01-06


 目をさますと、俺は案の定、学校の屋上に寝転がっていた。どうやら眠っていたらしい。


 記憶ははっきりとしていた。朝、屋上に来て寝転がり、眠ってしまっていたのだ。


 タチの悪い夢をみた気がしたが、内容はどうしても思い出せそうにない。

 うんざりして、吐き気がこみあげてきそうだった。


 目を開けると、青紫の雲と、赤褐色の空が見えた。

 ほとんど半日眠っていたことになる。もう日没が近いらしい。少し風が冷たかった。


 眠る前に感じていた、この場所に対する安心感、親密さのようなものは、すっかりと失われてしまっていた。

 それがなぜなのかはわからない。

 

 気だるさに溜め息をつくと、すぐ傍から声が聞こえた。


「起きた?」


 ひときわ強い風が吹き抜けた。声のしたほうに顔を向けると、見慣れた顔と姿が見える。


 彼女は寝転がった俺の横に座って、ぼんやりとした表情をこちらに向けていた。

 笑うでもなく、さりとて不機嫌そうでもなく、無表情のままこちらをじっと見つめている。


 昔からの付き合いのはずなのに、こいつの考えていることは、俺にはちっともわからない。


 普段どんなことを考えて生きているのか、どんなふうに生活しているのか、何を考えているのか。 

 彼女のことはさっぱりわからない。


 一応、幼馴染と呼べなくもない間柄ではある。だが、単なる昔からの知り合いと言うほうが正しいだろう。

 そうだ。もう何年も話していないのだから、せいぜいが「知り合い」だ。

 

 こいつのことは昔から何ひとつ分からない。

 いったい何がしたいのか、俺をどう思っているのか――いや、そんなことはどうでもいいはずなのだけれど……。


 少し考えて、思う。"何年も話していない"? そうだっただろうか。

 俺が彼女と最後に話したのはいつのことだっけ? 何年も前だっただろうか?

 そうだという気もするし、つい昨日、話をしたようにも思える。


 俺は思い出すのを諦めた。……どうでもいい。そんなことは本当にどうでもいいことだ。

 彼女は力を入れ続けるのが億劫になったように首をかしげて頭をぐらぐらと揺すった。長い髪がくるりと揺れる。


 目を細めてその仕草を眺めながら考える。どうして彼女がこんなところにいるんだろう?

 理由がわからないという疑問以上に、戸惑いに似た抵抗を俺は感じていた。


"彼女はここにいるべきではない"と俺は強く思った。どうしてこんなところにいるんだ?


 こんな場所に――現実から切り離され、何もかもが立ち止まってしまったような場所に――彼女はいるべきではないのだ。


 ここには俺のような人間だけが訪れ、そして俺のような人間だけが長い時間を過ごしていけばいい。


 彼女はここに向いていない。彼女はこんなところに来るはずがない。

 ひょっとしたら……ここにいる彼女は、俺が見ている夢のようなものなのかもしれない、と、そんなことを大真面目に思った。


 夢と現実の境もまた、俺にとっては曖昧だ。

 どこからが現実であり、どこからが夢なのか。そんなことはもう分からない。


 俺はいつもの通り、周囲の様子をうかがって、適当に状況に合わせることにした。どこにいたって変わりはない。

(どこにいてもやることが変わらないなら、わざわざ自分の足でどこかを目指したりする必要があるのだろうか?)


 彼女は特に感情もこもっていないような溜め息をつき、それからくすりと笑って言った。


「こういうところ、好きなの?」


 その言葉に、俺はたまらなく恥ずかしい気分になった。なぜかは分からない。

 自分のなかの未熟さや不安を見透かされたような気がしたのだ。


 何も答えられずに黙り込むと、彼女はすっくと立ち上がり、制服のスカートを両手でたたいて、気持ちのいい音を鳴らした。


「さよなら」


 と彼女は言った。俺は何も答えられなかった。

 遠ざかっていく足音。扉の閉まる音。


 どう答えればいいと言うんだろう? 何度もこんなことを繰り返しているような気がする。

 俺じゃない誰かが、俺の立場とまるっきり同じ経験をし、まるっきり同じ気持ちだったなら、何か別の手段を択べただろうか?

 いや、そんな考えは空しい言葉遊びでしかない。分かっている。


 俺は何かを選ぶしかない。だからといって……何を選べというんだ?


