03-02



「部長」


「……毎回、同じことを言うようだけどさ、俺は部長じゃない。ただの部員」


「そうでしたっけ?」


「そうなの。第一、俺は――」


「……第一、なんです?」


「……いや、なんだっけ?」


「知りませんよ」


 後輩はクスクス笑った。

 俺は何を言おうとしたんだ?





 旧校舎の入口は封鎖されている。ハカセたちが実地に調査に向かわず、聞き込みに終始したのはそのせいだろう。

 俺が旧校舎への入り方を(なぜか)知っていると言うと、彼らはそろって疑念を込めた目でこちらを見た。


 旧校舎の西側の窓は、一か所だけクレセント錠の取り付けが甘く、少し前後に揺すると鍵が開いてしまうのだ。

 幸い旧校舎の辺りは人通りも少なく、放課後でも誰かに見咎められることはない。


 旧校舎は黴の臭いがした。床に広がった埃は、ぱっと見ただけでは分からないが、振り向けば足跡が残るほどに積もっている。

 

 トンボが懐中電灯を取り出した(どういう事態になるかわからないからと、普段から持ち歩いているらしい)。

 何も点けずとも夕陽が差し込んでいて多少は明るく見えたが、灯りをつけると暗さがはっきりと分かった。


 俺たちは一階から順に校舎中の教室を覗いて回った。当然だが人の気配はしない。


 ――そもそも、どうしてこんなところに人が迷い込んだりするのだろう。

 何かの用事があるような場所ではない。誰もこんなところに来る理由はないはずだ。

 それならばなぜ、ここに"人が来て"、かつ"人が消える"ような噂が立つんだ?


 もちろん、窓から入ることはできる。でも、誰が何のために入るのだ?

 せいぜい肝試しくらいしかできない。その肝試しだって、怪談がなければ誰がするだろう。


「なんだかワクワクしますね」


 後輩が楽しそうに言った。


「そう? げんなりしない?」


「げんなりするんですか?」


 彼女は心底意外だという顔をした。


「こういうの、楽しいじゃないですか。なんだか子供の頃を思い出して」


「まあ、そうだな。子供の頃も、こんなことをしたっけ」


「はい」


 嬉しそうに頷いてから、彼女は喉に刺さった魚の小骨が痛んだような顔をした。


「……いま、わたし、何か変なこと言いませんでした?」


「さあね」


「じゃあ、部長、なにか変なこと言いました?」


「……さあ? あと、俺は部長じゃないから」




 何かをするのが面倒で、何もしたくない。

 そもそも、何かをすることの価値が分からない。

 どうせ何もかもが通り過ぎて行くだけなのに。


 俺がそんな益体もない考え事にふけっていると、スズメはいつも、俺を見下ろして笑った。


「ばかみたい」


 彼女の表情は夏の空の下で見るにはあまりに白すぎた。


「上手に社会に適応して生きていく自信がないから、"この世界には適応してまで生きていく価値がない"って思いたいだけでしょ?」


「そういう見方もできるかもしれない。でも、本当のところどうなんだ?」


「なにが?」


「こう言ったらなんだけど、俺はクズだよ。無能だ。普通のことすらまともにこなせない。際立った才覚もない。そんな奴はさ、この社会にはいらない奴だ。いらない奴には、誰も優しくしない。だったら、なあ、死んだ方がマシなんじゃないか? 俺みたいな奴は。死んじまったほうが幸せなんじゃないか」


「知らないよ、そんなこと」


 彼女が笑うたびに風が吹く。入道雲が一秒ごとに形を変えていた。


「自分で決めなよ、どうするかくらい」





 二階から三階への階段をのぼるとき、嫌な予感があった。

 何か、ぶよぶよとした皮膜をくぐり抜ける感触が、俺の全身をつつみ、駆け抜けた。

 それは"予感"というには生々しい、怖気がするような感覚だった。


「ジョー、平気か」


 自分がどんな表情をしているのかは分からないが、どうも普通ではないらしい。


 踊り場には、たしかに鏡があった。細長くそっけない鏡。


「見た目、変わっているようには見えないけどね」


 トンボはそう言って鏡面をコンコンと叩いた。シラノも恐る恐る触れる。何も起こらない。


<逢魔が時の旧校舎は冥界に繋がっている。そういう噂がある。>


 とはいえ、噂なんて、所詮は噂だ。


「普通に考えて、何かある方がおかしいんですけど――」


 シラノは言った。


「――本当に何も起こりませんね」


 彼女は拍子抜けしたような顔で肩をすくめた。

 俺は周囲を見回した。特に変わった様子はない。

 

 妙な噂に振り回されて、こんなところまで来てしまった。

 だが、最初から何かが起こるわけがなかったのだ。俺にはやはり、無関係だったのかもしれない。


 当たり前のことだ。


「……ねえ」


 耳元で声がした。ティアだ。俺は声に出さずに彼女の方を向く。いつからそこにいたのだろう。

 彼女はずっと一緒に来ていただろうか。よく思い出せない。


 彼女の声は(今まで気にしたことはなかったが)俺以外の人間には聞こえないらしい。


「ここにはあまりいない方がいいわ。引きずり込まれてしまいそう」


 俺は小声で訊ね返す。


「引きずり込まれるって、どこに?」


「冥界」


 その言葉が彼女の口から出るのは意外だった。思ったことをそのまま告げようとしたとき、彼女の手紙にあった記述を思い出した。


 ――あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王――


 <冥王>?

