06-05
目がさめる。そのことに気がついた。
"ズレ"と"それ以外"との区別がいつになく明瞭だった。俺は今の今まで"ズレ"ていた。
そして今、戻ってきた。"現実"とも呼べないどこかに。
自分の中から不意に、不要なものが抜け落ちていくような感覚があった。
なんだかいろんなものが綺麗に抜け落ちていく。透き通っていくようだった。
自分の中の不純なものがすべて消えていく気がした。
そんな感覚が、俺を数秒あまり包んでいた。
俺は体育館裏の切り株に座っていた。
傍には誰もいなかった。誰にも何も伝わらなかったし、俺もその努力をしなかった。
俺はずっと前からこんな場所に居続けていたような気がする。
こんなぶつ切りの風景から、本当に何かを読み出せたりするんだろうか。
俺は飽きつつあった。この光景に。もううんざりだった。
不意にティアの声がして、俺は立ち上がる。
俺は少しの間、何ひとつ明確には示されていないにも関わらず、何もかもが自明であることについて考えた。
「行きましょう」
とティアは言った。そうしよう。何もかも終わりに近づいている。
俺は立ち上がって自然科学部の部室に向かう。部室にはハカセが居た。
彼は長机に肘をつき、窓の外をぼんやり眺めていた。窓から吹き込む風が彼の髪を揺らし、柔らかな夕陽が部屋中を包んでいた。
斜陽だ。
「こんな日には消えたくなるね」
とハカセは言った。
「お前はまだ、やれるみたいだけど……俺には無理だよ、もう。うんざりだ」
彼が笑うと、空気がひそやかに揺れた。俺にはその声が、ただの音のように聞こえた。
言葉としての意味を剥奪された音。声。ただそれだけのもの。そんなものが俺の視界にはやまほどあった。
「でも、きっと後を追うよ。もう少しで、何かが分かるような気がするんだ。俺にだって」
俺はうなずく。それから溜め息をついて、笑った。彼もまた応じるように笑った。
「さよなら」と俺は言った。
部室を出て、図書室に向かった。ティアはあきれたように溜め息をつく。
図書委員の女の子はカウンターの中で本を読んでいた。彼女は顔をあげなかった。
「ここにいるの?」
と俺は訊ねた。彼女は答えなかった。
「もう行くよ」
反応は一切なかった。なにひとつ返事はなかった。言葉から意味が剥がれ落ちている。
なにひとつ伝わらない。伝えようという努力をしてこなかったのだから当然だ。
「さよなら」
と俺は背を向けた。
校門にはシラノが立っていた。
俺が声を掛けると、彼女は泣き出しそうな目でこちらを睨んだ。
「わたしは逃げません」と彼女は言った。
「やめときなよ」と俺は言った。
きっと彼女と俺の話はどこまでいっても平行線をたどるだろう。俺たちは最初の形からまったく異なっていたのだから。
「どうして突然、そんなふうに思ったんですか?」
「別に何かが変わったわけじゃない。今も変わらず怒ってる」
「じゃあ――」
「それでも、なんだかね。そんなことをしてる場合じゃなくなったんだ」
「君はいつもそんなのばっかりですね」
シラノの表情には、激しい怒りのようなものが浮かんでいた。かろうじてこわばった笑みを浮かべてはいるが、そこには余裕がなかった。
痛ましくすらある。俺は彼女という人間が苦手だったが、それとは反対に彼女のことが好きでもあった。
だから、こんな彼女の姿を見るのはつらい。
彼女は誰かに似ている。遠くの方から聞こえる啜り泣き。その声の主に似ている。
「勝手に騒ぎ始めて、勝手に自己完結して、何にも教えてくれない。そんなことばっかり。別に教えてほしくなんてないけど」
シラノは傷ついているように見えたけれど、たぶんそれは俺のせいじゃない。
本当に俺のせいじゃない。彼女はそういう人間なのだ。どんな些細な事柄からも痛みを見出さずにはいられない。
そういう人間として、シラノは存在している。俺がそうであるように。
「誰にも何も言う気なんてないくせに、どうして口を開いたりしたんですか?」
俺は少し考えて、答える。そうすることが必要だった。あくまでも俺にとっては。
「言いたいことがないわけじゃない。でも、上手に言葉にできないんだ。
言葉にすると意味が奪われてしまうんだ。上手にあらわせない。
いつまで経ってもこうなんだ。昔から。俺はこんなふうにしてしか、自分が考えていることを確認できない。
曖昧でぼんやりしたものを、どうにか形に表したいといつでも思ってる。
でも、上手にできない。あんまり上手にできないものだから、そのうち声に出すのも億劫になった。
だから、口を開いたのは名残りみたいなものだよ」
シラノは疲れ切ったように溜め息をつく。俺は自分の中の嘲笑われるべき部分、蹂躙されるべき部分について考えた。
「わたしは君みたいにはなれない」
「別になろうとする必要はない。ただ、シラノがいなくなると、俺は少しだけ悲しい」
「少しだけ?」
「少しだけ」
彼女は少しだけ笑った
もう行くよ、と俺は言った。彼女は何も言わなかった。
「さよなら」
◇
「本当にいいの?」とティアは言った。
「何の話?」
俺は道を歩きながら訊ねる。堤防の上から河川敷を眺める。誰かが水切りをしていた。
「あの子を止めなくて」
「俺が止められる問題だと思う?」
「思わないけど、でも……」
まだ誤魔化されている気がしているのかもしれない。けれど俺は思う。
もう、何もかもがあからさまに示されている。
はっきりと示されている。
明示されている。
もはや隠されていることはなにひとつない。
すべてはっきりとしている。
区別のつけかたが少し難しいかもしれないが、もはや隠し立てされていることなど何ひとつない。
はっきりしている。
シラノは黒スーツを殺そうとするだろう。
他の誰かがそうするように。
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