06-02
何が起こっているのかは俺自身まったくわかっていない。けれど状況はたしかな変化を見せているし、俺も変化を望んでいる。
魔法使いの事務所に行く。彼女はたしかにそこにいた。少女がいた。女もいた。シラノもいた。黒スーツもいた。
みんな一様に眠っている。おそらく目を覚ますとしたら、少女だけだろう。
魔法使いはソファに腰かけて煙草を吸っている。ピース。
「こいつらの怪我ね、ヤガタの仕業」
「……ヤガタ?」
「私の同業者、っつーのかな。あんたが蹴り飛ばした黒い犬。あれね、ヤガタの魔法」
「は?」
違う。あれはカリオストロの――カリオストロの……?
「ま、カリオストロと無関係ではないよ。あんたが言うカリオストロとも無関係じゃない」
女は溜め息のように煙をこぼし、憂鬱そうに笑った。
「もうさ、そういう問題じゃないみたい。あんただけの問題じゃなくなってる。いつのまにか。なんだってこんなことしたのさ」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「あんたのせいだよ、八割くらいは」
俺は肩をすくめた。
「あいつも何かを探してる。もう、見つけたのかもしれない」
「見つけた?」
「相手をね」
「なんの?」
「そりゃ、復讐でしょう」
女が気安く言うので、俺はこめかみを掻いた。
俺の仕草を見て、彼女は不意に目を細める。
「なんか変わった?」
「なにが?」
「あんた。ちょっといい感じになってる」
「冗談だろ」
「八割くらいはね」
八割、と俺は笑った。
ヤガタ。どうして今更そんな人間が出てきたりする? 話は収束に向かっていたのに。
耳元でティアが叫んでいる。俺は聞こえないふりをした。
目をつぶるのはもうやめた。絶望<カリオストロ>も現実逃避<ガラテア>も、今はいらない。
俺にはそんなことよりずっと真剣に、考えなければならないことがあるのだ。
遠くの方から聞こえる啜り泣き。その声の主を、もう一度みつけなくてはいけない。
そうすることでしか取り戻せない。もう一度日の下に出ることができない。
手を伸ばす。
掴む。
切実に願う。あの啜り泣きを、俺は止めなくてはならないのだ。
◇
"ズレ"る。唐突だった。俺は教室に立っている。自分の学校の自分の教室。
グラウンドの方から、ざわめきが伝わってくる。大勢の人が騒いでいる。
何があったんだろう。何かがあったのだ。
――俺はそれを既に知っている。
教室には誰も残っていなかった。俺はMP3プレイヤーの再生を止める。
立ち上がって窓の外を見下ろす。不穏な気配が空気を伝う。
トンボは落ちて死んだ。あっさりと。トマトだってスイカだって、落ちれば潰れるし砕ける。あっさりと。
トンボだって変わらない。
彼は頭を刎ね飛ばされて死んだ。
彼を殺したのが何なのかは分からない。
けれど、それは俺に無関係ではないものだ。
俺が見過ごしてきたものだ。
俺はそのことに痛烈な怒りを感じている。
彼を殺したのが俺だったなら、俺はその代償に、俺自身を殺し尽くしてしまわねければならないのだ。
◇
気配が変わる。月が見える。夜だった。"ズレ"た。俺は混乱しなかった。もはや何が起こっても驚きはない。
映画のシーンが切り替わるようなものだ。現実じゃない。シーンの切り替わりごとに驚いていては、映画など見ていられない。
問題は、この光景が俺に何を伝えようとしているかだ。
俺に何を思い出させようとしているかだ。
目を見開く。見る。
シラノ。彼女の姿が見える。木々が夜風にざわめく。明かりは遠く、人の気配はない。
どこかの竹林……見覚えのある場所。
シラノは泣いていた。
なぜ彼女が泣くのだろう。何が悲しいのだろう。
俺は息をひそめる。
まだだ、と思う。彼女じゃない。これは俺とは無関係だ。
俺が探している声の主は、彼女ではない。
俺は彼女について、何ひとつ知らないのだから。
シラノは泣く。さめざめと泣く。この世の誰もがそうするように切実に涙を流す。
どうして彼女は泣いているのだろう。
◇
"ズレ"る。
暗い部屋だった。妙な匂いがする。俺は灯りのスイッチを探して電気をつける。
