03-07


 トンボは猫を捨てたことがある。俺が知らないはずの話だ。

 

 子供の頃、彼の家の周りには捨て猫が多かった。

 ある日、憐れんだわけでもなく、ただかわいいから、という理由で、彼とその姉は自宅に一匹の捨て猫を連れ帰る。


 自分たちで世話をするという約束で、彼は母親に飼うことを許可させた。

 もちろん飼うためにかかる金は全て親が出した。


 数年一緒に暮らすと、猫はあっというまに大きくなった。やがて、どこの野良との子供か、彼女は身ごもる。


 生まれた五匹のこどものうち、一匹は飼うことになった。

 残りの四匹は新聞紙を敷き詰めた段ボールに入れ、遠くの児童公園のベンチの下に捨てた。


 その日は強い雨が降っていて、誰も外になんて出なかっただろう。


 あまりに強い雨だったから、彼は母にお願いした。


「晴れた日にしようよ」


 だが母は受け入れなかった。当然だ。明日には瞼を開けるかもしれない。早ければ早い方がいい。

 それに――と彼女は思っただろう。雨だろうと晴れだろうと、我々は所詮、猫を殺そうとしているのと変わらない。

 中途半端な優しさなど無意味だ。何よりも、捨てる猫の姿なんて、いつまでも見ていたくない。


 捨てる神も拾う神も同じものだ。殺す神も生かす神も同じものだ。

 気付いていないだけなのだ。


"たかだか"、"愛玩動物"でしかない犬猫に、本当の意味で責任を持てる人間は少ない。

 いままでは、たまたま、偶然、なんとかなってきていたに過ぎない。


 そういう例はきっとごまんとある。

 おそらく、その記憶がトンボを苛んでいた。


 お前は所詮、猫を殺したじゃないか。

 どれだけ善人を気取っても、猫を殺したじゃないか。


 彼はそのたびに、自分の心を守るために、声に出さず反論しただろう。


 仕方なかった。たしかに俺や、俺の家族の怠慢が生んだことだ。

 その点は自分の間違いを認める。いや、認めなくてはならない。

 でもそもそも、ペットを飼うということが身勝手なのではないか?

 そんな人間がいまさら動物に気遣ってどうする? ――いや、それはごまかしだ。それとこれとは話が別だ。

 

 だが、それを考えれば、あの仔猫は殺してまずく、アリや蛙やトンボを殺してもよいのはなぜだ?

 トンボの頭を弾き飛ばし、アリを踏み潰し、蛙の腹を引き裂くのが許されるのはなぜだ?


 トンボの頭を弾き飛ばした男、あいつが、家に帰れば愛猫とじゃれているのはなぜだ?

 それとこれとは話が違う。ちがうけれど、じゃあ……何がどういう基準で、そんな話になっている?


 いや――それもごまかしだ。歪んだ自己防衛にすぎない。欺瞞だ。

 俺が悪かったのだ。言い訳のしようもなく。もっとやりようがあった。もっとずっと良い方法があった。

 そもそも最初から、猫に避妊手術を受けさせておけばよかった。そうすれば捨て猫は生まれなかった。


 ――生まれなかった。そう、生まれない方がよかったのだ。

 捨て猫は生まれない方がマシなのだ。少なくとも、世界はそう言っている。


 人間が責任を持てる範囲なんて、限られているのだから……。

 無責任に生み出すくらいなら、あらかじめ刈り取る方がマシだ。


 どうして、こんなことが当たり前に起こってしまうんだ?


 トンボは常にそんなことばかりを考えていた。


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