04-04
雨が降り出したので、後輩を連れて喫茶店に向かった。彼女の家があった場所からは、そちらの方が近かったのだ。
家から三十分ほどで到着する、街角の喫茶店。いつも通り隠れ家めいた雰囲気で、客の数は少ない。
まだ肌寒そうにしている後輩のためにホットミルクを注文し、俺は自分の分のコーヒーを頼んだ。
席についてすぐ、口から溜め息をこぼしそうになったが、後輩の手前、飲み込む。
こんなことばかりが起こっている。いったい何がどうなってこんなことになったのだ?
訳の分からない混乱に巻き込まれている。いったいいつから、こんなことになったのだ?
ティアの手紙を受け取ってから? 公園で大男と出会ってから? それともハカセが怪談について調べようと言ったときから?
あるいは、あの黒犬に襲われてからか? それとも、何ヵ月か前からあらわれはじめた"ズレ"のせいか?
旧校舎でトンボが消えてから? 後輩がいなくなってから?
そういえば――ティアが来てから、街中で見かける人間は少なくなったはずだ。
そんなことを、たしかに思った。でも……ここ二、三日出歩いていても、学校にいっても、人は別に少なくなかった。
俺の身の回りに何が起こっているのだろう? それともあの悪趣味な魔法使いなら、こんなことにさえ説明をつけてくれるのだろうか。
スズメなら俺になんというだろう。また、あたかも俺が、気付くはずのことに気付けていないような言い方で嘲るだろうか。
マスターは俺と後輩の雰囲気に異様なものを感じ取ったのか、注文した品を届けると何も言わずにカウンターの内側に戻った。
俺は後輩に話を聞くことができなかった。
彼女に何を聞くことができる?
見間違いじゃないのか、道を間違えたんじゃないのか、気のせいだったんじゃないか。まさかそんな馬鹿げたことは言えない。
あきらかに異常は起こっている。俺はそれに対して解決を提示できない。
何も言うことなんてできない。結局のところそれは、俺の問題ではなく彼女の問題なのだ。
彼女はしばらく泣きじゃくっていたが、やがて気分が落ち着いていたのか、心ここにあらずという様子ではあったが、涙をとめた。
ふと気づいたように顔をあげ、今にも消え失せてしまいそうな弱々しい微笑を浮かべ、俺に謝った。
「すみませんでした、部長。いきなり呼び出して……」
「いや」
俺は苦笑しそうになったが、押し殺した。非常識な状況で常識的な対応をされても笑うしかない。
「呼び出してごめんなさい」なんて言っていられる状況じゃないのだ。
彼女の目は少し赤くなっていたし、決して平気そうではない(当たり前のことだ)。
それでも後輩は、あたかも自分は平気だとでも言いたげにホットミルクをすすりはじめる。
触れれば砕けてしまいそうな、ガラス細工のような作り物の微笑を浮かべていた。
彼女はホットミルクを飲み、俺はコーヒーを飲んだ。
そのことを考え、俺は自分が失敗を犯したことに気付いた。
ホットミルクは別に体を温めないと聞いたことがある。コーヒーも同様に。
当然のように注文してしまったが、余計体調が悪くなったりはしないだろうか。
俺の懸念とは反対に、彼女の顔色はよくなってきた。血色が戻り、強がりではなく落着きはじめているらしい。
「どうする?」
と俺は訊ねた。急ぎすぎたかとも思ったが、ずっとここにいても始まらない。
彼女は弱々しく苦笑して、「どうしましょう」と言った。
「うちに来るか」
そう誘うと、彼女はにわかに慌てはじめた。
「いえ、そんな、あの、あれだ、ご迷惑に――」
「そういう状況じゃない。他に心当たりがあるならいいけど。なんならシラノを頼ってもいい」
「心当たり?」
「友達とか」
「……友達?」
「いないの?」
「いえ。えっと、あれ?」
彼女は混乱したように額を押さえた。
「……思い出せません」
「は?」
「思い出せない。部長、わたしって、ふだん学校で何してました?」
「何って……」
そんなの、俺が知るわけがない。
だが、そういえば、俺は学校では彼女をめったに見かけたことがない。
会うのはいつも部室とか、そういう場所ばかり。他の誰かと話しているところも、見たことがない。
――いったい、彼女の身に何が起こっているんだ?