明るくなると、窓の外の暗さがはっきりと際立った。夜。
床が赤かった。
死体が転がっていた。陳腐だ。
俺は部屋を出た。廊下にもひとつ、これは女のものだろう。
階段を下りる。リビングにもひとつ。これは男のもの、ずいぶんと歳を取っている。
三つの死体があった。
リビングでは子供が泣いていた。男の子。小学生くらいの。
ふと物音に気付き、玄関に向かう。
黒い、大きな背中。俺はそれが誰なのかすぐに分かった。
立ち尽くして、何分かが過ぎただろうか。玄関の扉がひらく。
シラノが顔を出す。
「ただいま」と言って溜め息をつき、疲れたように笑う。
あと少しで、彼女は目の当たりにすることになる。おそらくは現実を。
何もかもが遠ざかる。
◇
"ズレ"る。
安い仕事だった、と彼は思う。
たいした仕事ではないし、後片付けは別の人間がやるという。任されたのはまさしく"それ"だけ。
相変わらず気分はよくない。豚の屠殺もこんな気分なのだろうか。
いや――大義名分があるぶん、そっちの方がマシなのかもしれない。
仕事を早々に済ませると、彼は足早に現場を出ることにした。
子供が泣いていたが、たいした問題にはならない。すぐに始末されるだろう。
殺人現場を片付けるだけの労力があるなら、殺す方がよっぽど容易だろうに、なぜわざわざ人に頼むんだ?
彼は少しだけ考えたが、金持ちや権力者の考えることなんてわかったものじゃない。
想像したくもないやり取りがあるに違いないのだ。
彼は子供だけは殺さなかった。だからどうというわけではないが、子供を殺したことはない。
おそらくは、そこが彼のもっとも罪深い部分だろう。
仕事は終わりだ。早く帰ろう。こんな生活をいつから続けていたんだっけ。さっさと帰ろう。
彼は帰る。
帰路の途中、車に拾われ、運ばれる。
溜め息をつくと、疲れがじわりと体に広がっていく。気が抜けたのだろうか。
死にてえなあ、と彼は呟いた。
死にてえなあ。
死にてえなあ。
ぼんやりと体を覆っていく。
もし死ぬのなら――あいつに殺してもらうのがいい。
あの女……同業者……あの気取り屋の……けれど……。
死に方まで望み通りになるほど、俺は神様に愛されちゃいないだろう。
彼は苦笑した。別に愛されたかったわけではないが。
じゃあ、どうなりたかったんだろう?
いったいどうなることを望んでいたんだろう?
彼の思考は睡魔に覆われていく。
何もかもが遠ざかっていく。
◇
"ズレ"る。
遥か彼方から聞こえる啜り泣き。
時間だろうか、距離だろうか、どこから聞こえるのだろう。
その声に俺の心はかき乱される。何も考えられなくなる。最初から考えてなんていないのだけれど、何も考えられなくなる。
だって俺は彼女のことが好きだったのだ。彼女の笑顔を取り戻せるなら世界のすべてを敵に回したってかまわないと思っていた。
子供のときはずっと。でも無駄だった。俺がどんなにわめいても、彼女の暗闇は振り払えなかった。
俺にはどうすることもできなかった。むなしさとか悲しみとか寂しさとか、そういったものが彼女を苛んでいた。
それは誰のせいでもない。彼女自身の問題だった。俺はそのことが何よりも悲しかった。
俺のせいじゃないということは、俺には解決することができないということだ。
手助けすらも困難だと言うことだ。
俺は彼女になにかひとつだって影響を与えることができなかった。何かひとつだって与えることができなかった。
良い思い出なんてひとつだって作ってやれなかった。
でも、仕方ないんだよ、精一杯やったんだ。俺なりに。でも駄目なんだ。どうしたって無理なんだ。
言い訳は連なる。重なっていく。頭の中の黒板が白いチョークで塗りつぶされている。文字。言い訳。
俺の痕跡。俺の怠惰の痕跡。俺が精一杯考えて考えて、塗りつぶした黒板。
彼女の啜り泣き。
俺はその声を止めたかったはずなのに。
逃げたのだ。
置き去りにしたのだ。
彼女を、あの現実に。彼女を苛む空間に。置き去りにした。
あんな家に、彼女を取り残してきた。
逃げ出したのだ。
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