05-01


 幸いというべきか、両親は帰ってこなかった。

 妹に着替えを貸させて、ひとまず後輩に飯を食わせ、風呂に入らせた。

 

 後輩が借りたスウェットのサイズはほとんどぴったりで、よく馴染んで見えた。


 彼女はしばらく俺の部屋で休んでいたが、やがて八時を回った頃に布団を敷いた空き部屋に戻った。

 後輩の姿を見ていると、俺はなんだか胸の奥にじくじくとした痛みを覚える。

 そういう感覚に気付くたびに、自分の中に彼女に対する好意を強く自覚せざるを得なかった。


 俺は彼女のことが好きなのだと思う。どうしてなのかは思い出せないが、俺にとって彼女はそういう存在なのだ。

 同時に俺は、彼女に対する衝動とでも呼ぶべき暴力的な欲望が、自分の中にたしかに存在するのを認めざるを得ない。


 それを踏まえて言うなら、彼女は俺にとってあまりに都合の良い存在だった。

 都合の良い存在であり過ぎた。


 いわば彼女は、俺と現実との間を繋ぐ最後の紐のようなもので、彼女がいるからこそ俺はかろうじて生きていくことができていた。

 彼女の存在を励みになんとかやることができた。だが、それはあまりに都合がよすぎる。

 

 ひょっとしたら彼女は――あるいはあのティアがそうなのかもしれないが――俺の作り出した妄想か何かなのではないか。

 既に現実と妄想の区別は曖昧になっている。  


 俺は、自分はどうしてティアの存在を疑わないのだろうと考えていた。

 まっさきに疑問に思うべきなのはティアや、あの黒犬の存在ではないのだろうか。

 ましてや、いないはずの幼馴染を目の当たりにしたという前提があるのだ。

 