◇
俺が中学にあがったときのこと。ついさっきまで忘れていた話だ。
「本当は子供なんて欲しくなかったのよ」と母は言った。
「アンタなんて生まなきゃよかったわ」
遠くを見るような、真剣で、どこか儚げな表情で、彼女は言ったのだ。
美しい過去を思うような、望郷のような――俺は、こんな綺麗な表情をした人間が、さっきのような言葉を吐けるのかと感心した。
そうか、と俺は思った。
俺は生まれなければよかったのだ。
◇
「生まれた」ということは、そのまま、未来の死が確定されたということを意味する。
すべての命は生まれたその瞬間に死ぬことが確定している。
子猫だろうが人間だろうが変わらない。
「いきものを生む」ということは、そのまま「いきものを殺す」のと変わりない。
すべての親はあらかじめ子供を殺している。
もちろんそんなのは、言い回しを変えてみただけの一般常識に過ぎない。
だが、こう考えたとき、俺はいつも不安になる。
子供が生まれるというとき、その決定権は常に親の側にある。
子供は望んで親のもとに生まれたわけではない。
それどころか、そもそも「生まれてくる」ということを意志的に決定してきたわけでもない。
それは誰でも同じだ。俺も妹も母も父も、誰だって同じなのだ。
だから俺は母の言葉に対して上手に反論することができない。
「俺だってアンタを選んで生まれてきたわけじゃない。生んでくれと頼んだわけじゃない」
そう言えたとしても、
「わたしだって、アンタを選んで生んだわけじゃないわ。生もうとしたわけでもない。
生まれてくれって頼んだわけでもない。あんたが勝手に生まれてきたんじゃない」
そう言われてしまえばそれで終わってしまう話なのだ。
俺は望んで生まれてきたわけじゃない(発生する前の命は、そのように思考し選択することができない)。
だが、母だって別に、俺を生むような女になりたかったわけではないのだ。
それは、たまたまそうなってしまっただけのことにすぎない。
もちろん、親である以上、子供に対しては真剣に向き合うべきだとか、責任はとれとか、そういうお題目を唱えることはできる。
責任をとれないのなら子供ができないように注意すればよいとか、そんなことだって言える。
(つまり"親に責任を取ってもらえない子供"は、生まれてこなかった方がマシだということだ)
だが、幸いというべきか、母は最低限の親としての義務を果たしていたので、俺はそんな言葉を振り回さずに済んだ。
そもそも俺は責任という言葉が嫌いだったし、本当に一人ひとりの人間の下に帰結する責任なんて存在しないと信じている。
そうでなければ、俺はトンボが猫を捨てたことを糾弾しなければならないし、シラノに対して「もっと上手にやれたはずだ」と怒鳴らなければならなくなる。
俺を一個の人間として扱い、同時に母を一個の人間として扱ってみる。
すると、俺はたしかに「望んで生まれたわけではない」し、
母も「望んで生んだわけではない」ことになる。結果として「生まれるような行為を軽々しくしてしまった」だけだ。
それは、誰にとっても悲劇でしかなかった。
「わたしのせいじゃないわ」と母は言うだろう。
「アンタが勝手に生まれてきたのよ。わたしは別に、アンタなんていらなかった」
俺はそのことを想像するととても悲しい。どうして悲しいのかは分からない。
母のことは好きじゃない。死んでしまえばいいとすら思う。
こんな無責任な人間がはびこっているのかと思うと、社会とか世の中というものが心底いやになる。
けれど、悲しいのはなぜなのだろう。
それは、俺が母を好きだからではない。
たしかに俺は母に執着している。
だがそれは、手に入らなかったものこそ欲しくなるというだけで、別に彼女という人間が特別に優れているというわけではないのだ。
両親に愛されないということは、そのままこの世の誰にも愛されないということだ。
両親というもっとも色眼鏡のかかった人間から見ても、俺はまったく必要のない、愛す価値のない人間なのだ。
そんな人間が誰かに愛してもらえるわけがないし、必要とされるわけがない。
分かりきったことだ。
そんな奴は生まれてこなければよかったのだ。
こんなに苦しみも生まれたからこそ抱かねばならないものなのだから。
捨てられるくらいなら、生まれてこない方がよかった仔猫と同じように。
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