05-06


 

「おや」


 と店主は声をあげた。

 彼の視線の先はカウンターの上、水色の携帯電話が置きっぱなしだ。


「さっきのお客さんのだな。ねえ、君、ちょっと届けてきてくれない?」


「なんで俺が?」


「人手がないから」


「嫌だよ。携帯なんてなくたってどうにかなるし、忘れたって気付いたなら自分で取りに来るだろ」


「どうにかならないかもしれない。携帯っていうのは特にね、必要だから持ち歩いている人が大半なのさ」



「必要?」


 冗談よせよ、と俺は思った。


「携帯が必要って、そんなわけないだろ? なくたって全然かまわないものだよ」


「どうでもいいさ、そんなの。理由なんてどうでもいいけど、必要と思って持ち歩く人はいるんだよ」


 店主は俺を追い出すかわりにコーヒーを奢りにしてくれると言った。俺は仕方なく彼に従う。

 

 俺は店を出て女の背中を探した。


 街には人が溢れている。これで人が消えているなんて嘘だろう?

 減るならもっと減ればいい。人類なんて三百人くらいでもかまわないのだ。

 それも可能な限り良い人間を集めればいい。クズはみんな沈めばいい。俺も沈もう。


 でも、三百人しか人間がいなくなったら、今度はその中にクズが生まれる。そいつらも淘汰される。二百人になる。

 二百人の中にもクズが生まれ、百人になり、五十人になり、二十五人になり、十二人になり、六人になり、三人になり、二人になり、一人になる。

 残ったひとりが神様だ。


 俺は街を歩いた。もう外は夜だった。電灯と看板に照らされた街。ひどく空しい。

 眠るべきだ。

 みんな眠ってしまうべきだ。夜は特に。


 俺は右と左のどちらに行こうか迷った。どちらにも女はいない気がした。それでも追いかけなければならない。

 右と左なら左の方が好きなので、右に向かった(俺にはそういう好みと傾向がある)。


 歩いていると、いつのまにか靄がかかったように視界が不明瞭になる。

 俺はいつからかこの夜道を歩いている。飲み込まれている。

 こんなふうにして孤独に――いや、隣にはティアがいるのだが、それでも孤独に――歩いている。


 不意に、鼻先を甘い匂いがかすめる。

 足を止める。通り過ぎようとしたが後ろ髪を引かれた。どうやら、路地の方かららしい。

 匂い。甘い匂い。けれど、どうしてだろう。俺はその光景を覗いてはいけないような気がした。


 ――甘い匂い。

 

 路地は暗く、視界はきかない。匂いのする方へ近づいていく。一歩一歩。 

 現実から遊離している。いやそもそも、どこが現実なのか、俺にはまったくわからないのだが。

 ……そうだったか? 違う。俺は目に映るものを現実として扱おうとしたのだ。

 だからこれは現実だ。遊離しているような感覚すらも現実というだけにすぎない。


 足に水が触れた。なんだろう、と思う。跳ねるような音に、俺は下を向く。何かの塊があった。

 地面は水溜りに濡れている。雨が最後に降ったのがいつだったのかは分からない。

 俺が目を覚ます前まで、雨が降っていたとか? ……それなら、街中で水溜りを見つけたはずだ。


 だからきっと、この水溜りは水溜りではなくて――

 

 甘い匂いの発生源は、どうやら足元の水たまりらしい。触れてみると、それは生温かでべっとりとした感触を伴った。


 ――血だまりなのだ。


 心臓が鈍く脈動する。息を呑んだ。

 何かの塊だと思っていたのは、どうやら人の身体らしい。


 気付けば、何者かの気配がする。ティアが何も言わずに舞った。


 影から這い出る影のように、影で出来た細工のように、暗い路地裏に、黒犬がにじり寄っていた。

 カリオストロ、と俺は思う。

 俺は目の前の肉塊の貌を見ることにした。


 女だ。かすかに息を続けている。見覚えのある顔。ついさっきまで一緒にいた――。

 けれど、この血液の量は、地面を浸すほどの血だまりは、充満した甘い匂いは、既に死そのものだ。


 犬のがなり声。俺は身動きが取れなかった。

 こんなことが何度も繰り返されている。

"追いつかれてしまう"。





 自然科学部の部室には、シラノが横たわっていた。

 犬が鼻を鳴らす音が聞こえる。俺は彼女に歩み寄り、息があることを確認すると部室を出た。

 

 廊下を歩いて、ふと振り返ると、血の足跡がついていた。シラノの血。

 今、目の前で何かが起こりつつある。俺の中から現実感というものが奪われつつあった。

 現実のように見えるものを、俺はすべて信じるようにしてきた。


 でも、目の前のこれは本当に現実なのだろうか。今では、それすらも疑わしく感じられる。


 屋上にはスズメがいて、フェンスの向こうに目を向けている。いつもなら街を見下ろしている瞳が、今日は空を見上げていた。

 

「終わりそう」


 とスズメは言った。


「なにが?」


「世界」


 俺は溜め息をついた。


 もう何もかもどうでもよかった。明日隕石が落ちてこようがかまわない。

 何もかも、俺の中の手触りは失われていく。そもそもこんなふうに立っている今だって、俺はちゃんと覚醒しているのか?

