06-01
魔法使いの事務所には誰もいなくなっていた。
「みんなはどこへ?」
と訊ねるが、答えはない。魔法使いすらいなかった。
仕方なく、俺は街に出る。コンビニに入ってハンバーガーと弁当とホットドッグと栄養ドリンクを買った。
「あたためますか?」と訊ねられたので、すべてを温めるようにと言った。
店員は三つの電子レンジを巧みに使いこなしレジ袋に品物を突っ込んだ。
「ドリンクはあたためなくていいのかな?」
と俺が訊ねると、彼は蛇の皮でも踏んだような顔をした。
会計を済ませた後、ティアがハンバーガーを食べたいというのでもう一度レジに並び直した。
レジはひどく混雑していた。ふたつのレジカウンターに四、五人の人間が並んでいた。
みなカゴに商品を入れて順番を待っている。俺がそれを待っているように。
さっきと同じ店員が、「あたためますか?」と訊ねてきたので、俺はティアに「どうする?」と訊ねた。
彼女が頷いたので「お願いします」と言った。
店員はやっぱり蛇の皮でも踏んだような顔をしていた。カウンターの内側に蛇が這っているのかもしれない。
「悪いんだけどスプーンをもらえる?」と俺が言うと、店員は怪訝な顔をしたがすぐにしたがってくれた。
だが店員が出したのはフォークだった。「これはフォークだよね?」と俺が問うと、彼は首をかしげて「スプーンですよ」と言った。
「俺の記憶が正しければ、スプーンは先がまるいものだったと思う。これはとがっている」
「いえ、これはまるいですよ。まるいのでスプーンです」
「いや、とがっているよ」
「まるいですよ。……フォークもお付けいたしますか?」
「お願いします」
俺はうなずいた。結局どっちがスプーンでどっちがフォークなのだろう。俺と彼のどちらが間違っているのだろう。
児童公園から黒スーツの死体が消えていた。俺は溜め息をついて空を見上げる。
物思いにふけりたいタイミングというものが絶えず存在している。
街は書き割りだったし、時間は焼き増しだったし、人物は使いまわしだった。ぜんぶ嘘だったのだ。
この世界に信用できることがらは何ひとつ存在しなかった。
俺はハンバーガーをかじりながらコンビニエンスストアについて思いを巡らせた。二十四時間年中無休という永遠。
いつでも開かれているというのは、いつも閉じているというのとさして変わらない。俺はそう思う。
もしも世界が永遠に朝だったら、世界は別に明るくも暗くもないだろう。
どうだろう、と俺は思った。スズメは俺が「思い出そうとした」と言った。
でもきっと違う。俺は思い出したくなんてなかった。ずっとこんなふうに何もかもを曖昧にしたかったのだ。
誰も俺を求めてなんていないし、俺にとっては何もかもが無価値だ。世界がそういうものであることを望んでいたのだ。
結局俺はその程度で逃げ出す人間だったし、たかだか自分の命ひとつだって、何かのために擲つことができない人間だった。
それが悪いとか良いとか言うのではない。そういう次元ではなく、もう俺は自分自身という人間にほとほと愛想を尽くしていた。
俺は栄養ドリンクを飲んでビンをその場に捨てた。今俺が車に乗っていたら何の意味もなくクラクションを劈かせただろう。そういう気分だ。
街には大勢の人間がいる気がしたが、誰も彼も俺のことをちらりとも見ていない。
俺にとってこの街が無意味であるように、街にとっても俺は無意味な存在なのだ。
そのことを嘆くには、俺には努力というものが足りない。心の底から何かを悲しむには、俺という人間はあまりに努力を知らずにいすぎる。
溜め息をつく。もう何度目の溜め息だろう。数えることにも飽きてしまった。それくらい溜め息をついたのだ。
でも、どうして溜め息をつくのだろう。別に憂鬱でもなければ疲れてもいない。溜め息をつく理由なんてない。
ところで俺はどうしてたかだか溜め息のことをこんなに考えているのだろう? 所詮溜め息は溜め息に過ぎない。理由なんてなんだっていいのだ。
この調子だ、と俺は思った。こんなふうに意味のないことをだらだらと考え続けていればいいのだ。止まることなく。
ただただこんなふうに考え続けていればいい。公園の鉄棒とか錆びついた赤みのこととか夕陽が雲に隠れて滲んでいることとか。
そんなことをただただこんなふうに考え続けていればいい。それだけで地球は回るのだし、時間は流れる。
そのうち俺は死ぬ。そうすれば、頭の奥の痛みも忘れられる。そのはずだ。
何もかも消えてしまえばいいのだ、と俺は思った。
そして俺だけが残ろう。今ならカリオストロに従ったってよかった。彼の代わりに人間をひとりひとり殺してしまおう。殺し尽くしてしまおう。
そうして最後に俺が自ら死ねばいい。人間は全滅だ。世界は救われた。
地球はやがて新たな生命を生み出しあたらしい生態系が発展する。今度はなめくじが発展する。根拠は別にない。
そうしてやがてなめくじは滅ぶ。なめくじが滅んだあとには蝙蝠の天下だ。その次は海豚だ。猿の天下はもう少しあとだろう。
俺がそんなことを考えていたせいか、不思議と街から人が消え始めていた。
みんな俺を置いてどこにいったんだ? 結局こんなふうに置き去りにされるんだ。どうせ。何の意味もない。
けれど、俺はそもそも置き去りにされない努力をしていなかったので仕方ない。
いつからこんなことになったのだろう? 俺はいつのまにかこんなことばかり考えている。
いつから?