 目に見えていることすら疑ってかかるなら、俺にはさまざまなものを疑う必要がある。

 だからこそ、俺は現実と非現実を区別しようとしなかったのだが……。


 そしてその問題は、もっと別の形で目の前に現れるだろう。


 と、そこでノックの音がして、部屋の扉が開いた。 


 扉を開けたのは後輩だった。彼女は困ったような表情で、部屋の前に立ち尽くしている。


「どうした?」


 訊ねてみても、彼女は「あの」だとか「えっと」だとか、意味のない言葉を口から発するだけで、何も言ってこない。


「とりあえず入れば?」


 そう言ってみても、彼女は少し躊躇した様子だったが、やがて吹っ切るように部屋に踏み込んだ。

 彼女が扉を閉めると、俺たちはふたりきりになった。妹はもう眠ってしまっただろうか。


 俺は彼女の様子を眺めた。黒い髪が濡れている。普段と違う格好だからか、彼女の表情はいつもより幼く見えた。

 しばらく待ったが、彼女は何も言ってこなかった。

「早く寝た方がいい」とも「何か用があるのか?」とも言う気にはなれなかった。

 俺たちの状況はあきらかに普段とは違う。そういった状況で、常識的なことを言う気にはなれなかった。



 彼女は何かを言おうとしてここに来たのかもしれないし、それを待つのも悪くない。

 第一、俺自身、彼女と少しでも長い時間、一緒に居たい気分だったのだ。


 やがて彼女は口を開いた。


「部長は、どう思いますか?」


「なにが?」と俺は分かっていないふりをする。


 後輩は話を続けようとしたようだったが、急に不安になったように口ごもり、結局何も言わなかった。

 彼女とこんな時間を過ごしたことが、以前にもあったような気がする。


「この部屋で寝てもいいですか?」


 後輩は言った。俺はひどく混乱した。なるべく平静を装って訊ね返す。


「あっちの部屋、なんかまずかった?」


「いえ、そうじゃないんですけど……」


「まぁ、別にこの部屋を使ってもいいけど。俺があっちの部屋使おうか?」


「ですから、そうじゃなくてですね」


 彼女は一拍おいて、覚悟を決めたような顔で息を吸う。

 俺は自分の想像と彼女の言葉が一致していないことを祈った。あるいは、一致していることを祈った。

 どっちが本心だったかは分からない。その一瞬の間で、俺の心は完全にふたつ分裂し、暴走しかかっていた。


「一緒に寝ても、いいですか?」





「ずっと考えていたんですけど、わたしたちはどうして、あんな鏡を調べようと思ったんでしょうか」


 俺は少し考えて、言った。


「具体的なことは分からないけど、たぶん危機感のようなものだと思うよ。ハカセは"このままじゃいけない"と思ったんだと思う」


「このままじゃいけないって、何が?」


「分からないけど……。たぶん俺たちは全員、何か巨大なものから目を逸らしているんじゃないかと思う」


 俺はずっと考えていたことを口にしてみた。


「おそらくハカセは、そこに危機感を覚えたんじゃないかな。どうしてかは分からないけど……そういう感覚はあった気がする」


 俺が言うと、彼女は思い当るところがあったのか、黙って考え事を始めた。

 自分で言ったことを反芻してみても、それがどうして鏡に繋がるのかが分からない。


 だが、声に出した途端、その考えは俺の頭に染み渡るように入り込んだ。

 俺はその考えにすんなり納得できた。不思議なことに。


 おそらく俺たちは逃げていた。何かから。それが何なのかを考えるのは後にするべきだろう。


 俺は後輩の横顔を見ながら、やっぱり彼女は実在していないのかもしれない、と思った。

 こんなにも綺麗な少女が現実にいるものだろうか。

 やっぱり俺は、夢でも見ているのかもしれない。


 それとは別に、彼女の実在を疑う理由を俺は思い出す。

  

 ハカセは今年受験生。つまり三年だ。

 ハカセが中三のとき、俺は中一だった。つまり歳の差はふたつ。

 である以上、ハカセが三年なら俺は"一年"ということになる。


 はっきり言ってしまえば、俺に後輩なんているわけがないのだ。

 そのことにどうして気付かなかったのか。あるいは気付かないふりをしていたのか。


 こう考えてしまえば、なおさら世界Aが偽物で、世界Bが本物ととらえるのが正しく思える。


 存在しないはずの後輩がいる世界よりは、それがいない世界の方がまだまっとうに思えるからだ。 


 だが、怪しいと言い出したら、トンボだって怪しい。 

 トンボとの記憶に関しては、ある程度の信憑性がある。ハカセについても同様だ。

 それは推測というより確信に近い。少なくとも、トンボとハカセは、昔から俺の友人だった。


 トンボ。彼はたしかに実在の人間だ。少なくとも、そう感じている。

 だが、俺の記憶が正しければトンボは……。


「部長?」


 と後輩に呼ばれ、俺の思考は途切れた。


「なに?」


「話、聞いてました?」


 俺はなんと言うべきか迷って、適当にごまかそうとしたが、結局やめた。


「もういいです」


 後輩は拗ねたように布団をかぶり、こちらに背を向けた。

 その仕草がいつもより子供っぽく、可愛らしく思えて、俺はなんだか頬が緩むのを押さえられなかった。


 俺が笑っていることに気付くと、彼女はバッと振り向いて、


「何笑ってるんですか!」


 と心外そうに怒鳴る。それがなおさら可笑しくて、俺はよけい笑いが止まらなくなった。


「……もう」


 彼女は毒気を抜かれたように呟いて、また布団をかぶった。ようやく笑いがおさまった俺は、電気を消して、自らもベッドにもぐりこむ。

 そういえば、と思って、


「ベッドの方使うか?」


 と訊いてみたが、


「いいです!」


 と、"わたしは今怒っています"といわんばかりの不機嫌そうな返事があった。

 彼女の仕草のすべてが愛らしく、俺になんだか、そのすべてが福音のように思えた。


 彼女と一緒にいるということが、なんだか奇跡めいたことに思えた。


 ――そして、だからこそ、現在起こっている問題に、俺は真剣に向き合わなくてはならないのだろう。


 俺はしばらく寝付けなかった。なぜだか考えて、いや、この状況で眠れる方がおかしいのだと思い返した。


 目を開くと、部屋は暗くて視界はきかなかった。

 少しカーテンを開ける。真黒な夜空に月がぼんやりと浮かんでいた。その姿が、今晩はひどく綺麗に見える。


「なあ、怒ってる?」


「怒ってます」


 彼女はすぐに返事をよこした。

 俺はそれに苦笑しそうになったが、一応こらえておく。


「悪かったよ」


 謝ったものの、本心からの謝罪とはとても言えない。

 それを悟ったわけではないだろうが、彼女はしばらく何も言わなかった。


 少しして彼女は、


「別にいいです」


 と、まだ少し拗ねているような声で言った。


「部長」

 

 不意に後輩は、不安そうな声で俺を呼んだ。


「大丈夫ですよね?」


 懇願するような声音だった。俺は息を呑む。

 自分の考えが見透かされたような気がした。

 だが、そうではなく、彼女は今の状況のことをさしているようだった。


 俺はどう答えるか迷った。いったいこれからどうすればよいのか、まったく考えていなかったからだ。

 

「大丈夫」


 と俺は嘘をついた。


「何の問題もない。心配するな」


 俺は、こんな言葉を、以前にも彼女に言ったことがあるような気がした。

"ズレ"るよりももっと前、ずっと昔、ずっとずっと昔に。


"現実なんて見ない"。……でも、本当にそれでいいのだろうか。

 ズキズキと、頭の奥が痛んだ気がした。



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