02-03



「部長」と、後輩は、いつも俺のことをそう呼んだ。





 放課後、ハカセに呼び出されて部室に顔を出すと、中には後輩しかいなかった。

 彼女はパイプ椅子に座って気持ちよさそうに眠っている。

 開け放した窓から吹き込んだ風が、部屋の中で静かに巻き上がり、開かれた本のページをめくった。


 棒立ちのまま、彼女の寝顔に見とれる。


 人はこんなふうに綺麗に眠れるものだろうか。


 彼女を前にすると、俺はいつもある種の後ろめたさに苦しめられる。


 俺はさまざまなことについて考えている。そのことに苦しんでもいる。


 けれど、どれほど自分にとって切実な考え事だとしても、それは所詮"考え事"だ。

 現実の諸問題とぶつかってみれば、そんな"考え事"は結局、空疎な言葉遊びに過ぎない。


 自分は思考の海に逃げ込み、そこに溺れることで、現実のさまざまな問題から目を逸らしている。

 子供が積み木遊びでもするように、俺はこの世界を軽んじている。


 そういったことを、彼女を前にすると強く自覚せざるを得ない。

 おそらくは彼女が、この現実に対して彼女なりに真摯に向き合おうとしているからだろう。


 いつまで逃げているつもりなのかと、そう問いかけられているような気分になるのだ。


 だから、俺は彼女と一緒にいるのがあまり好きじゃない。

 自分の幼稚さを、眼前に突き付けられるような気がするからだ。


 そのこととは無関係に、俺は彼女に好意を抱いてもいた。

 それは否定することもできないほど大きな感情だ。

 

 どうしてなのかは分からない。本当に分からない。

 俺は彼女を前にすると冷静ではいられなくなる。

 激情と呼んでもいいほどの感情の波が、俺の心を強く揺さぶる。抗えないほど強く。


 そのことに気付くたびに、自分自身を軽蔑せずにはいられない。


 彼女は、俺が失ってしまった何かを持っているのかもしれない。

 だからこそ、俺は彼女に強く惹かれてしまう。……たぶん、そういうことだ。





 後輩が目をさましたのは、それから十分ほど経った頃だった。

 彼女は俺の姿に気付くと、自分が眠っていたことに気付いて驚き、照れくさそうに苦笑した。


 ハカセたちはどうしたのかと俺が訊ねると、後輩は首をかしげた。


「寝ちゃう前までは部室にいたんですけど……」


 俺は溜め息をついた。鞄はあったし、帰ってはいないのだろう。

 

「悪いけど、俺はもう帰らなきゃ。ハカセに伝えてくれる?」


 俺が言うと、後輩は考え事をするように眉を顰め、


「わたしも帰ろうかな」


 と言った。


「例の調査はどうするの?」


「焦ったところで進展するわけじゃありませんから。一日くらいサボっても大丈夫です」


 いちばん乗り気だったように見えたのに、案外やる気がないのだろうか。


「一緒に帰ってもいいですか?」


「どうして?」


「別に意味はありませんけど。だめですか?」


「……いや、ダメとかじゃなくて。だって家の方向が違うだろう?」


「一緒ですよ」


「そうだっけ?」


「はい」


「――そうだったっけ?」


「そうですってば」


 彼女はおかしそうに笑った。





 違和感を抱きながらも、帰路につく。後輩の家は、たしかに俺の家とさほど遠くない地点にあった。

 以前からずっとそうだったような気もするが、このあたりに住んでいたなら、小学も同じだったはずだ。

 

 ……そうだっただろうか? こんなに近所だったっけ? よく思い出せない。

 

