06-07
喫茶店に足を踏み入れると、マスターがカウンター越しにこちらを見た。
俺はカウンター席に腰かけて、彼に言う。
「マスターはどうなの?」
「何が?」
「行くの? 残るの?」
「選ばせてくれるのかい?」
「いいよ、言ってみても」
「はっきり言ってね、どっちにしても変わらないよ。この歳になるとね、どんなことにも慣れていくんだ」
「へえ」
「ここにきたのだってたまたまだよ。案の定、僕には何も起こらなかった」
彼は少しさびしそうに言った。
「じゃあ、ここでことさら何かを言いあう必要もなさそうだね」
「ああ。もう行くんだろ?」
「ああ。ありがとう」と俺は言った。彼は照れ臭そうに苦笑する。
「さよなら」
今度は俺が、みんなの場所を通り過ぎていくのだ。
◇
「このあたりで、わたしともお別れよ」
ティアは言う。俺は少しだけ驚いた。
「一緒に来てくれないの?」
「ひとりで行かなきゃ。みんなそう」
「……そりゃ、そうなんだろうけどね」
俺は少しだけ見捨てられたような気分だった。
結局ティアは、俺に何をもたらしたのだろう。
変化でもない。混乱でもない。ただ彼女はいたというだけ。
俺はそのことに一種の二義性を見出せる気がしたが、そんなことは割合どうでもいいことだった。
「訊いてもいい?」
ティアの問いかけに、俺は首を傾げて続きを促した。
「あなたは、幻想の中でずっと生きることもできたはずなのよ。痛みのない世界で、自分を慰め続けることができたはずなの。それなのに、どうして世界をこんなふうに作り上げたの? どうして、楽しいだけの世界にはしなかったの?」
そんなのは、俺には分からない。
でも、きっと、この世界は俺の望みを、とても単純な形で叶えたんだろう。
どうしてそんなことができたか、なんてことは、重要じゃない。
「楽しいだけの世界なんて、嘘っぱちだって分かってたからだよ」
「……」
「痛みのない世界なんてどこにもないって、俺は分かってたんだ。だから、俺はきっと、痛みのない世界を作らなかったんじゃなくて、作れなかったんだ。そんな世界、どこにもないって、俺は知ってたから」
「……」
「理想なんて幻想だって、分かってたから」
「……もう、お別れね」
ティアはそう言って、羽根を微かに震わせて、俺の肩から離れた。
「あなたのこと、嫌いじゃなかった」とティアは言った。
「でも、一緒にはいられないわ」
「そうなんだろうね」
「ひとりで大丈夫?」
「ひとりで行かなきゃいけないんだろう?」
「それは、そうだけどね」
「俺は、行かなきゃならないから」
「もう会えないのかしら?」
「……どうなんだろう。ひょっとしたら、どこかで会えるかもしれない」
「どうやって?」
「君は、きっと、今の君のような形ではなくなっているかもしれない。俺も、今の俺のような姿ではなくなっているかもしれない。でも、どこかで、いつか、会えるかもしれない。別の姿に形を変えて、現実に存在する君に、俺はどこかで出会えるかもしれない」
「……」
「そんなことを期待しちゃ、ダメかな?」
「……好きにすればいいと思う」
「……」
「だってそれがきっと、わたしの本当の姿なんだって思うから」
それじゃあね、と短く言って、彼女は飛んでいった。小さな小さな影は、俺の目にはすぐに見えなくなってしまった。
◇
ティアがいなくなってから、少し道を歩いていると、見知らぬ男に出会った。
灰色のくすんだパーカーにくたびれたジーンズ、長い前髪から鋭い目が覗いている。
ヤガタだ、と俺は思った。
俺たちは言葉もかわさずにすれ違う。
それでも、なんとなく、そのままにはしてしまいたくなくて、俺は振り返って、彼に声を掛けた。
「あんたは、なんの復讐をしようとしてるの?」
「……復讐?」
くだらない言葉を聞いた、というふうに、彼はどうでもよさそうに振り返る。
「魔法使いが言ってたよ」
彼は鼻で笑った。
「ちげえよ。逆恨みだ。女と子供を殺された」
「それって復讐じゃないの?」
「殺した本人にならな」
家族でも殺そうというのだろうか。
「ねえ、ひとつ言ってもいい?」
「なんだ?」
「あんたはシラノを殺すの?」
彼は答えなかった。おそらくは、そういう話なのだろう。
黒犬が、ヤガタの魔法だと言うなら、黒スーツと少女を狙ったのはこいつ自身で。
あの犬の狙いが少女だったというなら、きっと、それはシラノに関係するものだ。
「もしシラノを殺したら、今度は俺がアンタを殺す。いいよね?」
ヤガタは眉をひそめて笑い、それから俺に背を向けて歩いて行った。
繰り返されている。俺はトンボのことを考えた。彼を苛んだ世界に対する、自分自身の憤りについて考えた。
結局のところ、どれだけ当り散らしたところでトンボがよみがえることはない。彼の痛みが消えるわけでもない。
たったそれだけのことに気付くまでに、どうしてこんなに時間が必要だったんだろう。
俺はトンボの痛みをどうにかすることができないし、トンボの死を覆すことができない。
その怒りを誰かにぶつけることはできるが、それは正当ではない。
存分に嘆くことができたとしても、俺とトンボは結局べつの人間なのだ。
彼の死は俺にとっては悲しかった。とても痛切だった。忘れたいと願うほど。
けれど、彼はどう思っているのだろう。俺は不意に彼に会いたくなった。会って確かめたかった。お前は俺のせいで死んだのか、と。
彼はきっと違うと言うだろう。こうも言う。「自惚れるな」。お前はそれほど俺の中で大きな存在じゃなかったよ、と。
でも、彼とはもう二度と会えないし、そうである以上、本当のところ彼がどういうことを言うのかは分からない。
生きている人間には、死者の気持ちを想像することしかできない。歴史上の偉人の心の内を思うようなもので。
けれど、まぁ、他人の気持ちだって想像することしかできないのだ。さしたる問題はない。
俺は一度トンボに謝らなければならないだろう。それは必要だ。たぶん。でも、あとにしよう。
今はそんなことよりも、足を踏み外さずにこの街を出ることの方が重要なのだ。
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