02-06



 ――追われていた。

 

 気分は狩人に狙われた兎か、獅子に狩られるシマウマか。


 景色は真っ赤に染めあがっていた。とうに冷静さは失っている。


 ここはいったいどこなのだ?


 どこをどう逃げてきたのかも思い出せない。

 泣きたくなる。


 息が切れ、足がふらつく。熱が逃げ場所を失ったように全身に滲んでいた。


 逃げなくてはいけない。何から? ……カリオストロ、そう、カリオストロだ。


 あの魔神から……俺は逃げなければいけない。

 理由は分からない。でも逃げなければならない。逃げなければ――そうしなければ、"つかまってしまう"。


 児童公園に逃げ込むのと同時、俺は四方を囲まれた。

 八つの赤い瞳が、俺を睨む。


 それは黒い犬――そう言うにはあまりに野生を滲ませた、犬だ。

 まるで影から這い出て、闇に溶けるような姿の、黒犬。


 獲物を睨んで流涎を止めず、隙をうかがい牙を剥く。

 屍肉を漁る鴉のようだ。


"つかまってしまう"。


 やめてくれ。もう俺を襲うのはやめてくれ。俺はもうやめたんだ。諦めたんだ。 

 だから見逃してくれ。俺はこんなことちっとも望んじゃいない。君に危害を加えるつもりはなかったんだ。

 

「目を覚まして!」


 声が聞こえたが、それに応える余裕はなかった。

 

 もう忘れたいんだ。すべてを忘れてしまいたいんだ。もう嫌なんだ。こんなことを繰り返すのは。

 だからもう見逃してくれ。頼むから、忘れさせてくれ。


「思い出して! あなたは英雄の魂を持っているのよ! あなたはこの世界を守ることができるの!」


(守る? 俺に?)


「そう、あなたにはできるの! あなたにしかできないの!」


(……そんなこと、俺にできるわけがない。現実を見ろよ)


「現実なんて見なくていいわ!」


 ティアは言った。


「"現実なんて見なくていいの"!」


 俺の脳裏に、強い光が差し込んだ。一瞬後、それは掻き消える。夕闇の児童公園に、俺と四匹の黒犬がいた。


 黒犬は、不意に視線を動かし、鼻を鳴らす。

 ベンチには黒スーツの男が血まみれで倒れていた。


 ――頭が急激に冴えていく。


 彼の腕の中から、嗚咽の声が聞こえた。

 あの少女――あの赤いランドセルの少女が、男に庇われ、泣いている。

 彼の背中には無数の傷があった。爪牙の跡があった。


 ――どうしてこんなことをしてもいいと思えるんだ?


 俺は立ち上がった(そうしてから、自分がそれまでうずくまっていたことに気付いた)。

 頭を掻いて黒い犬を観察した。かなり大型だ。溜め息をつく。なんなんだ、こいつらは。


 俺の胸には沸々と怒りが込み上げていた。


 黒い犬を蹴り飛ばした。犬はみっともない鳴き声をあげて弾け飛んだ。

 どうしてこんなものから逃げていたんだろう。

 

「忘れないで、カリオストロはあなたを苦しめる魔物なの。赦しちゃいけないのよ」


 ティアの声が聞こえた。

 言われなくても、赦す気にはなれない。





 どこまでが現実でどこからが現実なのか。

 どこまでが現実ででどこからが妄想なのか。

 何ががまともで何ががまともじゃないのか。



 

 

 不意に、声が消えた。

 公園には血まみれの大男と、少女だけが倒れ伏している。

 

 ティアはどこかに消えてしまった。


 何がどうなっているのだろう。あの黒犬はどこに行ったのだろう。

 俺の身に何が起こっているのだろう。


 俺は殺し屋の身体に歩み寄った。血だまりが出来ている。

 嗚咽はやまない。少女は泣いていた。


 骸のように動かない大男の身体をずらし、少女を助け起こした。彼女は泣き止まなかった。


 カリオストロの気配だけが残っている。


 少女は動かない大男の身体にすがりついた。

 俺は彼に話しかけてみた。かすかな反応がある。死んではいない。


 だからなんだっていうんだよ、と俺は思った。

 そんなことがどんな救いになるんだ。

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