06-04
街から人が消えた。
俺は誰もいない街を歩いている。
途中で歩くのに嫌気がさして、適当な家から自転車を借りて走ることにした。
ぐんぐん進む。何の意味もなくベルを鳴らす。ちりんちりん。あはは、こりゃいいや。
俺は坂を上る。ひいひい言いながら昇る。こんなふうに体を動かしたのはいつぶりだろうか。
もう何年も動かしちゃいない。こりかたまってる。肉体。俺の肉体。俺が軽んじてきた自分自身。
不意に向日葵が見たくなった。もう一度だけ向日葵がみたくなった。そのあとは死んだってかまわない。
向日葵畑には心当たりがある。あの広い場所。空間。真っ黄色な空間。太陽と青い空。天に背を伸ばす向日葵。
うなだれたりすることもあるけど、毎年奴らは咲き誇る。すげえ奴らだと心底思う。真似できない。
だから、俺は向日葵が好きだった。すごく好きだった。どのくらい好きかっていうと、あのあれ、思い出せない。まぁいいや。
俺は自転車で坂をくだる。ペダルが空気の抵抗でひとりでに回る。ぐるんぐるん。足にぶつかる。いてえよ。
肌に風を感じる。寒いくらいの冷たさ。心地よい。
俺の人生はなんで失敗ばっかなんだろう、とふと考える。
なんで何をやってもうまくいかないんだろう。どこに行っても馴染めないんだろう。
みんなこんな感じなんだろうか。俺は悲しくなったけど、そういえば考え事は不毛だった。
俺はペダルを漕ぎ漕ぎ坂を上る。また坂か、とぼんやり考える。でも気分がいい。なぜだろう。
俺は向日葵を目指す。ずっと彼方に存在するはずの向日葵畑。
あとちょっと。この坂を越えて、曲り道をくねくねまがって、そんで道なりに坂を昇れば、そこはもう向日葵畑。
けれど。
夏はとうに終わっていたし、向日葵は刈り取られてトラックで運ばれてゴミと一緒に燃やされていた。
笑い話にはなりそうにもない。
◇
「もう分かっただろ?」
カリオストロは、俺にそう声を掛けた。
向日葵のない向日葵畑の中心で、俺と彼は向い合って立っていた。
「君にはもう、何も残されてはいない。何もできない。何一つ手に入れられない。もう、何もかもが手遅れなんだ。君はもう、とても多くのものを失ってしまったあとなんだ」
安っぽいスーツに身を包んだ、うらぶれた風采の優男。
俺にはその姿が、痛々しく、みすぼらしいもののように思えた。
「全部、終わりにしてしまおう。どうやったって何も変わらないんだ。いつまでもこのまま、苦しんでいるだけだ。君を苦しめるだけの世界なんて、滅ぼしてしまえばいい。そうだろ。誰かを傷つけてまで、生きていたくなんて、ないだろ」
俺は、答えなかった。
「誰も彼もが苦しんで、痛みをこらえて、それでも生きていかなきゃいけないほど、この世界は素晴らしいものなのか? 僕には、そうは思えない。この世界は苦痛に満ちていて、柔らかな光はいつも暗い痛みに押し潰される。これから先、どんな光を手にしたって、きっと、それはすぐに失われてしまうんだよ」
向日葵のない向日葵畑。空には黒い鳥の影。夕焼けは世界の終わりみたいな深い藍色をしている。
遠い昔、どこかでこんな絵を見たことがある気がする。売れない画家が死ぬ前に描いた、暗い麦畑の絵。
どうして、誰も彼もが苦しんでいるんだろう。楽しいだけの、綺麗なだけの世界では、いられないんだろう。
「だったら、もう、何もかも、暗闇で押しつぶして、見えないようにしてしまえばいい」
耳鳴りのような、声が聞こえる。
「……声が、聞こえるんだよ」
カリオストロは、真剣な表情で、こちらを見た。
彼もまた、何かを願っていたのかもしれない。幸福な世界を望んでいたのかもしれない。
だから、そうじゃなかったとき、悲しいのかもしれない。
理不尽な世界に憤るのは、不条理な暴力が悲しいのは、光が押し潰されることを憎むのは。
誰よりも、その光を愛していたからじゃないのか。
理不尽のない世界を、誰よりも望んでいたからじゃないのか。
「誰かが、俺を呼んでいるような気がするんだ。ずっと、聞こえないふりをしていたけど。誰かが、泣いてるんだよ。錯覚かもしれない。思い上がりかもしれない。でも、誰かが泣いているような気がするんだ。誰かが、俺を待っているような気がするんだ」
「それが、どうしたっていうんだ。それで、どうなるっていうんだ」
「分からない。結局、同じことの繰り返しかもしれない。何も変わらないかもしれない。俺に残された光景は、結局、こんなものなのかもしれない」
空は昏く、風が吹き荒んでいる。何も残されてはいない景色。
呼び声の先に待つ世界も、こんなふうに、荒涼とした、物寂しいだけの、悲しいだけの世界なのかもしれない。
「それでも、そこで誰かが待っているんだったら、俺は、ここから抜けださなきゃいけないと思う」
「……」
「だって、そこでは誰かが泣いているんだ。だとしたら、会いにいかなきゃいけない」
「……どうして?」
「だって俺は、誰かを悲しませるだけの世界を、憎んでいたはずだから。
誰からも何も与えられないような、そんな世界が、大嫌いだったから」
「でも、それが現実なんだ。何も、変えられるものなんてない」
「そうかもしれない。……それが本当なのかもしれない。でも、そんなふうに諦めてしまうのは、何かを試みたあとでも遅くないって思うんだよ」
「……」
「あんたとは、思えば随分長い付き合いだったかもしれない。それについて、後悔も別にしていない。でも、誰かが泣いている。きっと、その人の世界は、悲しいだけの世界で、苦しいだけの世界で、自分ひとりじゃどうしようもないんだ。誰も助けてくれない。手を差し伸べてもくれない。声を掛けてすらくれない。手をつなぐことさえできない。俺は、そんな世界を憎んでいたはずなんだ。だから、俺は、そんな世界の一部には、もう、なりたくないんだ」
「……たとえ、何もかもが失われていくだけのものだとしても?」
「……嘘でも、大丈夫だって、言ってやりたいんだ」
「自己満足だよ」
「そうかもしれない」
カリオストロの表情は、悲しげだった。
何もかもが通り過ぎていくだけの世界。それが本当だとするなら、きっと、こんな感傷さえ、いつかはなくなってくれるのかもしれない。
あるいは、こんなささやかな願いさえ、やがては俺自身の手で汚されてしまうのかもしれない。
「それでも、まだ、俺の耳に聞こえる声があるんだ」
それは錯覚かもしれない。誰も、俺のことなんて求めていないかもしれない。
それでも、泣き声が聞こえるなら……。
俺は、それを止めたいと願う。
たとえ悲しみだらけの世界だったとしても。
その中のたった一粒の涙にすぎないとしても、それを俺自身の指で拭えるなら。
それだけで、かまわなかったのかもしれない。
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