06-06
俺は川辺で水切りをしていた少女に近付く。少女。彼女は俺に気付くと照れくさそうに微笑した。
「もう行くんですか?」と彼女は言った。
俺は目の前の少女とシラノ、それからあの女は姉妹なのだろうと考えた。
けれど違う。俺が見た"ズレ"に彼女はいなかった。
だから彼女は、もっと別の何か。シラノと強烈な類縁性、ないしは同一性を持った存在なのだろう。あの女もきっと。
あるいは、過去と、現在と、未来。そういう存在だったのかもしれない。
俺にとってシラノはどうだっていい存在だ。彼女にとって俺がそうであるように。
けれど、彼女の存在は俺の目の前で意味ありげに揺らぎ続けている。
それを思うと不思議な気持ちになる。彼女は俺と無関係な人間なのに、俺とよく似ているように感じる。
「まだ怖い?」
と俺は彼女に訊ねる。彼女は静かに首を振った。そして、口を開く。
「こんなことを訊くのは、変だという気もするんですけど」
彼女は無表情だった。寂しそうでも悲しそうでもない。嬉しそうでも楽しそうでもない。無表情だった。
「どうして、出ていこうと思ったんですか? 突然」
難しい質問だと俺は思った。
何も思い浮かばなかった。なぜなのかは分からない。漠然とした衝動のようなものが根源にある。
錯覚かもしれない声。そんなものだけを頼りに、俺はこの場所を去ろうとしているんだろうか?
きっと違う。曖昧なもので自分を奮い立たせられるほど、俺は勇敢な人間じゃない。
俺は上手に説明できない。ただ、そうしなくてはいけないという気持ちだけがあるのだ。
けれど結局、その試みもまた中断してしまう。逃げかもしれない。問題の先送りかもしれない。
曖昧に濁した言葉だけを、俺は少女に投げかけた。
「出ていくのと出ていかないのなら、出ていく方が難しそうに見えたからだよ」
「難しそうに見えたから、出ていくんですか?」
俺にはそういう好みと傾向がある。
「わたしにはむずかしいことはわからないけど」と少女は言った。
「それはとてもこわいことなんじゃないですか?」
「そうだろうね」と俺は答えた。
「でも、きっと、その怖さも必要なものなのかもしれない。臆病さというものが、何かの価値を持つことも、あるのかもしれない」
少女は考えこんだようすで黙り込んだあと、俺の方を見上げて、よくわからない、と首をかしげた。
「それじゃあ、もう行くよ」と俺は言った。
「はい」と頷いて、「さよなら」と彼女は付け加えた。
「さよなら」と俺も返した。
俺が街を歩いていると、喫茶店の女が目の前にあらわれた。彼女は俺に声を掛けようとしなかった。
すれ違う。俺も彼女に何も言わなかった。口の中で別れを告げる。それだけだ。
黒スーツは児童公園に居た。彼は俺を呼び止めると、ポケットから小銭を取り出して、百二十円を俺に返した。
帰るべきものは帰るべきところへ帰る。痛みが正しく循環しあうように。
けれど、彼の死は循環というほどシンプルな構造では訪れないだろう。
復讐は連鎖しない。
彼は大勢の人間を殺し、そのうちの一人の家族に殺されるかもしれない。
けれど、彼を殺せなかった人間も存在することになる。その人の復讐は成立しない。彼が引き受けられるのは一人分の復讐だけだ。
そして黒スーツの仇討を目論む人間は現れないはずだ。それがまったく正当な復讐であるから。
復讐は連鎖しない。絶対に連鎖しない。連鎖するのは逆恨みだけだ。正当な復讐は一切連鎖しない。
俺は公園を立ち去る。黒スーツは静かに煙草を吸っている。何を考えているのかは分からない。
何もかも燃やし尽くしてしまいたいのかもしれない。
「さよなら」と俺は言った。「おう」と彼は気安げに答える。
魔法使いの事務所に行く。彼女は疲れ切ったようにソファにもたれて煙草を吸っていた。
俺を見ると、彼女は苦笑のように頬を歪めた。
「ヤガタがいるよ。この街に」
俺はヤガタのことを知らないので、どう答えればいいのか分からなかった。
「あいつね、昔、私の妹を殺したんだよ」
俺は彼女の妹のことを知らなかったので、何とも答えようがなかった。
「みんな傷つけあってる」
と彼女は言った。拗ねたみたいな声だった。俺は何も言えない。そんなことを今更聞かされて、どうしろっていうんだろう。
「いいかげん、終わらせるんでしょ?」
「ああ」
俺は頷く。
女は煙を吐いた。
「わたしはさ、べつにあんたのことなんてどうでもいいんだけど。まさかさ、ヤガタだとは思わなかったな。アンタ、どういうことよ。なんでこんなにいろいろ飲み込んでるわけ?」
「何の話?」
「あんたのこの世界は、きっと、あんた自身の中に作られた幻想の世界だった。そこでは、時間の流れがずっと、止まっているんだよ。流れているようで、止まっている。失われたものもすぐに取り戻されて、何事もなかったかのように繰り返される。そういう世界では、何も得られない代わりに、何一つ失われない。大勢の人間を飲み込んで、それぞれが夢を見ているような場所」
「あんたは、こういう世界について俺よりも何かを知っているの?」
「知識の上ではね」と魔法使いは言う。
「でも、そんなのはどうだっていいことなんだ。現に存在するこの世界以上に饒舌な言葉なんて、どこにもない。あんたはあんたがしたいようにすればいいし、みんなはみんながしたいようにする。関係ないんだよ。それでも、気まぐれに入り込んだだけのわたしにとっても重要なことが起こるんだから、参ったなあって話」
どうでもいいんだけどね、とだけ言ってしまうと、魔法使いは呆れたみたいに笑った。
「まぁ、せいぜいがんばってよ。言っとくけど、覚悟なんて数秒で消えるものだからね。大変なのは始めるまでじゃなくて、始めてからなんだから。アンタなんてまだスタート地点にも立ってないんだからね」
「あんまり、心が折れるようなこと言わないでくれる?」
「甘ったれないで」
彼女は真剣な顔で言った。俺は溜め息をつく。
「それじゃ、行くから」
魔法使いは答えなかった。
「さよなら」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます