01-07
自然科学部の部室には誰もいなかった。
四人分の鞄は置いてあるので、帰ってはいないだろう。例の噂について調べているのかもしれない。
夕陽が窓から差し込み、赤と黒のコントラストを作り出している。
俺はパイプ椅子に腰を下ろした。手持無沙汰をごまかすために鞄から小説を取り出したが、退屈でまったく読み進められない。
しばらくぼんやりと考え事に浸っていた。さまざまなことを考えた。
トンボのこと、ハカセのこと、シラノのこと、幼馴染の女の子のこと、距離ができた妹のこと。
ちっとも帰ってこない両親のこと、スズメのこと、奇妙な手紙のこと、黒いスーツの大男のこと。
どれもこれも、砂の上にばらばらに散らばったガラスの粒のように些末なことに思えた。
誰のことをどんなふうに考えても、俺の思考はいつも自分自身のことにたどり着く。
結局のところ俺は他人のことなんて考えていない人間だ。自分のことしか考えていない人間だ。
そんな人間が誰かに好かれたりするわけがない。誰かに必要とされたりしない。
(こんなことを考えるのは俺が誰かに好かれたいからだろうか?)
考えごとをやめてふと窓の外を見ると、世界は深い藍色に染まっていた。
部員たちはまだ帰ってこないらしい。時計を見ると、案外早い時間だ。
そこで俺は雨音に気付いた。こんなに暗いのは、どうやら雨が天気が悪いかららしい。
雨が降れば、屋上には出られない。別に行きたいわけでもないのだが、心細く感じるのはどうしてだろう。
遠く向こうの雲は煙のように黒く膨らんでいる。
耳鳴りが聞こえた。
立ち上がり、自分の荷物を持って部室を出る
俺は図書室に向かった。借りていた本を返さなくてはならない。
◇
廊下を歩いても、人とはほとんどすれ違わなかった。時間が時間なので当然と言えば当然なのだが、天気も相まって不気味に思えた。
校舎から人が消え失せてしまったような気がした。
普段は気に留めないような、当たり前の景色。壁や机や椅子が、俺には聞こえない囁きを交し合っているように思える。
もちろん、そんなのは錯覚だ。物は喋ったりしない。現実では。
でも――そういえばここは、現実だっただろうか?
俺は頭を振った。ここが現実であろうとなかろうと、俺がやることは変わらないはずなのだから。
電灯に照らされていても、廊下はどことなく青白い闇をまとっている気がした。
風が窓をかたかたと鳴らす。切れかかった廊下の電灯がカチカチと明滅する。
誰かいないのだろうか? まるで例の噂の神隠しにでもあった気分だが、俺は旧校舎に足を踏み入れたことはない。
そんな否定は、噂なんてあてにならないという一言で済んでしまうのだが。
俺は旧校舎に行ったことがない。あんな薄暗い場所に、俺が行くはずがない。
(――"あんな薄暗い"?)
頭の奥がズキズキと痛む。
図書室への道のりはこんなに長かっただろうか。
誰でもいいから俺の前にあらわれてくれないだろうか。
トンボでもハカセでもシラノでも誰でもいい。できれば後輩がいい。幼馴染とスズメには会いたくない。
誰か通りがかったりしないのか?
やっとの思いで図書室にたどり着くが、様子はほとんど廊下と同じだった。
本棚が林立する室内から、人の姿はほとんど消えていた。その光景は、なぜだか俺に世界の終わりを思わせた。
ふと、あの手紙の内容を思い出す。
"理想と幻想の女神ガラテア様のお力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。"
あの時代遅れにもほどがあるダイレクトメール。月刊ムーの全盛期でもあるまいし。
あんな内容の手紙を真に受けるバカがいるものだろうか?
ましてや英雄だなんて。ばからしい。……本当に、ばからしい。
カウンターの中では図書委員の子が本を読んでいた。
この子はきっと、世界が明日終わるとしてもここで本を読み続けるに違いない。そう思わせる何かが彼女にはあった。
俺はその姿に少しだけ安堵した。自分はひとりで取り残されてなんていないと分かったからだろうか。
閑寂な図書室に、俺の足音は大きく響いたが、それでも彼女は顔をあげずにページに視線を落としている。
その姿は図書委員というよりは、図書室の番人のように見えた。
彼女はいつもここにいる。委員会の活動は曜日ごとの交代制なのに、毎日ここにいる。
なぜなのかは分からない。聞いてみたこともない。話しかけたこともない。
それでも彼女はここにいる。
俺は鞄から本を取り出し、カウンターに差し出した。
彼女は緩慢な手つきで本を受け取ると、時代遅れな貸出カードに返却日を記入するように無言でペンを示した。
俺はペンを握り、カードに文字を走らせる。
今日はいったい何日だっけ?
一瞬、本気で今月が何月なのかもわからなくなった。
こんなことばかり起こる。……どうしてだろう。いつからこうなった?
俺は何か大事な何かを見逃しているのかもしれない。……俺の生活から、何かが欠けてしまったのだろうか。
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