03-04
学校にトンボが現れなくなってからも、俺たちは調査を続けた。
なぜそうしようと思ったのかは分からない。
だが、そうしなければならないという確信だけはあった。
二度目の調査の日、後輩が旧校舎から姿を消した。
◇
シラノの話をする。俺が知らないはずの話だ。
中学三年の修学旅行の日、彼女はひどく憂鬱だった。
前日から胃にのしかかるような鈍痛が消えず、気分はまったくすぐれない。顔面は蒼白と言ってよかった。
彼女の中学時代の人間関係は惨憺としたものだった。まともな友人がひとりもいない。
彼女の立ち位置(この概念は俺がもっとも憎悪するものだ)が、そのまともじゃない環境に拍車をかけた。
「アンタって、ホントうざいよね」
大した理由もなく、最初にそう言われたのはいつだったか。言った当人も、さしたる意図があったわけでもないだろう。
だが種はまかれた。やがてそれは芽吹き、根を張る。
「うざい」
という言葉は、言語であるにも関わらずコミュニケーションを拒絶する力を持つと、何かで読んだ。
たぶん、マズローの段階欲求説だの承認欲求だのを表面だけなぞったような、くだらない新書だったはずだ。
(そういうタイプの本はありふれている。大抵は「考え方を変えれば楽になれるかもよ」と言っているだけのスピリチュアルな本に過ぎない)
「うざい」
世の中にはうっとうしいことが溢れている。
一言で言えば、世の中は「うざい」。
「うざい」奴ばかり。「うざい」ことばかり。勉強も仕事も恋愛も「うざい」。「うざい」。
思春期の少女たちにはなおさら、ちょっとしたことですら「うざい」ものばかりだったのだろう。
それを一言で綺麗に失わせる、「うざい」という言葉の切れ味は、ナイフのように鋭い。
シラノが本当にうざかったのかどうかは分からない。憂さ晴らしのつもりだったのかもしれない。
誰も彼もが胸の内側に、発散しきれないわだかまりを抱え込むような時期なのだ。
たかだか数人のクズの心の安寧の為に、彼女の安らぎが犠牲にされたのは、赦しがたいことではあるが。
何をするにもそんな調子で、仲の良い友人(と、担任たちは思っていただろう)に責めたてられるものだから、彼女はすっかり弱ってしまった。
まずは食欲がなくなって、夜眠れなくなった。何かをしていて急に不安になることが多くなった。
そんな調子でいると、「被害者ぶってる」と言われて、また責められる。
それでも他に友人はなく、彼女はその人間たちと行動をともにするしかなかった。
修学旅行の班もホテルも移動時間も、すべて友人たちの近くにいることになった。
彼女は、本当は修学旅行になんて行きたくなかった。
楽しい思い出になんてなるわけがないと、誰でも分かる。
誰も自分を助けてくれないと気付いて、絶望的な気分になっていたせいもある。
(彼女が助けを求めなかったせいでもあるが、仮に他の人間が彼女と同じ立場になったとき、助けを求められるだろうか?)
案の定、一日目、宿泊先のホテルの部屋では、ひどい目に遭った。
彼女は友人たちにいないものとして扱われ、あげくの果てに彼女を除いた人間が、みんなで話を始めたのだ。
「あいつうざいよね」「あいつって誰?」「さあ? 誰だっけ。でも、うざいよね」
「じゃあ、あいつのうざいとこ、みんなで一個ずつ順番に言ってみない?」
よくもまあ、楽しいはずの修学旅行で、そんな気分が悪くなるようなことができたものだと、他人事だから思う。
彼女は最初、笑うしかなかった。なんとか友人たち(と信じていたひとびと)の名前を呼んで、とめようとした。
女らはそれを見てケタケタと笑う。その焦点は、みんな彼女に合っていた。見えているのだ。
見えているのに、誰も返事をくれなかった。
彼女は考えた。どうしてわたしがこんな目に遭うのだろう? わたしはそんなにひどいことをしただろうか?
いや、ひどいことはしたかもしれないが……それは"ここまで"だろうか。こんな罰を受けなければならないほど、悪いことだっただろうか。
彼女は部屋では泣かなかった。けれど、そこに居続けることは耐えられない。
誰もいない廊下で、黙って窓の外をじっと睨んでいた。
自分はどうしてこんなところに来てしまったのだろうと彼女は思う。
やがて消灯時刻が近付き、教師が見回りにやってくる。
彼女を見つけた学年主任は、どやしつけるような調子で言った。
「何をやってる。部屋に戻れ」
その言葉は、言われるであろうことを覚悟していた彼女の耳にも、おどろおどろしいものに聞こえた。
部屋に戻れ。そしてお前を傷つける暗闇に帰れ。
お前はそこで耐えればいい。大丈夫。"どんな苦しみだって問題だって、いつかは過ぎ去るものだ"。
さあ、行け。存分に苦しめ。若いころの苦労は買ってでもしろと言う。つらい思いをすればするほど人には優しくできるのだ。
全部、うそじゃない。本当のことさ。
だから、戻れ。
お前を損なわせる場所に戻れ。――お前を苛み傷つける、現実<カリオストロ>に帰れ。
◇
おそらく俺たちは、無意識下に、彼女がされたようなことを誰かにしているに違いない。
どんなに自分を無害と思っていてもそうだ。絶対にそうだ。
そうでなければ、どうしてあんなふうに彼女を傷つける者が現れるだろう。
彼女の友人が特別にひどいわけじゃない。
みんなそうなのだ。
条件があってしまえば、誰だってしてしまうだろうことなのだ。
俺たちはそのことを忘れるべきじゃない。
いつだって誰かを傷つけかねないということを忘れるべきじゃない。
だが、それを忘れている人間があまりに多い。
誰かを傷つけたその唇で、弱者を憐れむようなことを言って見せる。
あるいは傷つけずにはいられないからこその罪滅ぼしだと、都合のよい言い訳を重ねて。
蔓延っている。
おそらく俺も、こんな言葉を並べることで、誰かを傷つけたりしている。
そして誰かを傷つけていることに気付けない人間ほど、こんな言葉に頷くのだ。
「人間は誰かを傷つけずには生きられない」
――でも、それを少しでも減らす努力くらい、みんなしてもいいのだ。
その努力はするべきなのだ。
そんなあれこれが積み重なって、「今」が出来上がっている。
いつのまにかみんな、当たり前のことを忘れてしまったみたいだ。
人は傷つけあうことによって加減を覚えていく。傷つけあうことで成長していく。
――という、自らの怠慢の言い訳に、ごまかされるべきではない。
「傷つけあう」にも種類があるのだ。
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