04-05
かつて、中学のときの同級生の女子だっただろうか、名前は覚えていないが、大真面目に話をしたことがある。今はもう顔も覚えていない。
俺はこう言った。どういう話の流れだったのかは覚えていない。
「俺は自分なんて死んでしまってもいいと思っているし、両親に対して特別な愛情なんて抱いていない。
なんなら、明日家族みんなで車でドライブした帰りに、大事故が起きて死んでしまってもかまわない。それまでだ。
別にこの世に未練はないし、後悔なんて何もない。今日隕石が降ってきて世界が滅んでも、ああ、そうかと思うだけだ」
彼女は不快そうに眉を吊り上げた。
「そんなこと言うものじゃないわよ。両親がいない子供だっているし、明日には飢えて死んでしまう人もいるのよ。
あなたは五体満足だし、食べ物にも飲み水にも暮らす家にも困っていない」
そこで彼女は溜め息をついて、「あなたは恵まれているのよ」と言った。
「だからそんなことを言ってしまえるの」
「恵まれている」という言い方をするなら、俺はたしかに恵まれている。
俺は、彼女と自分の人生はきっとねじれの位置にあるのだと考えながら、頭の中で反論した。
両親がいない子供の悲しみは、その子供の悲しみでしかない。
俺が何かを言ったとしても言わなかったとしても、それは"彼"の問題でしかない。
どうして"彼"の問題に対して俺が配慮しなければならないのだろう?
仮に俺が「両親は必要だ」と口に出したなら、彼のもとに両親が帰ってきたりするだろうか。
俺はたしかに五体満足の身体を持っているが、だからといってこの手や足で成し遂げたいことなどない。
もし腕がなかったり足がなかったりしたら欲しがるかもしれないが、だからどうしたというのだろう。
現に俺は五体満足の身体であり、そのことにさしたる喜びを抱いてはいないのだ。
鼻から空気を吸い込むたびに、この世のすべてに感謝しろとでも言うのだろうか?
見ず知らずの他人について考え、その人のために言葉を選ぶべきだとでも?
この世のすべての人々に思いを巡らせることは不可能だ。
俺が考えるのはいつだって自分のことだけ。
俺は自分のことだけで精一杯の人間なのだ。
今、現実に苛まれ、傷ついているたったひとりの妹にさえ、何ひとつも差し出してやれない人間なのだ。
俺は頭の中で自分なりの論理を打ち立てると、もう二度と誰かに本音を話したりするものかと思った。
こんなふうに言いようのない怒りを覚えなければならないくらいなら、最初から何も言わなければいい。
以来俺は、自分の考えを口に出さなくなったし、周囲が望むように行動するようになった。
彼女はそれを自分の説教が効果的に響いたからだと思ったらしいが、あえて否定する気にはなれなかった。
俺は満たされた人間だ。恵まれた人間だ。
だが、こんな人間は生まれてくるべきではなかった。俺はいつもそう考えている。
俺は今日まで生き延びてきた。それは、俺がまだ現実に期待しているからとか、そういうわけじゃない。
死にたいと思いながらも、積極的に死ぬ手段を取るのが面倒だっただけだ。
労力をかけたりするよりは、ベッドに埋まって眠っていたい。
俺が今日まで生きてきたのは、単純に、机の引き出しにピストルが入っていなかったからという、ただそれだけが理由に過ぎない。
◇
病室のベッドに寝そべる俺に、カリオストロはこう言った。
「君だってとっくに知っているはずだよ。この世界はひどくバカバカしいものだって」
彼は言う。
どのような綺麗ごとも所詮はまやかしに過ぎず、どのようなお題目を唱えようと生は無為であり、人は悪であると。
所詮、この世は俗悪のみが報われ、善性と悟性を持つものは、それゆえに滅びていくのだと。
君は自分が善人でないことを知っているし、特別でないことを知っている。
多くの人がそうであるように、君もまた俗悪に染まることでしか生き延びることのできない人間だ。
現に君は多くの悲しみに触れ、多くの怒りを感じ、そして多くの失望を抱え込んでここまできた。
この世で素晴らしく見えるものなど全て、火影のような幻想に過ぎない。
結局すべて幻<ガラテア>だ。
中には本当に素晴らしいものもあるかもしれない。
いや、あるだろう。本当に優れているとしか言いようがないものが、中にはある。
君も見てきたはずだ。それらが踏みにじられ、軽んじられ、損なわれ、失われていくさまを。
結局のところこの世界はそういう場所なんだ。
この世はしょせん嘘<ガラテア>で飾らなければ見るに堪えぬほどみすぼらしいものなのだから。
幻想<ガラテア>に頼らねば生きていくことすら困難な場所なのだから。
根源的苦悩<カリオストロ>に対しては、詭弁やごまかしでしか対抗できないのだから。
だから、もう諦めろよ、と彼は言う。
ここはそもそも、そういう場所だったんだ。
受け入れられないなら、壊してしまうしかない。
他でもない、君の手で。
◇
俺にはようやくスズメの言いたいことが分かりかけてきた。
◇
俺の家を目にしたとき、後輩は悪臭でも嗅いだように顔をしかめた。
おそらくはそれだけのものを感じてしまったのだろう。結局のところ、"そういう家"なのだ。
後輩をリビングに上げて、適当に飲み物を入れていると、妹が帰ってきた。いつもより早い時間だ。
後輩の姿を見つけると、彼女は一瞬目を丸くして、「ひさしぶりだね」と言った。
唐突な違和感を感じたけれど、その正体が俺にはうまくつかめなかった。
後輩もまた、一瞬きょとんとしたが、特に何か言うでもなく頭を下げる。
さて、と俺は思った。これからどうすればよいのだろう。
俺にあらわれた問題は些細なものだ。だが、後輩にあらわれた問題はそういった次元のものではない。
後輩はおそらく、彼女という存在そのものを揺さぶる問題に突き当たっている。
そのこととも無関係ではないが、ガラテアだのカリオストロだのという話を何度も聞いたせいで、俺の中にはひとつの疑問が芽生え始めていた。
それは、俺たちはどこにいるのか、という問いだ。
俺がこんな問いをするのだから、事態はよっぽど異常なのだと言える。
本来俺は、どこに居ようと、目の前の景色を“現実”として受け止めることを決めていた人間なのだ。
あるいはそのことが、この混乱に一層の深みを招いたとも言えるかもしれない。
だからこそ、俺は今一度目を見開き思考しなければならない。
それが今は、俺の"考えなければならないこと"だ。
この状況の変化は、いったいどの時点から始まったものなのかを考えなければならない。
そのためにはまず、起こった変化について整理するべきだろう。
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