05-05


 黒スーツも、ランドセルの少女も、俺のことを覚えていた。そのことを不思議がる余裕も今の俺にはない。

 俺の頭の中はからっぽになりつつあった。あるいは最初から、からっぽだったのかもしれない。


 魔法使いの女は、この世界に起こったいくつかの変化について、俺に教えてくれた。


 人が更に減ったこと、黒い獣が街を徘徊していること……どれもこれも、今の俺にはどうでもいいことのように思えた。


 赤の他人がいなくなったところで、俺はまったく悲しくない。

 視界に入らない他人は、もはや背景ですらない。数字だ。数字が増えたり減ったりすることに悲しみを覚えるはずがない。

 

 少女は赤いランドセルを背負って事務所を出た。黒スーツはしばらくコーヒーを飲んでいたが、夕陽が沈むころに去って行った。


 残ったのはハカセと後輩、魔法使いと俺、それからティアだけだ。「シラノはどうしたのか」と訊ねると、彼らは首をかしげた。


 結局、ここ数日の俺は振り回されてばかりだった。

 なにひとつ突き止めることはできなかったし、なにひとつ取り戻すこともできなかった。


 俺は何もしていないのと同じだった。何かを得ようとしてあの鏡を調べようとしたのに、何も得られなかった。

 無数の傷を受けただけ。あるいは……無数の傷を思い出しただけと言うべきなのか。


 俺はまた逃げ出したのだ。そう思う。なぜかは分からないけれどそう感じる。


 ティアがかすかに溜め息をついて、俺に言った。


「これでよかったのよ。あなたにはこうすることもできた。そういう選択肢があったのよ、最初から」


 そうだ。別に俺が逃げたところで誰かが困るわけではない。俺はもともと必要とされていない人間なのだ。

 逃げずにいるのはあまりに苦痛だし、あまりに耐えがたい。何もかも忘れて退屈に溺れた方が、よっぽどマシだ。


 喉の渇きはいくら歩いたところで満たされるわけがないのだから、熱砂に沈み、干からびるのを待つ方がよほど理性的だ。


 俺は起き上がって学校に行くことにした。魔法使いが俺を止めようとしたが、体に問題はなかった。怪我は痛んだが、少し、だ。

 呆れ顔の三人を置いて、俺とティアは事務所を出る。脇腹がじくじくと痛んだし、首筋が火傷のように疼いた。

 

 学校には人の気配がしなかった。時間が時間だというのもあるが、それよりももっと根本的に、人がいなくなりつつある。

 俺は旧校舎に足を踏み入れ、鏡へと向かった。薄暗く埃っぽく黴臭い。誰が好き好んでこんな場所に近付くのだろう。

 錆びついたドアノブを思わせる場所。そんな場所に。


 ティアは耳元でささやき続けている。


「カリオストロはまだ諦めていないみたい。一度取り込みに失敗したから、少し警戒しているようすだけど」


「取り込み?」


「取り込み。奴はすぐにでもやってくるわ。警戒しているって言っても、彼には他に方法なんてないんだから。

 でも、大丈夫よ、今のあなたなら。あなたは肝心なことを分かってる。信じたいものを信じるしかないってことをね」


 俺には彼女の言葉が空疎な言い訳にしか聞こえなかったが、事実俺は信じたいものを信じる以外に方法がなかった。


 何もかもが相対的で、だからこそ物事が懐疑の波に襲われている。俺は別にシニシストじゃない。

 けれど、他にどういう態度がありえるのだ? 