 

 不意に、何かが落ちる音がした。静まり返った校舎に、その音は大きく響き渡る。

 シラノの身体がすくみあがるのが、俺の視界からはよく見えた。ハカセは音のした方を振り向く。

 

 どうやら、懐中電灯が落ちたらしい。皆が安堵の溜め息をついたのが分かる。

 後輩は懐中電灯を拾ってから、不思議そうに辺りを見回して、言った。


「……トンボ先輩は?」


 その言葉に、俺たちは顔を見合わせた。


 自然科学部の部員は、俺、ハカセ、シラノ、後輩、トンボの五人だ。

 俺たちは今日、ついさっき、一緒にここに来た。


 俺はもう一度、彼らの顔を確認した。


 シラノ、ハカセ、後輩、そして俺。

 この場には四人の人間しかいない。


 トンボはどこに行ったのだ?


 後輩は何かに気付いたように懐中電灯を放り投げた。彼女の顔は何か恐ろしいものを目の当たりにしたように歪んでいる。

 シラノは鏡から後ずさった。ハカセが、後輩が振り落した懐中電灯をもう一度拾う。


 鏡が照らされる。四人の男女の、こわばった表情が映っていた。

 あるいはそれは、鏡の向こうに囚われた、もうひとりの自分たちの姿なのかもしれない。






 スズメはあの時、「優しくされたいの?」と俺に反問すべきだった。

 そうすれば俺は自分が持つ欲求に気付くことができたし、そのことを希望として何かに立ち向かうことができたかもしれない。

 

 だがスズメは反問しなかった。結局、そこで他人を頼ることはできない。

 自分の力で気付き、自分で判断しなければならない問題なのだ。


 スズメにしたのとまったく同じ話をハカセにしていたなら、彼は「甘ったれるな」と言うだろう。


「社会がこうしてくれないだの、身の回りがどうだの、そんな風に期待するのはやめろ」


「甘ったれるな」という言葉は正しい。

 結局のところ、他人からの優しさなどというものは期待するべきではないのだ。


 こういうことを考えるとき、俺はいつも死ぬことを思う。

 手っ取り早いのだ。死んだ方が。


 何も欲しいものがなければ、行きたい場所がなければ、生きている意味はない。

 どうせこれからさき、たいしたことなど起こらない。何もかもが無感動だ。娯楽も芸術も何もかも。

 

 期待するだけ無駄だ。期待は甘えだ。何かを期待するべきじゃない。

 俺の感受性は、俺自身を原因に死んでしまったのだろう。

 誰のせいでもなく、自分のせいで、俺はこんなふうになった。

 どうせ死ぬのを待つだけなら、いつ死んでも同じだ。


 ならばなおさら死ぬべきだ。

 

 なぜ生きる?


 何のために?


 死ぬことを思う、と言うと、いつも似たような返事が返ってくる。


「生きたくても生きられない人がいるのに、罰が当たる」


 罰とはなんだ? あたると困るのか?

 あたったところでどうなる? それとも死後の世界というところがあり、そこで罰を受けるとでも?

 死んだ人間にくわえられる罰とはなんだ?

 

 あえて付け加えるなら、どのような罰もおそろしくはない。

 仮に永遠の苦しみだったなら、それを嘆くだけ無駄だし、仮に有限の時間の苦しみだったなら、過ぎ去るのを待てばいい。


 結局、死の前にはどのような罰でさえも無意味だ。

 来世でミミズや蛙になったところでそれがどうした? 人間でいるよりはましだ。 


 更に重ねるなら、今まさに死にかけている人間に対して命を分け与えることができたとして、それでどうなる?

 俺の寿命があとどのくらいか知らないが、そのすべてを分け与えたところで、せいぜい数十年がいいところだろう。


 数十年後、生き延びた彼はなんと言うのだ?

 まだ"死にたくない"というだろうか、それとも"もう死んでもかまわない"というのだろうか。


 きりがないのだ。

 生きたくても生きられないからどうした。じゃあ、あとどれくらいの時間があれば満足なんだ?

 一日か? 十日か? 一年か? 十年か? 百年か? どれくらいあれば満足するんだ?


 もちろん志半ばで倒れる人は山ほどいる。したいことが明確にあり、それを達成できない人は山ほどいる。


 それで?


 どうしてそんな人々に同情しなくてはならない?

 満足できなくても死ぬ。

 満足したところで死ぬ。

 同じことだ。

 

 それを思えば、俺たちは「なぜ生きるのか?」ではなく自らにこう問うべきなのかもしれない。


「何故まだ死なないのか?」


「死ねない理由があるのか?」


「俺は何故死なないのだろう?」


 いつかは死ぬのだから、その方がよっぽど健全だ。そこを曖昧にごまかすから、話がややこしくなる。

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