 

「拗ねないでよ」


「拗ねてなんかないよ」


「そう?」


 彼女はバカにするように笑う。

 ――いや、ひょっとしたら、彼女はいつもと同じ微笑をたたえているだけで、馬鹿にされているように感じるのは俺の受け止め方の問題なのか。 


「何が起こってるんだろう?」と俺はスズメに訊ねた。


「みんな死んでしまいそうだよ。どんどんと血なまぐさいことになってる。いつのまにこんなことになっていたんだろう?」


「最初からだよ」と彼女は答える。


「ずっと前から、みんな傷ついてるの。たくさん血を流してる。それでも歩いていたの。気付かないふりをして。

 それでなんとかなっていたし、なんとかしないといけなかった。でも、もうだめなの。

"ここ"はもうすぐおしまいよ。みんな逃げ場所を失ってしまう」


「"ここ"って、何の話?」


「"ガラテアの領域"」


「……それってなに?」


「これまでなんとかなっていたけど、もうだめだって思った人が逃げ込む場所」


「逃げ込む場所?」


「みんな逃げてきたの。君の友だちも、そうじゃない人も。でも、それももうおしまい。カリオストロがきてしまったから」


「じゃあやっぱり、ここは現実じゃなかったんだ」


「"冥界"もね。どっちも、君が望んだものだよ」


「俺?」


「君が望んだようにしてきたの。だから、今ある結果だって、君が用意したものなの」


「まさか」


 俺は笑った。


「そんなわけない。俺がどうしてこんなことを望むんだ? こんなふうに何もかもを曖昧にごまかしたような場所を。

 俺はさまざまなことを忘れているし、さまざまなものを失っている。未だに立ち尽くしている。わけがわからないままだ。

 俺が望む通りになるなら、どうしてわざわざこんなふうにしなきゃいけない?」


「最初は違ったよ。君の思い通りの場所になった。そこそこ楽しかったはずだよ。

 でも、そのうち飽きてきたんだろうね。このままじゃだめだ、って思ったんだと思う。

 だから、今みたいなことになったの」


「答えになってない。どうして俺がこんな状況を望んだりするんだ」


「何もかもを曖昧にごまかしたい。いろんなことを忘れたい。

 何もかもなくしてしまいたい。たちどまってしまいたい。何も分かりたくない。

 そう思ったからじゃない?」


 俺は何も言い返せなかった。彼女の言っていることはめちゃくちゃだ。現実的じゃない。

 でも、もう俺の中から現実感は失われていた。夢の中を徘徊しているような浮遊感だけがある。


「それでもやっぱり、ダメだと思ったんだと思う。だから思い出そうとしたのよ、必死に。

 冥界なんて場所を作り上げて、自分で、現実とよく似た場所を作り上げて、そこを目の当たりにして、思い出そうとしたの。

 きっとね、そんなふうに立ち向かおうとしたのよ。結局、心は折れてしまったみたいだけど」


 俺の心臓がうるさく鼓動しはじめた。ティアはどこに行ったんだ? この女を黙らせてほしい。

 こいつは俺が聞きたくないことをさっきからべらべらと喋っている。これ以上話を聞いていては駄目なのだ。


「お前はカリオストロだな!」


 俺は叫んだ。


「お前がカリオストロなんだ! 俺を騙そうとしているな! 山師が! たかだか冥王が、俺を騙そうとしているな!

 侮るな! 俺がお前なんかに騙されるわけがないだろう! だらだらとどうでもいいことを並べやがって!

 お前の言葉なんて信じない! お前の言葉を信じれば、あの冥界が本当に近いってことになるじゃないか!」


「それで合ってるよ」


 スズメは戸惑った様子もなく笑う。理由もなく怒りが込み上げてきた。


「じゃあ、後輩はなんなんだ、どうして俺の近くにあいつがいる?」


「君がそう望んだから。現実では、君の日常に彼女はいない」


 俺が言い返そうとするが、彼女は自分の発言でそれを遮った。


「同様に君がトンボと呼んでいる男子も、存在しない。シラノとハカセはいるけど、別に仲は良くないね。

 ここには偶然迷い込んだだけ。現実には"自然科学部"は存在しないし、君は文芸部に所属している。

 文芸部の活動が思うようにいかないのも、君が逃げてきた原因のひとつみたいだけど」


 俺はここに来て、スズメがこれまでとはまったく違う意図で俺と話していることに気付いた。

 彼女はこの場で何かを終わらせようとしている。


「トンボが存在しない?」


「……語弊があったら言いかえる。今は、いない」


「じゃあ、トンボは、あいつは、やっぱり……」


「死んだ。七月の終わり頃にね」


 スズメが笑う。いっそう強い風が吹いた。

 俺は呼吸を忘れた。視界に映る一切のものから意味が剥奪されている気がした。

 どこにも俺の心を揺さぶるものはなく、どこにも俺を慰めてくれるものなかった。


 この世界の何もかもが、何もかもを苛んでいる。何もかもが苛みあっている。


 トンボは仔猫を苛んだ。そして彼もまた苛まれた。たったそれだけのことだ。

 俺はなぜだか急に泣き出したい気持ちになった。けれど涙は流れなかった。

 何も言えなかった。スズメも何も言わなかった。

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