 おそらく俺にとって最大の問題はそこなのだ。


 俺には選びたいものがない。

 欲望するべき何かがない。欲しいものなんてなにひとつないし、行きたい場所なんてどこにもない。

 だったら、馬鹿げた努力を続けてまで、こんな場所にとどまり続ける理由はあるのだろうか。


 こんなむなしさを誰もが持ち合わせているのだとしたら、そんな世界はまったく正気じゃない。


 屋上には俺以外の人間が誰もいなくなってしまった。立ち上がり、フェンスに歩み寄る。


 こんなところにいたら、昔は無性に泣き出したい気持ちになったものだ。今はそれがない。それすらない。

 より致命的な状況はどちらかと聞かれれば、おそらく今の方が重篤なんだろう。


 開けたばかりの視界には、沈みかけの夕陽は眩しすぎて、刺さるように痛かった。

 だからといって、何がどうというのではない。そんな感覚は、俺になにひとつもたらさない。


 陽が昇り沈むということは、一日の生活の象徴だ。それはサイクルを意味する。

 生活というサイクル。無限のような有限の中、永劫のような一瞬をただ繰り返すだけのサイクル。

 書き割りの街の中の、焼き増しの日々。ゆっくりと毒に侵され、刻一刻と身体の自由を奪われていくような時間。生活。


 惰性に支配された人間にとって、未来は向かうものではなく問答無用に襲い掛かってくるものだ。


 そこに自分の意思は存在しない。前には進んでおらず、また立ち止まるわけでもない。

 ただ、今まで歩いてきたのだから、まぁ、歩き続けたところでかまわないだろう、というわけだ。

 ベルトコンベアーに載せられているのと変わらない。


 立ち止まることはいつでもできるという言葉は、使い古されてはいるが、間違ってはいない。

 

 けれど、何もかもが動き続ける世界で自分だけが立ち止まることは、何もかもが立ち止まった世界で自分だけが後退することと等しい。

 

 後退はやがて自分を病ませる。その毒は静かに身体中を巡り、体の自由を奪っていく。

 誰もが何かを求めてどこかへ向かおうとする世界で、ひとりだけ立ち止まってしまうことは、死を選ぶことと大差ない。


 俺は立ち止まった。それは俺が死にたがりだったからじゃない。


 ただ、気付いていなかったのだ。立ち止まることがそのまま奈落に落ちることを意味するということに。

 このベルトコンベアーは後ろ向きに進んでいて、俺たちは歩き続けることでなんとか現状を維持できていたのだということに。

 立ち止まれば、奈落に落ちていくだけだということに。


 一度そこに落ちてしまえば、誰も助けることはできない。落ちてしまったら、誰も助けることはできない。

 声を掛けたりすることはできるかもしれない。怒鳴りつけたり、励ましたり、罵倒したり、嘲笑ったり。

 でも、誰も手を差し伸べることはできない。


 惰性というものは唐突に効力を失う。そこにはなんの予兆もない。

 あたかも電池が切れるかのように、突然、ぷつんと途切れてしまうのだ。


 前もって回避することは困難だし、常にそれを警戒していては疲弊してしまう。

 誰にでも訪れうる。それもさまざまな形で。


 だからこんなふうに、ある日突然、身動きがとれなくなって、そのまま何もできなくなってしまう。

 そういう種類の人間がいる。そうなってしまいやすい人間がいる。


 俺を取り巻く状況すべてが、俺自身が限界に近付いていることを示している。


 かつて俺は、眠ったまま生き続けることを誓った。目を逸らして、さまざまな物事から逃れようとした。

 でも結局は逃れられないのかもしれない。それはどこまでも追いかけてくる。どうやったって無駄だ。逃げられない。


 ……何もかも投げ出して、逃げ出してしまっても、それはそれでかまわないはずだ。自分自身がしっかりと納得できるのなら。


 いっそ何もかも投げ出し、逃げ出した方が楽なのだ。遥かに。明らかに。

 新しい痛みを受け入れてまで再び歩きはじめるだけの理由を、俺は持ち合わせているのだろうか。


 おそらくない。まったくない。これっぽっちもない。俺は何も必要としていないし、何も俺を必要としていない。

 

 俺はいったい何をどうしたいんだろう? 


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