05-03
もう一度鏡を調べに行こう、と言うと、ハカセは一瞬だけ強く反発したが、結局頷いた。
シラノは何も言わなかった。
旧校舎は相変わらず黴臭く、埃っぽい。その様子は世界Aとなんら変わらない。
俺たちは例の鏡を目指した。そこまでの距離は以前より長く感じられた。
後輩は何かに怯えるような表情でこちらを見た。
俺は彼女の視線を無視して、ずっとひとつのことを考えていた。
(俺はいったい何を忘れているのだろうか?)
それはおそらく大事なことなのだろう。
それを忘れているからこそ、俺の推測は、なんだか大事な芯が欠けたように曖昧なのだ。
それにしても、旧校舎の廊下は長い。こんなに長かっただろうか?
カリオストロ。彼はいったい、今どこで何をしているのだろう。世界を滅ぼすのではなかったのか。
俺は静かに考える。
カリオストロ。
彼はいったい、俺に何を見せようとしたのだろう。
彼が俺に見せようとした"現実"とはなんなのだろう。
俺が世界Bにやってきて分かったことと言えば、世界Aの不確かさ程度のものだ。
それだけのためにこの"世界B"が用意されていたのだろうか。
現実に近しい世界B。けれど、ここは現実ではない。
俺はとりあえず、世界Aを現実だと信じることにした。そうすることでしか前に進めない気がした。
それは"現実である"と確信するというよりは、世界Aを基準にする程度の意味でしかない。
少なくとも"世界B"を基準にするよりは分かりやすい。
――いつの間にか、袋小路に落ち込んでしまっている気がした。
世界Aを信じるとしても、世界Bを信じるとしても、両方を信じないとしても同様に、巨大な混乱が俺を襲ってくる。
ティア、と俺は思った。せめて彼女がこの世界Bにいてくれたなら、もう少し何かがわかったかもしれないのに。
何を信じればよいのだろう。ここは本当に夢の中なのだろうか? どう考えても現実としか思えないのに。
だが……俺は心の底で、ここが現実ではないことに納得しているような気もした。
わけがわからない。俺の思考はいつからこんなに混線しているのだ?
以前はこんなことはなかった。俺の思考はいつのまにかひどく混乱している。
おそらくはカリオストロの影響だ。……カリオストロ? そうだろうか? 根拠はなんだ?
――ない。根拠がなかった。俺の考えていることには根拠がなかった。まったくなかった。
いつからこんなことになったんだ?
自分自身の考えでさえ、しっかりとまとまっていない。
いや、違う。俺は何を考えているのだろう。結局俺は何について考えているんだっけ?
第一、ここが世界Aだとか世界Bだとか、そんな区別だって本当のところ無根拠なのではないか。
無根拠なことを原因に他者の実在を疑ってどうなる?
"世界Bが現実ならば、後輩の実在性が疑わしい"? どうしてそうなる?
世界Bの中がただの夢であって、世界Aが本物なのかもしれない。どうしてその可能性を無視しているのだ?
俺はいつからかこんなふうに混乱している。何かが俺を追いかけてきている気がした。
なんだろう? いつからだ? いつからこうなった? 俺の頭は上手に動かない。
そうだ。ここは酸素が薄いのだ。だから混乱している。でも、どうして酸素が薄いのだろう?
ここは別に密室でもなんでもない。酸素が薄いなんてことはないはずだ。でも、事実息苦しいのだ。
息苦しい。息苦しくてたまらない。ひどく生き苦しい。こんな場所に、正気の人間がいられるわけがない。
逃げなくてはならないのだ。俺はこんな場所に一秒だっていたくない。もう一秒だってこんなものを見ていたくない。
でも、"こんな場所"ってどこだ? "こんなもの"ってなんだ? 俺はまた何かから目を逸らそうとしている。何から?
"現実"。
不意に、前を歩いていたハカセが足を止めた。あともう少しで、鏡のある場所にたどり着くはずだった。
彼は踊り場を見上げ、呆然と立ち尽くしている。シラノが彼の視線を追った。後輩もまた、少し遅れて"それ"を目にする。
俺は見たくなんてなかったけれど、見るしかなかった。
そこにはトンボがいた。
◇
トンボの足元には四匹の仔猫がいた。
それらはしばらくのあいだ鳴き声をあげてトンボの足にすり寄っていたが、やがて鼻を鳴らしてこちらを向いた。
怖気を覚えるのと同時に、俺はトンボの顔を見る。彼は何の感情も宿していない無表情で、じっとこちら眺めている。
あたかも俯瞰するような目だった。
俺はまったく動けなかった。シラノやハカセも同じだろうと思う。
トンボの瞳はあまりに冷徹だった。俺には彼が、トンボとまったく同じ顔をした別人に見えた。別人にしか見えなかった。
何の言葉も行き交わないまま時間が過ぎた。トンボはやがて足を揺すり猫を動かした。ちょうどけしかけるような動きだ。
悪い予感が消えてくれない。
猫は牙を剥いた。最初、俺は何が起こったのか分からなかった。
四本の足を器用に動かして、子猫は宙を舞う。階段の途中にいた俺たちはなんとか回避できたが、バランスを崩しかかった。
次の瞬間には、猫は階下にいた。挟まれた、と俺は思う。俺は自分が子猫に怯えていることに気付いた。
トンボを見れば、口角を釣り上げて笑っている。