 どんなものも相対的な価値しか持ちえないということは、結局のところどんなものにも価値なんてないのだ。

 たとえば俺は後輩に好意を寄せているが、そんなのは所詮一時の感情に過ぎないと言ってしまえばそれまでだ。


 事実、俺は後輩がこの世からいなくなっても生きていけるだろうという気がしている。

 実際、生きていくだろう。必要不可欠な存在などない。

 それは同時に"俺"すらも必要じゃないということだ。誰よりもまず俺が"俺"を必要としていないのだ。


 俺が世界を見るための媒介者に過ぎない"俺"という道具を、俺は必要としていない。不要な道具だ。

 俺はもう何ひとつ見ていたくなんてない。何もかも忘れたい。記憶もいらない。消え去ってしまいたい。

 だから「俺」は不要だ。


 手首は変わらず落ちていた。赤黒い断面が覗く。鏡の傍には何もなかった。

 魅力的なものもなければ恐ろしいものもなかった。手首だけがあった。痕跡だけがあった。


 それは何ももたらさない。


 俺は手首をつかむ。ひどく冷たかった。俺は体育館裏の切り株の近くに向かう。手首をそこに埋めることにした。

 用務員室でスコップを借りて穴を掘った。深い穴だ。穴の底に立つと地面が臍くらいの高さになった。

 手首を投げ入れ、穴を埋める。埋葬だ。そしてこれは逃避でもある。俺は手首を埋葬すると同時に、現実を覆い隠そうとしていた。


 何もかも忘れて、このまま退屈の熱砂に沈み込む。何の感覚ももたらさない世界に向かう。

 つまりこれはまじないだった。俺は呪いを掛けていた。


 本来なら意味を持たないはずの行為に意味づけする行為。特別でない行為に特別な意味を与え、勝手にそれを信じる行為。

 

 俺は手首を埋めることで、もう二度と自分の心の底を掘り返すものが現れないことを願った。ティアは何も言わなかった。





 作業を終えてスコップを用務員室に戻す。手を洗ってから、俺は手首を埋めた場所をもう一度覗いた

 埋めてみると、土の色が変わっている以外は、なんの変化も見られなかった。

 結局そういうことだ。何ももたらさない。


 俺は溜め息をついて、それから学校の敷地を出た。コーヒーを飲みたい気分だったので喫茶店に向かう。

 

 店の中は相変わらず閑古鳥が鳴いていて、店主を除くとたった一人の客しかいなかった。

 顔なじみの女は俺に気付くと意地悪そうに笑った。


 俺はカウンター席に腰を下ろしてコーヒーを注文した。隣の女と何かを話そうとしたけれど、話すことはなにひとつなかった。

 ここ数日、俺を変化させていた何かが消え失せてしまった。


 所詮、俺には何もできない。結局何も変えられない。たったひとりの友人ですら見殺しにし、たったひとりの妹すらも慰められないような人間には。

 とうに、世界は俺に愛想を尽かしている。誰も彼も。所詮、俺はそういう存在だ。


「拗ねてるの?」


 女は言った。どうやら俺に向かって言ったらしいが、興味が湧かなかった。


「ふてくされてるの?」


「割とね」


「へえ」


 興味深そうに笑う。俺の頭の中に形容しがたい怒りがふつふつとわき上がってきた。


 じゃあどうしろっていうんだ? 確かに俺は甘ったれてるし拗ねているしふて腐れているけど、それがどうした?

 結局のところ相対的な価値しか持ちえないなら、どんな風に言いつくろっても生きていたところで仕方がないのだ。

 所詮は無価値なのだ。生きていたところで仕方ない。


 にもかかわらずどうして生きることを是としていられるのだろう。その方が「良い」ように思えるのだ?

 俺はそんなふうに感じられることなんて一度もなかった。


 生まれてこのかた、世界は理不尽で不条理で唐突だった。もちろん楽しいこともあったが、それすらも価値を持たないものだ。


 こんな悪趣味な世界にどうして俺は生まれなければならなかったのだろう。

 考えるのはいつもそのことだ。ましてや何故生きていかねばならない?

 まったく無価値で悪趣味で不条理な世界。なぜ俺たちはこんな場所にこんなふうに生まれたのだろう?


「ガキ」


 と女は言った。なんとでも言え。俺はコーヒーを啜る。


「私、もう行くわ」


 女は勘定を済ませて立ち上がった。出ていくとき、彼女は不意に俺の頭をぽんと叩く。

 俺は振り向かなかったし、何も言わなかった。

 あの人は何にも分かっちゃいないのだ。


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