06-07


 喫茶店に足を踏み入れると、マスターがカウンター越しにこちらを見た。

 俺はカウンター席に腰かけて、彼に言う。


「マスターはどうなの?」


「何が?」


「行くの? 残るの?」


「選ばせてくれるのかい?」


「いいよ、言ってみても」


「はっきり言ってね、どっちにしても変わらないよ。この歳になるとね、どんなことにも慣れていくんだ」


「へえ」


「ここにきたのだってたまたまだよ。案の定、僕には何も起こらなかった」


 彼は少しさびしそうに言った。


「じゃあ、ここでことさら何かを言いあう必要もなさそうだね」


「ああ。もう行くんだろ?」


「ああ。ありがとう」と俺は言った。彼は照れ臭そうに苦笑する。


「さよなら」


 今度は俺が、みんなの場所を通り過ぎていくのだ。





「このあたりで、わたしともお別れよ」


 ティアは言う。俺は少しだけ驚いた。


「一緒に来てくれないの?」


「ひとりで行かなきゃ。みんなそう」


「……そりゃ、そうなんだろうけどね」


 俺は少しだけ見捨てられたような気分だった。

 結局ティアは、俺に何をもたらしたのだろう。

 変化でもない。混乱でもない。ただ彼女はいたというだけ。

 俺はそのことに一種の二義性を見出せる気がしたが、そんなことは割合どうでもいいことだった。


「訊いてもいい?」


 ティアの問いかけに、俺は首を傾げて続きを促した。


「あなたは、幻想の中でずっと生きることもできたはずなのよ。痛みのない世界で、自分を慰め続けることができたはずなの。それなのに、どうして世界をこんなふうに作り上げたの? どうして、楽しいだけの世界にはしなかったの?」


 そんなのは、俺には分からない。

 でも、きっと、この世界は俺の望みを、とても単純な形で叶えたんだろう。

 どうしてそんなことができたか、なんてことは、重要じゃない。


「楽しいだけの世界なんて、嘘っぱちだって分かってたからだよ」


「……」


「痛みのない世界なんてどこにもないって、俺は分かってたんだ。だから、俺はきっと、痛みのない世界を作らなかったんじゃなくて、作れなかったんだ。そんな世界、どこにもないって、俺は知ってたから」


「……」


「理想なんて幻想だって、分かってたから」


「……もう、お別れね」


 ティアはそう言って、羽根を微かに震わせて、俺の肩から離れた。


「あなたのこと、嫌いじゃなかった」とティアは言った。


「でも、一緒にはいられないわ」


「そうなんだろうね」


「ひとりで大丈夫?」


「ひとりで行かなきゃいけないんだろう?」


「それは、そうだけどね」


「俺は、行かなきゃならないから」


「もう会えないのかしら?」


「……どうなんだろう。ひょっとしたら、どこかで会えるかもしれない」


「どうやって?」


「君は、きっと、今の君のような形ではなくなっているかもしれない。俺も、今の俺のような姿ではなくなっているかもしれない。でも、どこかで、いつか、会えるかもしれない。別の姿に形を変えて、現実に存在する君に、俺はどこかで出会えるかもしれない」


「……」


「そんなことを期待しちゃ、ダメかな?」


「……好きにすればいいと思う」


「……」


「だってそれがきっと、わたしの本当の姿なんだって思うから」


 それじゃあね、と短く言って、彼女は飛んでいった。小さな小さな影は、俺の目にはすぐに見えなくなってしまった。






 ティアがいなくなってから、少し道を歩いていると、見知らぬ男に出会った。

 

 灰色のくすんだパーカーにくたびれたジーンズ、長い前髪から鋭い目が覗いている。

 ヤガタだ、と俺は思った。


 俺たちは言葉もかわさずにすれ違う。

 それでも、なんとなく、そのままにはしてしまいたくなくて、俺は振り返って、彼に声を掛けた。


「あんたは、なんの復讐をしようとしてるの?」


「……復讐?」


 くだらない言葉を聞いた、というふうに、彼はどうでもよさそうに振り返る。


「魔法使いが言ってたよ」


 彼は鼻で笑った。


「ちげえよ。逆恨みだ。女と子供を殺された」


「それって復讐じゃないの?」


「殺した本人にならな」


 家族でも殺そうというのだろうか。


「ねえ、ひとつ言ってもいい?」


「なんだ?」


「あんたはシラノを殺すの?」


 彼は答えなかった。おそらくは、そういう話なのだろう。

 黒犬が、ヤガタの魔法だと言うなら、黒スーツと少女を狙ったのはこいつ自身で。

 あの犬の狙いが少女だったというなら、きっと、それはシラノに関係するものだ。


「もしシラノを殺したら、今度は俺がアンタを殺す。いいよね?」


 ヤガタは眉をひそめて笑い、それから俺に背を向けて歩いて行った。


 繰り返されている。俺はトンボのことを考えた。彼を苛んだ世界に対する、自分自身の憤りについて考えた。

 結局のところ、どれだけ当り散らしたところでトンボがよみがえることはない。彼の痛みが消えるわけでもない。

 

 たったそれだけのことに気付くまでに、どうしてこんなに時間が必要だったんだろう。

 俺はトンボの痛みをどうにかすることができないし、トンボの死を覆すことができない。

 その怒りを誰かにぶつけることはできるが、それは正当ではない。

 

 存分に嘆くことができたとしても、俺とトンボは結局べつの人間なのだ。

 彼の死は俺にとっては悲しかった。とても痛切だった。忘れたいと願うほど。

 けれど、彼はどう思っているのだろう。俺は不意に彼に会いたくなった。会って確かめたかった。お前は俺のせいで死んだのか、と。

 彼はきっと違うと言うだろう。こうも言う。「自惚れるな」。お前はそれほど俺の中で大きな存在じゃなかったよ、と。

 

 でも、彼とはもう二度と会えないし、そうである以上、本当のところ彼がどういうことを言うのかは分からない。


 生きている人間には、死者の気持ちを想像することしかできない。歴史上の偉人の心の内を思うようなもので。

 けれど、まぁ、他人の気持ちだって想像することしかできないのだ。さしたる問題はない。


 俺は一度トンボに謝らなければならないだろう。それは必要だ。たぶん。でも、あとにしよう。

 今はそんなことよりも、足を踏み外さずにこの街を出ることの方が重要なのだ。


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