05-04


 夢を見ている。

"夢"と分かる夢を見ている。つまりこれは明晰夢だ。

 

 蝉の鳴き声が異様にうるさい、暑い夏の日だった。


 道路の向こうが蜃気楼で歪み、街路樹の葉陰が鮮やかに地面を彩り、道路には車の通る気配もしなかった。


 俺はそのとき学校にいた。

 吹奏楽部の練習の音が、人の気配のしない校舎に冴え冴えと響いていた。

 開け放たれた窓からは少しの風すらも吹き込まず、グラウンドからは運動部の掛け声だけが聞こえる。

 昼下がりの太陽の日差しは、時間の割には白く明るい。 

 

 そこではあらゆる時間が止まっているように思えた。

 その日だけではない、どこまでも透き通るような夏が、永遠に続いていくかのように思えた。そんな日だ。


 俺にとって重大なことはすべて夏に起こった。

 そしてすべての夏は、あっというまに俺を取り残して去っていく。

 俺は秋になるといつも悲しくなる。夏の終わりになると、ひどく後ろめたくなる。

 

 どこにも行けない自分自身を発見し、どこにも行きたくない自分自身を発見する。

 そうして俺は秋をひとりで過ごす。

 夏に思いを馳せることだけに熱中し、ただ静かに時の流れに身を任せる。

 夏は終わってしまった。




 

 目を覚ますと、呆れ顔の魔法使いが見えた。


 最初に感じたのは後悔だった。どうして目を覚ましたんだろう。

 もう俺は目を覚ましていたくなかった。何かを思い出してしまった気がしたのだ。


 もう手遅れだった。俺はもう涙も流せなかった。いっそこのまま機械になってしまいたい。

 何もかもが俺の表面だけを撫で、通り過ぎていく。何も俺の奥底の芯には触れてくれない。

 俺を揺さぶるものはひとつだって残されていない気がした。


 でも、それはただの錯覚だ。現に俺は後輩の姿を見れば胸を揺さぶられ、ハカセと笑い合えば楽しくなる。

 シラノと話すことで悲しくなることもあるし、新しく出会った誰かの内面に触れることは常に面白い。


 だからこそ、この世は地獄よりも地獄的なのだ。

 俺はもう楽しい気持ちになんてなりたくない。ただ嘆いていたい。悼んでいたい。悲しんでいたい。憐れんでいたい。

 俺の精神は明らかにそういった形の生を望んでいる。にも関わらず、なぜ心は未だに活発に動き回るのだろう?

 結局のところ、俺は真実傷付いてはいないのかもしれない。そのことが何よりも悲しい。


 魔法使いの事務所には、黒スーツと少女がいた。後輩がいた。ハカセがいた。シラノがいなかった。トンボもいなかった。


「また無茶苦茶したね」


 魔法使いが言ったので、


「仕方なかったんだ」


 と俺は答える。

 だが、彼女は肩をすくめて首を振った。


「うそつき」と彼女は笑う。たしかに俺は嘘をついた。


「ねえ、ひょっとして死にたかったの?」


 今度は俺が肩をすくめる番だった。


「八割くらいはね」


「本当に死ぬところだったのよ!」


 耳元で声がして、俺は咄嗟にのけぞった。聞き覚えのある声。ティアだ。


「どうしてあんなことをしたの?」


「さあね」

 

 実際、俺には自分がなぜあんなことをしたのかがわからなかった。

 もっと上手いやりようはあったはずだが、あのときはああするしかなかった。

 あんな風に噛み千切られ、抉られ、引きずられることの方が、無傷でいるよりもよほど慈悲めいて見えた。

 俺は別にマゾヒストではないし、血液や傷跡に陶酔する柄でもない。

 痛いのは苦手だった。


 けれど、俺には必要なことだったのだ。……結局、無意味なことでしかなかったけれど。


 俺は、もう二度とトンボとは会えない気がした。それが自然なのだ。


 何もかも通り過ぎていく。俺の現実は、ひそやかに蠢いている。息づいている。舌なめずりをしているのだ。




 トンボは猫を捨てた。

 小さな猫だった。

 四匹の猫だ。

 つまり殺したのだ。彼は四匹の仔猫を殺した。

 

 だが、そのことで彼が何かから咎められたことはない。

 誰も彼を咎めるだけの正当性なんて持っていなかった。

 

 彼は猫を殺したが、それ以前から、そもそも彼は命を踏みにじって生きていた。

 豚、牛、鳥の肉を食べた。魚も食べた。


 こういったことに対して、


「生きるために食べるのは仕方ない。身勝手で殺すのは違う」


 という反論が現れうるが、これはかなり欺瞞的だ。


 そもそも生きようとする行為そのものが身勝手なのだし、第一に本当に"生きる為"に牛、豚、鳥"を食べる必要があるのかは疑わしい。

 菜食主義者になれというわけではないが、それはどちらかと言えば"嗜好"に近い。


 実際、牛を食べない国も豚を食べない国もある。"牛や豚を食べること"は必要ではない。

 逆に、「人間が食べる為に飼育しているからこそ、豚、牛は絶滅せず生き延びている」と言うこともできる。

 だが、絶滅するよりは絶滅しない方がいい、という考え方そのものが人間の身勝手な押し付けでしかない。


"残っていない"よりも"残っている"が尊いことだと誰が決めたのか。 


 生きていくために命を踏みにじるのは仕方ないことだ。


 菜食主義者であろうと植物を食べることは確かであるし、そうするためには虫をも殺さないわけにはいかない。

 人間はあらかじめ生命を踏みにじっている。


 だから人間は悪い、というのではない。命はみんなそうした性質をもってめぐっている。


"人間が動物の命をどうこうできる"と考えることがそもそも傲慢なのだ。

 殺さざるを得ない状況のときは殺す。殺す必要がなくても殺す方が楽しめるなら殺す。

 それだけのことをしているにも関わらず、お前は猫を捨てたな!"と空々しく責めることのできる人間がどれだけいるだろう。


 じゃあ仮に。仮にの話、トンボが食うために猫を殺したとしたら、彼らはどうするのだろう?

"生きていくために仕方ない"と言えるか?

 言えない。他のものを食えばいい。


 だが、"他のものを食えばいい"のは、別に豚にも牛にも言えることだ。鯨にも海豚にも言えることだ。

 俺たちはそもそも嗜好によって生命を自分たちなりに価値づけている。

 

 だから俺は言う。


"生き物を殺すこと"は悪ではないし、"食べること"も悪ではない。

 よって"捨てること"も悪とは言えないし、"可哀想"と思うのは勝手な自己投影に過ぎない。

 猫を大事にしたい人間は身の回りの猫に愛情を注げばよい。


 所詮それが相応だ。人間にはそこまでしかできない。 

 自分の生活を犠牲にしてまで猫を生かそうとする人間はいない。

 そもそも人間は、食うに困れば自らの子供ですら捨て去る生き物なのだから。

 そのことで他人を責める権利なんて誰にもない。

 それが罪ならば俺たちは等しく同罪だ。


 トンボは仔猫を捨てた。だがこのとき、周りの人間が猫を引き取ったらどうなっていただろう?

 もちろん、彼は猫を捨てなかったことになる。


 現実には、誰も引き取らなかった。だから猫が死んだのだ。トンボは捨てざるを得なかった。

 引き取らなかった奴が悪いというのではない。

 つまりそもそも、そういう"システム"なのだ。


 だからトンボが命を踏みにじったとしても、誰も文句は言えない。

 誰も文句は言えないのだ。

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