05-02


 特にどうというところのない夏だった。


 子供らしくよく遊び、子供らしくよく出かけ、よく寝た。

 今と違いがあるとすれば、両親もそのことに積極的だったという程度だ。


 あの夏、俺と幼馴染と妹は、三人でたくさん遊んだ。

 両親がああなってからも、変わらずに遊んだ。


 俺と妹にとって幼馴染は、閉鎖的な場所に取り残された自分と"外"とを繋ぐ、たったひとつの糸のようなものだったのかもしれない。

 俺と“世界”をつないでくれる、たったひとつの糸。

 

 幼馴染が転校して、俺と妹は両親のいる家に取り残された。

 誰かが悪いわけではないし、誰かが望んだわけでもない。

 なぜだかわからないが、そうなったのだ。


 おそらくはそういう種類の形の、それも悲劇が、日々繰り返されている。

 それはたぶん"世界のシステム"の問題だ。


 ――だったら、こんな世界は滅びるべきじゃないか?

 何の理由もなく、苦しみが生まれるような世界なら。


 カリオストロならこう言うのだろう。だが俺なら、


 ――まさか。


 と思う。

 

 たしかに不満は多いけれど、それは自分の手で改善するべき種類の問題だ。


 滅びるべきなのは世界よりもむしろ"自分"なのだ。

 俺こそが滅びるべきなのだ。


 だが、そう考えるには何かが足りないような気がする。

 ひょっとして、俺はまだ何かを忘れているのだろうか?





「どんな具合?」とスズメは訊いた。


「よくないね」


 俺が言い返すと、彼女は満足そうに頷く。


「何がどうなっているんだか、まるで分からない」


「まあ、そうだろうね。でも、この状況を作ったのは君だから」


「本当に?」


「割とね」


「どうすればいいと思う?」


 訊ねてから、俺は本当のところ彼女を普通の人間として扱っていないのではないかと思った。

 最初からずっと、彼女が俺のすべてを見透かしていることを前提に話をしていたような気がした。


「好きにすれば」


 ことさらそっけなく、スズメは呟く。

 俺は頭を掻いた。


「ここはどこなの?」、


「"ここ"は屋上。でも、君が言いたいことは分かる。"屋上"とは別だけど、君が言う"ここ"はカリオストロの冥界」


 スズメの声が屋上に響くと、風がいっそう強まった気がした。


「ここは"現実"なの?」


「君がそう呼ぶものに近しい。でもちょっと違う。まだ思い出せてない」


「何を思い出せてないんだろう?」


「思い出すしかない」


 彼女はそこで言葉を区切った。俺は次の質問を投げかける。


「あの鏡を通って、元の場所に戻ることはできる?」


「できるよ。でも、本当にそれでいいの?」


「分からないけど……」


 俺はフェンスの向こうの空を見つめた。灰色にくすんだ雲が頭上を覆っている。

 ここにも長くはいられない、と俺は思った。


 スズメには何も言わず、俺はそのまま屋上を出ることにした。

 俺は何を忘れているんだ?





 自然科学部の部室にはハカセがいて、シラノがいて、それから後輩がいた。

 後輩とは、今朝一緒に登校してきたが、俺はそのことをあまり気にしないように意識した。


 ハカセとシラノは後輩の姿を見て驚いた。どういうことだ、とハカセは言ったが、説明はできなかった。

(何をどう説明できるというんだろう?)


 俺には、ハカセやシラノの姿が曖昧な、おぼろげなものに思えてきた。


 恐れていたことが現実になりはじめている。

 現実にしか見えないものを何かひとつでも疑ってしまえば、現実ですら、現実には見えなくなるのだ。


 ハカセはしばらく後輩の姿をじっと見つめていたが、彼女が何も言わずにいると、やがて諦めたように溜め息をついた。


 もちろん、現状では、俺にとって世界Aもまた現実の一部分でしかない。区別をつけることは困難だ。

 だが、俺たちは世界Aという場所にいることで、何か(おそらくは本当の現実)から必死に目を逸らそうとしていたのだ、と考えることができる。

 

 スズメの言葉を信じるなら、けれど――"世界Bすらも現実ではない"。


 では、現実はどこに行ったんだ?

 

 シンプルに結論付けてしまえば"ここは現実"ではない。"世界A"も"世界B"も現実ではない。

 ここは現実味のある夢のような場所なのだ。


 そう考えるほうがよっぽど自然だ。俺自身の感覚を疑ってしまうなら。

 

 まず妖精なんてものが存在するわけがないし、あんな黒い犬が街を徘徊するはずがない。

 あの怪しげな大男が住宅地の公園にいて通報されないわけがない。魔法使いなんていない。


 であるならここは、夢の中なのではないだろうか。


 今になって、ようやくそのことに思い当る。


 では次の問題は、"では、どうして俺は目覚めないのか?"という問題だ。


 もちろん夢というものは何でもありだし、長い時間夢の中に居たように思っても、たった一晩眠っていただけだった、ということも珍しくはない。

 だが――この"夢"にはもっと大きな意味がありそうだ。

 

 これは願望ではない。

 おそらくこの"夢"は、俺に何かを伝えようとしている。

 そういう漠然とした確信が俺を悩ませている。それをどこまで信用していいんだ?

 この世界すべて、俺が作り出した妄想なのかもしれない。……そんな結論を、どう受け止めればいい?


 この世界で起こる出来事は、今にして見れば俺にとってあまりに痛切すぎる。

 ひとつひとつの出来事が、俺の精神に対してひどく強烈に影響を与える。


 俺は本当に"世界A"で生活していたのだろうか?


 俺にはティアに会う前の"世界A"での記憶がほとんどない。

 どれもこれも焼き増ししたように同じものに感じられる。生活というほどくっきりとした抑揚は存在しなかったはずだ。


 ある瞬間、唐突に"世界A"の途中に投げ入れられたようにすら思える。

 どうしてそんなことを感じるのか、分からない。分からないことが多すぎる。


 もう一度、世界Aに戻るべきなのかもしれない。スズメは"それでいいのか"と言ったが、俺にはこのままでいる方が納得できない。

 何が現実なんだ? 俺はいったい何を忘れているんだ?


 そこがはっきりしないかぎり、俺はなにひとつ行動できないのだ。


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