――待て、と俺は思う。
本当にいつからこんなことになったんだ? 明らかに俺の精神は異常をきたしている。
俺の身に何かが起こっていて、俺の中に何かが忍び込んでいて、俺の中で何かが蠢いている。
名状しがたい不安が募る。
俺は……何をしているのだ?
ベンチの下から啜り泣きが聞こえた。捨てられた犬の鳴き声。その声が誰かに似ている気がした。
目がさめるような感覚。
カリオストロ、と思った。あの山師。ひょっとしたら俺は今、彼の罠の中にいるのかもしれない。
唐突な感覚だった。突然、本当に唐突にそんなことを思う。すると符合するように不自然な記憶が取り戻されている。
スズメの言い分を信じるなら、この景色はすべて現実ではない。と同時に、俺の望んだとおりのものだ。
ならばカリオストロという存在もまた、俺が望んだものに過ぎない。
この目の前に起こっている現実でさえ、俺がそう望んだものでしかない。
俺は世界に絶望的なものであってほしかったのだ。
うまく適応する自信がないから、適応する価値がないものなのだと思い込もうとしたのだ。
本当にそれでいいのだろうか? 俺はそれで後悔しないのか?
いやそんなことよりも――俺は何かを忘れている。おそらくは大事なことを。
俺は忘れている、と痛切に思う。異様に鋭い感覚が俺の背筋を切り裂いていく。
静寂とか沈黙とかそういうものをざっくり切り裂く何かだ。
目がさめるような音。劈き。クラクション。そういう種類の感覚。唐突で、何に由来するかまったくわからない感覚。
その感覚が俺の中の何かを壊した。波止場を津波が襲った。防波堤を決壊させた。そういう種類の感覚。
俺は今の今まで自分の境遇を嘆きはしても、自分を取り巻く問題について考えようとしたことは一度もなかった。
俺は怠惰だった。なにひとつ解決しようとしなかった。問題について真剣に思いを巡らせもしなかった。
俺がしたのは「どうしてこうなったのだ?」というどうとでも答えられるような疑問を繰り返すだけだ。
そうしてこうなったのは俺のせいじゃないと言い訳した。システムのせいだと。
俺にはそんなことよりずっと痛切に考えなければならないことがあったはずなのだ。どうして今の今までそれを忘れていたんだろう。
考えるべきなのは、何が原因でこんなことが起こったかじゃない。
どうすればこんな状況を抜け出せるのか。それこそ、俺が本当に考えるべき問題だった。
考えている振りを続けるだけで得られるものはない。俺はもう一度手を伸ばそうと誓ったはずなのだ。
たとえトンボを殺したのが俺自身であろうと、今はそれを棚上げしておくべきだ。誰がなんと言おうと。
俺は自分の頬を叩いて立ち上がった。俺は忘れていることを思い出さなければいけない。
遠くの方から誰かがすすり泣く声が聞こえる。その音をどうして今まで聞き流していられたんだろう。
俺はもうこんな場所は嫌だと思ったはずだ。
俺はこんな場所から抜け出そうと思ったはずだ。
俺はもう一度ここから抜け出せると信じたはずだ。
確かめに行かなくてはならない。さまざまな問題を。俺を取り巻く問題を。嘆くことをやめて。
そうすることでしか始まらない。そういう問題がある。俺は何かを取り戻しつつある。唐突に。
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