でも、きっとわたしはいないんですよね。外側には、ついていけないんですよね」
「そうだろうと思う」
根拠はないけれど、実際、そうとしか思えない。彼女もきっと似たようなことを考えているんだろう。
「なあ、本当のところ迷ってるんだ。俺にはきっと何も変えられないと思う。お前がいない場所にいくくらいなら、俺はずっとここに居たいような気がしている。それじゃ駄目かな? お前の意思を無視して言わせてもらうと、俺はそうしたくてたまらないんだ」
彼女はからからと笑う。それはきっと彼女なりの強がりだった。
そういう風に見える。ひょっとしたら見えるだけなのかもしれない。錯覚。
俺は彼女の仕草を都合の良いように解釈している。
どんな人間関係にも、そういった要素があるように。
「子供じゃないんですから」
と彼女は言う。
子供だよ、と俺は口に出さないで答えた。
「待っている人がいるんでしょう?」
「どうだろう。もう俺のことなんて待っていないかもしれない」
「いつまで拗ねてるつもりですか」
彼女は苦笑する。俺はずっとこんなふうに彼女と話をしたいと思っていた。
「なあ、この世界って、俺が作ったんだってさ。信じられるか?」
「信じますよ。部長が言うなら」
「お前、悪い男にだまされそうだな。気をつけろよ」
「もう騙されました」
「……俺、もうここから出ようと思う。もう終わらせようと思う。なんでかみんなを巻き込んじゃったけど、どうにかして終わらせようと思う。それは俺の問題なんだ」
「どうやって?」
「分からないけど、会わなきゃいけない奴がいる」
「わたし以外にも?」
「当たり前だろ?」
「そうですか。もう行っちゃうんですね?」
「そう言ってる」
彼女は笑った。その笑顔は大輪の向日葵に似ている。
後輩は俺に背を向けて歩いた。十歩ほど進んでから、体ごと振り向く。
彼女は綺麗に笑った。
「それじゃ、本当にこれでお別れです」
彼女のその表情を、いつかどこかで見たことがあるような気がした。
そして彼女は、思い出したような表情で付け加える。
彼女の声は風にさらわれて、俺にはよく聞こえなかった。
それでも俺は、彼女の声に強い動揺を覚えた。なにひとつ覆い隠されていることはない。明示されている。
彼女があんまり綺麗に笑うので、「さよなら」と俺も笑った。
俺は彼女の後姿をずっと目で追いかけた。曲がり角をまがって見えなくなっても、彼女の歩く道筋を想像した。
そして彼女は、俺の近くから消えてしまうのだと考えた。けれどどうしてもそれが想像できない。
彼女がいない世界で、俺はちゃんと俺としてやっていけるのだろうか。やっていけていたのだろうか。
それでもやるしかなかった。
誰の手を借りるわけにもいかない。俺自身の意思で、立ち向かわなければならない種類の問題だ。
誰も俺を待っていなくても、誰も俺を必要としていなくても。
さて、と俺は思う。
俺には会わなければならない奴がいる。
◇
……ようやく一人きりになった。
なんだか肩の力が抜けていく。自分というものに張り付き離れなかった自分自身の付属物が、綺麗に剥がれ落ちた気がした。
今の俺はからっぽだ。だが、それを悲しんでいたのは余計な付属物でしかなかったのだろう。
からっぽであることはちっとも悲しくない。少なくとも満たされていることよりは。
俺は少女の言葉を思い出す。そして自分がどうしてここを出る気になったのかについて考えた。
彼女に対しては適当にごまかしたが、俺だってはっきりとした理屈を持って出ようと思ったわけではない。
根本的な部分に、変化はまったく訪れていない。俺はひとりぼっちで、からっぽで、そして誰にも必要とされていない。
どこに行って何をしたところで、結局は無意味だ。俺はいろいろな人を傷つけてきた。
でも、そんなことはひとまず置いておく。
いいかげん堂々巡りに嫌気がさしてきたのであまり考えたくない。
けれど言葉にしてはっきりと残さなくては、また分からなくなってしまうだろう。
別に欲しいものなんてそんなにないし、会いたい人もそんなにはいない。
でも、まったくいないわけじゃない。そのあたりが重要になるのだろう。
この街は閉ざされている、かつ開かれている。
