05-07
蝉の鳴き声が異様にうるさい、暑い夏の日だった。
道路の向こうが蜃気楼で歪み、街路樹の葉陰が鮮やかに地面を彩り、道路には車の通る気配もしなかった。
俺はそのとき学校にいた。
吹奏楽部の練習の音が、人の気配のしない校舎に冴え冴えと響いていた。
開け放たれた窓からは少しの風すらも吹き込まず、グラウンドからは運動部の掛け声だけが聞こえる。
昼下がりの太陽の日差しは、時間の割には白く明るい。
そこではあらゆる時間が止まっているように思えた。
その日だけではない、どこまでも透き通るような夏が、永遠に続いていくかのように思えた。そんな日だ。
けれどその日、トンボは死んだ。
屋上から飛び降りてアスファルトに頭をぶつけた。
彼は何かに殺された。それが何なのかは分からない。
きわめて意志的に彼は死んだが、その意志を作り出したのは彼自身ではなく"環境"だったろう。
つまりそれは"俺"を含んだ世界のことだ。
結局彼は自分自身を赦せなかった。赦すだけのものを、世界に見いだせなかった。
◇
スズメは笑う。
「そういえば、君はどうして"ジョー"って呼ばれていたの?」
「……あだ名。苗字の最初の文字を音読みして」
「他にあだ名はあった?」
「あったよ。別に、なんてことのないあだ名だったけど。あだ名のつけかたは同じだった」
「誰がそれを使っていたの?」
「……」
きいくん、と、幼馴染は俺をそう呼んだ。
◇
魔法使いの事務所には、シラノと喫茶店の女が眠っている。
目を覚まさない。怪我自体は魔法使いがすべて治した(直すと言った方が正解かもしれない)。
けれど目をさまさない。彼女たちも、もう目をさましたくないのかもしれない。
スズメの言葉を信じるなら、誰も彼もがここに逃げ込んできたのだ。
それがどんな形、どんな理由で起こるものなのかは分からない。
何が原因で起こったことなのかは、まったく説明されていない。
けれど実際、みんな逃げてきて、ここで会った。
そうしてひどく打ちひしがれていて、いまなお傷を増やし続けている。
「ここじゃないどこか」なんて、結局どこにもなかった。
◇
トンボはあの日、クラスメイトのひとりにこう言われたらしい。
「猫を捨てたくせに!」
いったいどういう話の流れで、そんな言葉が出たのか。
彼がどうしてそんなことを知っていたのか。
わからないけれど、その言葉が彼を屋上に駆り立てたのだろう。
とはいえ、発言した人間だけを責めることはできない。トンボは結局生きることに不向きな人間だった。
トンボは猫を捨てたが、猫を捨てることは悪くない。
そのことで誰かに咎められることの方がおかしい。
人間はそもそも生命を踏みにじっているからだ。
そう思って、俺はそのクラスメイトを呪った。トンボを殺したクラスメイトを呪った。
他の誰が彼を庇っても、俺だけはそれを続けなくてはと思った。
だが、ずっと考えているとそのうち気付く。
仮に"猫を捨てるのは悪くない"とする。根拠は"人間はもともと命を踏みにじっているから"だ。
だが、そうだとすると、クラスメイトもまた"悪くない"ことになる。
トンボは踏みにじられたが、結局彼の命もまた、子猫と変わらぬひとつのものでしかない。
数だけに的を絞って言えば、トンボの方が悪だ。
だから、"猫を捨てるのは悪くない"とすると、"トンボを殺すのも悪くない"ことになってしまう。
反対に"トンボを殺したのが悪い"とすると、それは"命を踏みにじることは悪い"と認めることになり、結果的にトンボに悪を認めることになる。
するとトンボは"死んでも仕方ない人間だった"ことになりかねない。
俺は、どう足掻いても「彼を庇うこと」と「彼を傷つけた人間を恨むこと」を同時にできない。
トンボは悪くなかった。死ぬ必要なんてなかった。じゃあトンボを死ぬ原因を作った彼も悪くないことになる。
でも、それはおかしい。
俺は言いようもなく悲しかった。ただただ悲しかった。初めてこのことに気付いた時、俺は声を失ってさめざめと泣いた。
それからもう二度とトンボには会えないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。
俺と彼は特別な友人でもなんでもない。ほとんど関わり合いがなかった。
じゃあ、俺と彼がもう少し仲の良い友人同士であったなら、彼は死なずに済んだだろうか?
彼は悪いことをたしかにしたけれど、それでも生きていこうと思うだけのものを、この世界に汲みとることができただろうか。
俺はその努力を怠った。最初から死ぬと分かっていたらもちろんもっと努力しただろう。
でも分からなかったし、死ぬと分かっているから始める努力なんてゴミだ。
だから俺は無力なのだ。この世は地獄よりも地獄的なのだ。
論理の上では自らの誤りを認めながらも、俺はトンボを殺した人間につらく当たった。
お前のせいでトンボが死んだと何度言いかけたか分からない。それはもちろん自分のことを棚にあげる恰好の言い訳になった。
やがて彼は学校に来なくなった。夏が終わる頃に、彼は学校をやめた。
俺はこの世に害しかなさない。
それでも、身勝手なのだろうけれど、俺は強い怒りを感じている。
鮮烈で痛切な怒りを感じている。
どうしてこんなことが起こるんだ?
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