「逃げるぞ」
と俺は言った。ハカセたち三人は状況を飲み込めていない。俺も本当のところ、仕組みに気付いてはいない。
舌打ちしたい気分だ。
「どこへ?」
と後輩が言う。彼女の声には緊迫感がなかった。
そもそもなぜ逃げなければいけないのか、今、何がどうなっているのか、彼女は分かっていないのだろう。
俺はトンボの背に隠れた鏡を見据える。一歩足を踏み出すと、猫ががなり声をあげて飛びかかってきた。
右手の指先に強烈な痛みを感じ、咄嗟に振り払う。血が滴った。噛まれたのだ。
四匹の仔猫は俺たちを囲んだ。トンボは高見の見物をしている。
悪い夢でも見ている気分だった。たった四匹の仔猫に、どうしてこんなに怯えなければいけないのだ。
俺の指は抉れていた。跳躍力を見た時点で分かっていたが、ただの猫ではない。
俺はハカセとシラノを急き立て前に進ませた。彼らは状況を分かっていないながらも従う。
(俺は階段を"昇る"ように彼らを急き立てた)
そうこうしている間も、猫は頭上を飛び交った。足に、腕に、首筋に、噛み付こうとしてくる。
俺は避けるのに精一杯だった。自分がどうしてこんなことをしているのかもわからなかった。
いつのまにか、小さかった仔猫が、犬ほどの大きさになっている。頭痛がしそうなのをこらえた。
俺は近付いてきた猫を跳ね飛ばし、蹴り飛ばし、殴り飛ばしたが、それでも彼らはひるまなかった。まったくひるまなかった。
俺の身体には自然と傷が増えていく。どんどんと抉れている。段々と、俺は自分が何をしているのか分からなくなった。
隙を見ては階段を昇る。鏡までの距離はひどく長いものに思えた。
一緒にきた三人はもうすぐ鏡にたどり着く。その間も猫が彼らを襲おうと身構えている。
トンボは表情を変えずにその様子をじっと眺めていた。やがてハカセが自分の前に来ると、彼は鏡の前からすっと身を動かした。
ハカセは戸惑っていたが、すぐに決心を決め、鏡に触れた。すると彼の身体がするりと鏡に飲み込まれていった。
トンボはここで大きな笑い声をあげた。俺には何がなんだかわからなかった。トンボは何がしたいのだろう。
シラノはトンボを追って鏡に腕を伸ばす。ここで仔猫がシラノの下に向かおうとしたが、俺はそれを蹴り飛ばして阻止した。
そうしている背中に、猫が噛み付いてくる。もはや何が起こっているのかもわからない。
猫は猪ほどの大きさになった。もはや蹴り飛ばせも跳ね飛ばせもしない。噛み付かれれば死んでしまうだろう。
腕をもぎ取られてしまうかもしれない。
後輩はしばらくこちらを振り向いていたが、俺が目で促すと鏡に手を伸ばした。彼女はことさらスムーズに、鏡に飲み込まれていく。
やがて猫は動きを止めた。トンボが静かに俺の様子を見下ろす。
満身創痍というにはなまぬるい。だが、血が床に垂れる程度には傷ついていた。
これはいったいなんなのだろう。俺は何かを思い出しそうな気がした。
頭の奥の方が疼く。俺は何かを思い出そうとする。カリオストロの声が聞こえた気がした。
俺は仔猫の動きがないことを確認して、階段を昇る。鏡までの距離はおそろしく長い。
それでもやがては辿り着き、俺はトンボを一瞥して、鏡に手を触れようとした。
そこでトンボは、
「おまえは駄目だ」
と厳めしい声をあげる。
頭が後ろに強く引かれる。髪を引っ張られているのだ。トンボは激しい力で俺をひきずろうとしている。
両足を踏ん張り、それに抵抗しながら、必死に鏡に向かって手を伸ばす。
だが鏡の向こうには何もつかめるものがなく、俺は後退していく。
意識が徐々に朦朧としてきた。なぜなのか分からないことが多すぎる。
不意に俺の指先を掴む何かがあった。その力は俺を鏡の向こうに引きずりこもうとしている。
痛みはいっそう激しくなった。トンボは空いている方の手を俺の抉れた傷口に差し込んだ。
差し込んだ指先が俺の身体を激しく貪る。痛みが脳髄に痺れるようだった。
呼吸が上手にできない。それでも何かの力が、俺を鏡の中に引きずり込もうとしていた。確実に。
俺の身体が鏡に呑まれる。正常な思考ができる状況ではなかった。
どうしてこんなことになった? 俺にはどうにもできなかったのか?
やがて俺の身体は鏡を通り過ぎる。トンボに掴まれている頭だけが残った。
不意に力が強まり、俺を鏡の中に引きずり込む。俺は最後にトンボの顔を見た気がした。
なにかが落ちる音がして、自らもまた床に投げ出される。
旧校舎の踊り場。そこには三人がいた。
俺は自分の様子を眺めようとして、やめる。
ハカセやシラノが大声で何かを言ったが、俺にはそんなことよりもっと気になるものがあった。
俺は落ちていた"それ"を拾う。
手首だ。おそろしく綺麗な指先。ともすれば女性のものと見紛うような……。
全身から、力が抜けていく。何もかもが溶けていくようだった。
体が脈動しているように感じた。血が震えている。
ああ、俺は意識を失おうとしているのだ、とふと思った。
意識が途切れる。断絶。断線。
(俺は何を忘れているのだろう?)
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