02-02


 シラノのことを思い出す。

 

 俺と彼女が最初に出会ったのは肌寒い四月。入学したての仮入部期間の放課後だった。

 俺は体育館裏の切り株で読書をして退屈をごまかしていた。そこにシラノが現れたのだ。


 俺とシラノは入学当初、かなり仲が良かった。俺にもシラノにも、知り合いと呼べる人間がほとんどいなかったからだ。

 男と女ふたりで会うにも、からかわれることもなければ邪推されることもない。

 友人がいないというのは、そういう意味では快適だった。


 シラノと話をするのは、俺に少なからぬ安心をもたらした。

 問題なく他者とコミュニケーションをとれる自分自身を発見できたからだ。


 彼女は自分のことをほとんど話さなかったし、俺も自分のことを話さなかった。

 だから、俺たちは本当のところ会話らしい会話をしたことがなかった。


 天気だとか、季節だとか、勉強だとか、食べ物だとか、せいぜいがそんなものだ。

 同じ部に入ったのも、部を選ぶ期間を共に過ごしていたからだという気分が強い。


 だからといって、俺はシラノに特別な感情を抱いたりしなかった。

 シラノの方もそうだろう。俺たちは結局、お互いに興味がなかった。


 俺は自分にしか興味がない人間だし、シラノは自分自身にすら興味がない人間だった。

 そんな者たちが一緒にいたところで、何かが起こるわけでもない。

 

 シラノに必要なのは、彼女に興味を持つ人間だった。彼女に対して積極的に影響を与えうる人物だった。

(そんな人間が本当に存在するのかどうかは別の話だ)


 彼女の方に友人ができると、俺たちは部活の時間以外はほとんど話さなくなった。

 だからといってどうというのではない。


 あるときシラノは、「君が何を考えているのかさっぱり分かりません」と言った。


 俺だってそうだよ、とそのときの俺は声に出さずに思った。

 俺だって、自分が何を考えているのかなんてわからない。

 

 でも、きっと自分のことしか考えていないんだと思う。 

 

 それきり、俺とシラノがふたりきりで言葉を交わすことはなくなった。






 昇降口で、運動部の連中に声を掛けられた。見覚えはなかったが、どうやらクラスメイトらしい。

 背の高いサッカー部の部員は、気安げに俺の肩を叩いた。 


「お前も聞き込みか?」


「何の話?」


「あれ、お前、自然科学部だったよな? シラノたちが噂について教えてほしいって、校舎中歩いてるみたいだったけど」


「ああ」


 例の噂について、ハカセたちはシンプルな手段を取ったらしい。 

"噂"について調べるには、その噂の源を探すのが手っ取り早い。

 これまでほとんど話題に上らなかった怪談が、突然妙な盛り上がりをみせたのだから、その方法は有効だろう。

 

 いったい何が原因で噂が広がったのか。


「お前は何やってんの? サボり?」


「まあね」


 頷くと、彼は爽やかに笑って、「じゃあな」ともう一度俺の肩を叩いた。


「ああ」

 

 と俺は頷く。彼の名前は何と言っただろう。まあいいや。どうせ明日は話もしないだろうから。

(使いもしない情報を覚えて何になるというんだろう?)


 俺は学校の敷地を出て、帰路を辿った。

 朝起きて、学校へ行き、家に帰り、眠る。生活というサイクル。


 何もかもが平坦で無意味だ。






 ふと気付くと、俺は自室の椅子に座って携帯電話のディスプレイを眺めていた。 

 いつからここにいたのかは思い出せない。日付はさっきまでと変わっていた。十月。


"ズレ"たのだ。


 外は暗く、部屋の電気は既についていた。立ち上がってカーテンを閉める。


 部屋を出てダイニングに向かう。冷蔵庫からペットボトルの緑茶を取り出し、コップに注いだ。

 一息に飲み干すと、冷たい液体がじんわりと体に染み渡るのがわかった。


 キッチンのカウンターに置かれた写真立てが、不意に目に入った。

 家族で撮った写真だ。いつ頃撮ったものだったか。俺が小学生くらいの頃だろうか。


 今より少し若い両親と、今よりも幼い俺と妹。夏の広い向日葵畑をバックに、全員が笑っていた。

 青空と太陽、向日葵とそよ風。今も克明に思い出せる。

 何もかもがおぼろげで判然としない俺の生活の中で、過去の思い出だけが眩いほど鮮明だった。

 

 あの夏から、俺は背が伸び始めた。声が太く、低くなった。力の加減が少しずつ難しくなっていった。

 指の関節がごつごつと形を変え始めた。喉にふくらみができた。

 

 それなのに、俺はあの夏から少しだって成長できた気がしない。

 今だってそうだ。出来うるものなら子供に戻りたかった。


 子供の頃はどうしてあんなに大人になりたかったのだろう。

 成長すれば、何かを変えることができるかもしれないと思っていたのかもしれない。

 何かを手に入れることができると、無根拠に確信していたのかもしれない。


 あるいは、俺から失われてしまったのは"それ"だろうか?


 "無根拠"であるとしても、確信というものが必要なのかもしれない。


 大人になれば幸せになれる。そう思わないで、子供が大人になりたがることはありえない。

「大人になれば幸せになれる」と信じられない子供は、そういう意味では不幸だ。


 子供のままで生きていくには、この世界はたぶん気難しすぎる。

 そして、そんな人間が、たくさんいるのだ。息苦しくてたまらない人間が、きっと、ごまんといるのだ。


 子供に戻りたいと思うということは、俺は大人なのか? きっと違う。

 

 でも、すべてを忘れて、あの夏の向日葵畑にもう一度行きたい。

 何もかもが白く輝いて見えたあの夏に。


 一度でもそうすることができたなら、俺は死んでもかまわない。

 そうすることができないなら、なおのこと死んでもかまわない。


 不意に、携帯電話のコール音が響いた。一瞬、どこから鳴っているのか分からなかったが、部屋に忘れてきたらしい。

 俺はコップをテーブルに置き、慌てて階段を昇って自室に戻った。


 無愛想な携帯のコール音は鳴り止まなかった。通話ボタンを押して耳に当てる。何も聞こえなかった。


 少しすると、声が聞こえた。小さな声だ。本当に小さな声だ。

 何と言っているか、まったくわからない。


「何?」


 と俺は訊ねた。電話の声は少し大きくなる。


「聞こえない」

 

 俺はスピーカーを耳に押し付けるようにして必死に聞こうとしたが、言葉はまったく聞こえなかった。


「なんだ?」


 俺の声は自然と大きくなった。電話口から、相手が怒鳴る気配が伝わってくる。だが、なんと言っているのかは分からない。


「なんだって? 全然聞こえない!」


 全然聞こえない。嵐の中で聞く叫び声のようだ。どれだけ相手が声を張り上げても、その声が俺の耳に届く気はしなかった。

 かろうじて口が動いていることが分かるようなもので、何を言わんとしているのかはまったくわからない。


「聞こえない! 聞こえない!」


 俺は怒鳴るように繰り返した。何も聞こえない。部屋の中は耳鳴りがしそうなほど静かだった。

 俺の声だけがバカバカしいほどの大きさで響いている。聞こえるのは俺の声だけ。

 不意に通話が途切れ、携帯電話がつー、つー、と寂しげに鳴く。


 何も聞こえない。自分の声以外は、何ひとつ……。


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