04-02
ハカセは悲しかった。俺が知らないはずの話だ。
優秀な兄と、愚劣な弟との比較はありふれている。
父母が揃って権威主義者なら、安いドラマが出来上がるだろう。
それを思うと、彼は苦笑せざるを得ない。考えれば考えるほど、自分の境遇があまりに月並みだと思えるからだ。
もはや慣れっこだ。家に安らげる場所はなく、彼はいつも外に出て遊んでいた。
家にいれば勉強をしろとどやされる。
勉強することは嫌いではなかったが、兄ばかりをもてはやす両親に対する反発心が、素直に従うことをさせてくれなかった。
居心地の悪さを感じるたびに、彼が家にいる時間は徐々に減っていった。
そうすると、なおさら両親の彼に対する風当たりは強くなる。居心地は余計悪くなる。
悪循環。サイクル。
両親や兄に対する愛着はないでもなかったが、あるいはだからこそ、彼は自らの家族に軽蔑を抱かずにはいられなかった。
もともとの性格のせいか、ハカセは学校で浮いていて、友人が少なかった。
別にまったくいないというわけではないし、話す相手もいる。避けられても嫌われてもいない。
だが、結局ひとりなのだ。休日に遊びに行く話になっても誘われない。
班決めになっても、一人で余る。もちろん余ったあとで誘われたりするが、それは所詮「後付」なのだ。
俺は誰にとっても二番目以下の存在なのだ、と彼は思う。両親にとっても、友人たちにとっても。
そう気付いたとき、彼はくだらないことを気にすることをやめた。
眠ってしまえばいいのだ。すべてを忘れて。気にすることはない。所詮はそれだけのことだ。
孤独は気が楽だ。後ろ向きな考え事も楽しくてしかたない。好きでひとりになったわけではないが、これはこれで悪くない。
そう思う。本当に、本心から、そう思った。ときどきそのことを思い出すと、なんだか自分が哀れに思えて、とても悲しい。
ひとりでいると死ぬことばかり考える。
どれだけ両親に反発しようと、今年、ハカセは受験生だ(……何かおかしいだろうか?)。
結局勉強はしなければならない。反発していた時間分のロスを抱えて。
選択の余地なんて、最初から最後までひとつだってなかった。
ひどく疲れていた。もういいじゃないか、と思う。
これまでに楽しいことはそこそこあった。そうだ。俺は十分に楽しんだ。
これまで以上に楽しいことなんて、どうやらこれから先、ありそうにない。
じゃあ、もう終わりでいいじゃないか。
人間は、未来に何の楽しみも見いだせなくても生きていけるものだろうか。
これは一種の自己憐憫にすぎないのだろうと彼は思う。
どれだけ孤独でも、どれだけの苦痛でも、雄々しく現実に立ち向かうことが、人間としての正しいありようなのかもしれない。
でも、彼は別に、人間としての正しいありようになんて興味はなかった。正しい人間に興味なんてなかった。
それに――と彼は思う。この世の中の誰も、俺のことを憐れんではくれないのだ。
もちろん憐れんでほしいわけではないけれど、せめて自分で自分のことを憐れむくらい、何が悪い?
◇
"ズレ"る。
ついさっきまで自分だったのに、今は他人になっている。
それが現実にあったことなのかどうかは分からない。
さまざまな人間の記憶が、思考が、俺の頭に入り込んでいる。
混線しているのだ。
途切れ途切れの記憶をむりやり修復しようとした結果、まったく無関係の場所と接続されてしまったのかもしれない。
自分というものが見失われていく。
俺は一ヵ月後に行き、二ヵ月前に行き、シラノになり、トンボになり、ハカセになる。
あるいはそれらの何にもならず、自分は自分のまま、まったく不自然な状況を経験する。
どんな境遇でも、俺のやることは変わらない。
自分というものの中の何かを台無しにしないように行動を選び、言葉を選ぶ。
だが、そうまでして俺はいったい何を守りたいのだろう? 社会的な立場? 周囲からの信頼? 高慢な自己像?
どれも最初から有って無いに等しい。何を守りたいのかもわからないのに、俺はとりあえず自分が周囲から外れないように行動する。
どうしてだろう。
でも、じゃあ他に、どうすることができるっていうんだ? 俺はあまりに無力で、"しくみ"に対抗する手段を持っていない。
こうなったのは俺のせいじゃない。誰かのせいでもない。じゃあそれは"しくみ"のせいだ。もっといえば"世界"のせいだ。
世界が持つ"しくみ"の、"構造"の欠陥なのだ。"設計図"のミスなのだ。
俺のせいじゃない。俺はこういうふうに出来上がってしまったのだから――。
カリオストロ、あの男の声が聞こえる。
今も耳元でささやいている。俺の逃げ場所を失わせようと、舌なめずりをして待ち構えている……。
◇
後輩が俺の前にふたたび姿を現したのは、俺たちが例の怪談について調査することをやめた二日後の、夕方五時を過ぎた頃だった。
その二日間はとても長く感じた。一日が一年のように長かった。それだけ遅れて彼女は現れたのだ。
俺たちは例の児童公園で出会った。誰かと会うのは、そういえばいつもこの場所だ。
彼女は俺の姿を見つけると、迷子の子供が母親を見つけたような表情で駆け寄ってきた。
実在をたしかめようとするみたいに、何も言わずに俺の手を取り、指先で触っている。
そんな行為で人の実在が確認できるものなのかどうかは、俺には疑問だった。
いなくなってびっくりした。今まで何をどこにいたのか。そんなことを訊ねると、後輩はうろたえた。
「いなくなったのは、部長たちでしょう?」
「はあ?」
と思わず声が出た。彼女は訝しげに眉をひそめる。
「旧校舎で部長たちが突然いなくなっちゃうから、わたしずっと探してたんですよ。シラノ先輩もハカセ先輩も消えちゃうし、どこ行ったのかと思って、本当に怖かったんですよ」
「……待って。違う。いなくなったのはお前の方だろう? 俺たち三人はずっと同じ場所にいた。あの鏡の前に」
「違いますよ! わたしは普通に生活してました。部長たちがいなくなって一週間くらい。部長たちはいなくなったまま学校に来ないし、家を訪ねてもいないし、それでわたし……」
「……それで、どうしたの?」
「例の鏡を、もう一度調べてみたんです。ついさっき。何も見つからなかったけど……でも、部長、いったい今までどこに行ってたんですか?」
どこに行っていたも何も、俺もハカセもシラノも普通に生活していた。
いなくなった後輩やトンボを追おうともせず、普通に。
「……トンボは?」
と俺は訊ねる。
「一緒にいないんですか?」
「……あいつはいないのか」
「シラノ先輩とハカセ先輩は?」
「いるよ。明日も学校で会えるはずだ。あいつらはいる。でも……」
どうしてトンボだけいないんだ?
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