05-07


 蝉の鳴き声が異様にうるさい、暑い夏の日だった。


 道路の向こうが蜃気楼で歪み、街路樹の葉陰が鮮やかに地面を彩り、道路には車の通る気配もしなかった。


 俺はそのとき学校にいた。

 吹奏楽部の練習の音が、人の気配のしない校舎に冴え冴えと響いていた。

 開け放たれた窓からは少しの風すらも吹き込まず、グラウンドからは運動部の掛け声だけが聞こえる。

 昼下がりの太陽の日差しは、時間の割には白く明るい。 

 

 そこではあらゆる時間が止まっているように思えた。

 その日だけではない、どこまでも透き通るような夏が、永遠に続いていくかのように思えた。そんな日だ。

 

 けれどその日、トンボは死んだ。

 屋上から飛び降りてアスファルトに頭をぶつけた。

 彼は何かに殺された。それが何なのかは分からない。

 きわめて意志的に彼は死んだが、その意志を作り出したのは彼自身ではなく"環境"だったろう。

 つまりそれは"俺"を含んだ世界のことだ。

 

 結局彼は自分自身を赦せなかった。赦すだけのものを、世界に見いだせなかった。

 




 スズメは笑う。


「そういえば、君はどうして"ジョー"って呼ばれていたの?」


「……あだ名。苗字の最初の文字を音読みして」


「他にあだ名はあった?」


「あったよ。別に、なんてことのないあだ名だったけど。あだ名のつけかたは同じだった」


「誰がそれを使っていたの?」


「……」


 きいくん、と、幼馴染は俺をそう呼んだ。





 魔法使いの事務所には、シラノと喫茶店の女が眠っている。

 目を覚まさない。怪我自体は魔法使いがすべて治した(直すと言った方が正解かもしれない)。


 けれど目をさまさない。彼女たちも、もう目をさましたくないのかもしれない。

 スズメの言葉を信じるなら、誰も彼もがここに逃げ込んできたのだ。

 

 それがどんな形、どんな理由で起こるものなのかは分からない。

 何が原因で起こったことなのかは、まったく説明されていない。

 けれど実際、みんな逃げてきて、ここで会った。


 そうしてひどく打ちひしがれていて、いまなお傷を増やし続けている。


「ここじゃないどこか」なんて、結局どこにもなかった。





 トンボはあの日、クラスメイトのひとりにこう言われたらしい。


「猫を捨てたくせに!」


 いったいどういう話の流れで、そんな言葉が出たのか。

 彼がどうしてそんなことを知っていたのか。

 

 わからないけれど、その言葉が彼を屋上に駆り立てたのだろう。


 とはいえ、発言した人間だけを責めることはできない。トンボは結局生きることに不向きな人間だった。


 トンボは猫を捨てたが、猫を捨てることは悪くない。

 そのことで誰かに咎められることの方がおかしい。

 人間はそもそも生命を踏みにじっているからだ。


 そう思って、俺はそのクラスメイトを呪った。トンボを殺したクラスメイトを呪った。

 他の誰が彼を庇っても、俺だけはそれを続けなくてはと思った。


 だが、ずっと考えているとそのうち気付く。


 仮に"猫を捨てるのは悪くない"とする。根拠は"人間はもともと命を踏みにじっているから"だ。

 だが、そうだとすると、クラスメイトもまた"悪くない"ことになる。

 トンボは踏みにじられたが、結局彼の命もまた、子猫と変わらぬひとつのものでしかない。

 数だけに的を絞って言えば、トンボの方が悪だ。


 だから、"猫を捨てるのは悪くない"とすると、"トンボを殺すのも悪くない"ことになってしまう。

 

 反対に"トンボを殺したのが悪い"とすると、それは"命を踏みにじることは悪い"と認めることになり、結果的にトンボに悪を認めることになる。

 するとトンボは"死んでも仕方ない人間だった"ことになりかねない。

 俺は、どう足掻いても「彼を庇うこと」と「彼を傷つけた人間を恨むこと」を同時にできない。

 

 トンボは悪くなかった。死ぬ必要なんてなかった。じゃあトンボを死ぬ原因を作った彼も悪くないことになる。

 でも、それはおかしい。


 俺は言いようもなく悲しかった。ただただ悲しかった。初めてこのことに気付いた時、俺は声を失ってさめざめと泣いた。

 それからもう二度とトンボには会えないのだと思うと、どうしようもなく寂しかった。


 俺と彼は特別な友人でもなんでもない。ほとんど関わり合いがなかった。

 じゃあ、俺と彼がもう少し仲の良い友人同士であったなら、彼は死なずに済んだだろうか?

 彼は悪いことをたしかにしたけれど、それでも生きていこうと思うだけのものを、この世界に汲みとることができただろうか。


 俺はその努力を怠った。最初から死ぬと分かっていたらもちろんもっと努力しただろう。

 でも分からなかったし、死ぬと分かっているから始める努力なんてゴミだ。


 だから俺は無力なのだ。この世は地獄よりも地獄的なのだ。


 論理の上では自らの誤りを認めながらも、俺はトンボを殺した人間につらく当たった。

 お前のせいでトンボが死んだと何度言いかけたか分からない。それはもちろん自分のことを棚にあげる恰好の言い訳になった。


 やがて彼は学校に来なくなった。夏が終わる頃に、彼は学校をやめた。

 俺はこの世に害しかなさない。


 それでも、身勝手なのだろうけれど、俺は強い怒りを感じている。

 鮮烈で痛切な怒りを感じている。

 

 どうしてこんなことが起こるんだ?


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