 児童公園に通りかかると、このあいだと同じように、黒いスーツの男がいるのが見えた。

 赤いランドセルを背負った少女と、何か話をしている。

 あまりにも怪しく見えたので、俺は声を掛けることにした。


「人殺しの次は人さらいに転職するのか?」


「おい、そりゃ誤解だよ、少年。人聞きの悪いことを言うなよ。どちらかというと話しかけられたのは俺だ」


 殺し屋は親指で少女を示した。

 女の子は、目が合うとにっこりと笑った。


「こんにちは」と彼女は言った。

「初めまして」と俺は答えた。


 彼女は自己紹介をはじめた。自分はどこどこの小学校に通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。

 そんなようなことを言ったが、彼女は名前だけは言わなかった。俺は何ひとつ覚えられる気がしなかった。


 俺のうしろについてきていた後輩も、咄嗟に混乱したのか、なぜだか自己紹介を始めた。


 自分はどこどこに通う何年生で、星座や血液型はこうで、向こうの家に住んでいる。


「わたしはよく明るいねって言われます」


 と少女が言うと、


「わたしはよく、えっと、暗いねって言われます」


 と後輩が返事をする。これはいったい何なのだろう。

 後輩もまた、名前だけは名乗らなかった。


「いたいけな少女に何をするつもりだったの?」


 俺は溜め息をついて大男に話しかけた。


「誤解だって言ってるだろ。この子から話しかけてきたわけ」


 言葉の通りだとしたら、こんな強面の男に、よく話しかける気になったものだ。

 見た目は臆病そうだが、案外度胸があるのかもしれない。


「あのね、君、知らない人に声を掛けちゃいけないよ」


「……ダメなんですか?」


 と、なぜか後輩が後ろから言った。


「ダメだろ? 普通に考えて」


「でも、ダメなのは、知らない人に声を掛けられて着いていくことじゃないですか?」


「……そうだな。まあ、でも、知らない人には声を掛けちゃダメなんじゃないか」


「じゃあ、時計を忘れても時間を聞けないし、道がわからなくても誰にも頼れなくなっちゃいますよ」


「……そうなるね。でも、ダメだろ? 子供が知らない人に話しかけるのは。危ない相手かもしれない」


「そうですかね? なんだか世知辛い世の中ですね」


「……まぁ、同意するけどさ、たぶんいつの時代だって似たようなものだと思うよ」


 後輩は納得がいかないような表情をしていたが、結局頷いた。

 俺たちのやりとりを眺めながら、少女はクスクスと笑った。……変な子だ。


「で、何の話をしてたんだ?」


 俺が問うと、殺し屋は肩を竦めた。


「男の子の口説き方を教えてくれって言われたんだよ」


 見かけに似合わず積極的な女の子らしい。


「おじさん!」


 少女は咎めるように怒鳴った。殺し屋は慌てた様子だった。


「言ったらまずかったか?」


「まずいです。とても、まずいです」


 まずいらしい。俺は溜め息をついた。いい年をした大人が子供に怒られている。


「わたし、帰ります」


 女の子は殺し屋の方をキッと睨んで舌を出すと、背を向けて公園を出て行った。

 彼女の背中で、赤いランドセルが揺れる。

 既視感があったが、さして気にとめなかった。彼女とどこかで会ったことがあるだろうか?


「嫌われたかな」


 黒スーツは苦笑しながらも、真剣に嫌われることを怖がっているような態度だった。

 親熊が小熊の機嫌をうかがっているみたいだ。


「なんだってアンタみたいなのに話しかけようと思ったんだろうね」


「お前、このあいだとはずいぶん態度が違うじゃないか」


 そうだっただろうか? 俺は彼がしたのと同じように肩をすくめた。

 

「わたし、先に帰りますね」


 後輩はそういうと、こちらに背を向けてさっさと行ってしまった。

 なぜだか呼び止める気にはならない。


「いいのか?」


 大男は言った。


「いいよ、別に。ここまで一緒にきたことにだって、別に大した意味なんてないんだから」


「アホか。意味なんてなくても、一緒に帰ってる相手が先に行くって言ったら呼び止めるもんなんだよ」


「どうして? 一緒にいるのが嫌だったのかもしれないじゃないか」


「バカかお前は」


 と、大男はこのあいだと同じ言葉を吐いた。

 話が続くと思って黙っていたが、彼はそれ以上何も言わなかった。


「ねえ、アンタって殺し屋なんでしょう?」


「アンタはねえだろ、坊主。まあ、そうだよ。殺し屋だ」


「どうして殺し屋になったの?」


「別になりたくてなったわけじゃねえよ。ならざるを得なかったんだ。殺し屋なんてみんなそうだ」


「人を殺すのって、悲しい?」


「まあ、そうだな、悲しいよ。特に、悲しむことが身勝手だと思うときがいちばん悲しい」


 大男はさして気にしていないように笑った。真剣な表情を見せないことが、彼なりの礼儀か何かなのだろうか。


「どうして人を殺しても平気なの?」


「別に平気じゃねえよ。でも、別につらくもない。結局、俺は自分のことしか考えていないわけだ」


「ふうん」


「お前も歳を取ると分かるよ。覚えておけよ、今は子供だけど、お前もハタチを過ぎると気付くことになる。時間は取り戻せないし、人間は過去に戻れない。そういうことを強く実感することになる。今以上に切実にな。三十を過ぎるのなんてもっとあっという間だ。これは実体験からの教訓だが、地に足のついていない考えごとに夢中にならないことだ。考え事をしながら満喫できるほど人生は易しくない」


 別に俺は人生を満喫することに興味なんてなかったのだが、それも俺が若いからなのかもしれない。


 それにしても、彼の説教こそ、あんまり地に足がついてる感じがしない。

 そう感じるのは、やはり俺が若いからなんだろうか。


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