何が原因でこんなことが起こったのかは分からないが、この世界は俺が作り出した偽物だ。
なぜそんなことができたかということにも、あの魔法使いの女なら説明をくわえられるのだろう。
けれど今はそんなことはどうでもいい。現象は現に起こっている。
俺はこの街をつくりだした。そして悲しみに沈んでいる人たちのことを考えた。
苛み、苛まれている人について考えた。
ここは墓場だ。悼む場所だ。身勝手な悲しみを他の人間に押し付ける場所だ。
この街の現実性について考える。ついさっきまで切実なものだったリアリティは失われて、この世界の正体は明示された。
リアリティがついに失われたのだ。俺はもはや夢の中にいる。死んだ人間が生き返り、生きた人間が死に、消える。
俺はこれほどの回り道をしてやらないと、自己完結や自己確信のひとつだってできなかった。
他の人はすいすいやっていけるのかもしれない。もしかしたら他の人も努力しているのかもしれない。
いずれにせよ、悟ったふりをして言い訳を続ける自分自身と別れるため――今度こそ本当に決別するためには、この手順が必要だった。
少なくとも俺にとっては。
こんな世界を経由してみなくては、俺はもう二度と歩き出せそうになかったのだ。
俺は一度逃げて、逃げて、それから眠って、眠って、何もかもを忘れようとして、忘れた。
その結果、俺には何も残らなかった。形あるものも形ないものも何ひとつ残らなかった。
当たり前だ。俺はなにひとつ手に入れようとしなかった。欲しくなかったし、手に入ったものも捨てるようにしてきた。
俺は自分自身をそうすることでしか維持できなかった。どうしてそんな形になったのかは分からないけれど。
だからこんな世界にひきこもり、自分とだけ対話し、あげく寂しくなって人を巻き込んだ。
都合のよい妄想<ガラテア>に逃げ込んだ。この世界はそうやってできた。
そして勝手な危機感から、絶望的な現実<カリオストロ>に思いを巡らせた。
そして今ならば言える。そのどちらも、決して現実ではないのだ。
悲観的か楽観的かという違いしかない。どちらも妄想には違いない。
そのことは明示されている。
感覚的に伝わってくるのだ。肌に触れるものが熱いか冷たいか、それだけで分かるように。
いつのまにか実感として分かるようになっている。
既に明示されている。
俺はここに来てからさまざまなことを考えた気がする。そのどれについても、今はまったく思い出せない。
自分が何についてどんなことを考えていたのか。それはまったく思い出せない。思い出せなくても問題ない。
そのなかには、荒唐無稽でめちゃくちゃでしかない言葉も含まれているだろう。
同様に、まぐれあたりのようにまともなことも含まれているかもしれない。
いずれにせよ、もう考え事はやめることにする。
俺はあの白い夏に二度と戻ることはできない。向日葵を目にすることはできない。
でもそれはしょうがないのだ。諦めよう、ガキじゃあるまいし。
問題は――今も耳の奥に聞こえる、啜り泣きを止めること。
それは俺にはできないかもしれない。あるいはできるかもしれない。
できないのではないか、と思う。八割くらいの確率で。
けれど、絶対ではないと思う。
「俺には何かができる」と確信することが誇大妄想であるように、
「自分には何もできない」と確信することも、妄想でしかないのだろう。
ガラテアかカリオストロかの違いはあれど、本質的には同じものなのだ。
仮に何もできなかったとしても、それは今までと同じということだ。
どこに行っても何をしても変わらないというのは、とどのつまりは、どこに行っても何をしても自由ということだ。
俺は最後に体育館裏の切り株に向かった。手首を埋めた場所。
そこでトンボのことを思った。涙が出るかと思ったが、出なかった。
何も死ぬことはなかったじゃないかと俺は思う。お前が死んだおかげで、俺までひどい思いをしている。
でもそれは死ななかった奴の言い草だし――おそらく、俺も人のことは言えない。
俺は思い出しつつあった。
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