01-05


 俺は恵まれた人間だ。本当にそう思う。

 他人との比較で自分自身の幸福を測れるわけではないが、俺はたしかに他者と比較しても恵まれている。


 食べ物にも飲み水にも寝泊りする屋根にも困らない。特に厳しい仕事をしなくても生きていくことができる。

 挫折や妥協というものと巡り合ったことは一度もないし、またこれからもそうそう出会う気がしない。


 身体にも問題はない。至って健康そのもので持病もない。アトピーも持っていない。

 働き蜂の両親から、日がな一日遊びまわる生活を一週間続けても困らないほどの金を預けられている。

 携帯もパソコンもゲームも本も、親に頼めばいつでもなんでも手に入れられた。


 こうして自分についての情報を列挙してみると、自分が恵まれているということをよく理解できる。

 客観的に見て、悩みもなく、苦しみもなく、人に後ろ指を指されることもない。


 端的に言い表すと、「満たされている」ということになる。


 何かの本で読んだ。人間が人間らしく生きていくには、"欲望"が必要なのだ。

 欲しいものが何ひとつない人間は生きていけない。生きていく理由がないからだ。目的がないからだ。

 

「理由なんかなくても」「目標なんかなくても」と言う人もいるが、この言葉はあまり役に立たない。

 理由がないと人間は死ぬ。目標がないと人間は沈む。


「理由なんかなくても」と言いたがる人間は、その言葉を放つことで"理由がない"自分自身を奮い立たせようとしているに過ぎない。

 それはその人自身にとっては意味のある言葉だが、他人には何の効用ももたらさない。

 

 欲望にはきりがない。決して完全に満たされることはない。それならば、最初から何も欲しがらなければいいのだ。

 どうせ欠乏感はついて回るのだから、金を掛けてまで何かを手に入れても仕方ない。


 俺は何も欲しがらない人間になった。部屋にはベッドと机と、夏から置きっぱなしの扇風機しか置いていない。

 クローゼットの中の服も、すべて必要だから買っただけで、欲しいと思ったことは一度もない。

 

 二年か三年、そうやって過ごした。すると不思議な顛倒が起こる。


「何も欲しがらない」という満たされているはずの状態に、奇妙な空虚感がつきまとうようになったのだ。

 まるで自分自身に「何もない」ような気がした。好きなものも嫌いなものも。


 いつのまにか、からっぽになった。俺という人間は本当に生きているのだろうか?

 現実と妄想の境目は曖昧になり、何も考えなくなった。いつ死んでもいいような気持ちだった。

 

 そんな状態が何年も続いている。不健全だ、と思うが、不健全で何が悪い、と思う自分もいた。


 この状態は苦しい――だが、どう変わったところで苦しいのは変わらない――ならば変わらなくてもいいのではないか?

 何かを求めるべきではないか? ――そう思うということは、自分は健全に生きたいのだ――だが、いまさら何ができる?


 そもそも俺は本当に生きているのだろうか? しっかりと? 現実で?

 

 もう誰にも会いたくなかった。さまざまな情報にうんざりしていた。

 何も言いたくないし何も聞きたくない。新しいものは何も見たくない。何もない場所へ行きたい。

(――だったら死ねよ)





 準備を終えて家を出る。通い慣れた道を通り、学校へと向かった。

 校門に着く頃には、同じ学校の生徒がぱらぱらと目についた。さして気にも留めずに歩く。

 自分に関係しない他者は、背景とほとんど同じものだ。


 教室についても、俺に話しかけるものはほとんどいない。

 クラスメイトも、この街の住民も、俺にとっては背景の中の存在だ。あるいは、俺自身が彼らにとっての背景に過ぎないのか。

 そのどちらも正解なのだろう。


 嫌気がさして、鞄を置いてすぐに教室を出た。校舎を適当に歩き回るのは暇つぶしには最適だ。

 誰に会うわけでもなく、何か用があるわけでもない。


 しなければならないことはひとつもない。つまり俺は自由だった。

 だとすれば、この閉塞感はいったいどこから訪れたものなんだ?


 屋上へと続く階段を昇る。鉄扉を押し開くと、少しあたたかな風が屋内に吹き込んだ。


 風が校舎に吹き込むと、窓の冊子がカタカタと音を立てて揺れる。

 不意に、とても、自分の生活が、あるいは自分というものが、空疎に思えた。


 俺は屋上に寝転がった。鈍色のフェンスに区切られた空間。

 隔絶され、孤立した空間。そこには言いようのない安らぎがある。

 外に出て仰向けに寝転がってみると、太陽は意外なほど暖かかった。

 

 俺は瞼を閉じ、その裏で陽の光を感じた。こんなふうに照らされていれば――何かが変わることはあるのだろうか?

 そんな考えを、我ながら馬鹿らしいと鼻で笑う。


 なんだか、とても眠い。

 近頃は、どれだけ眠っても寝足りない。ずっと眠っていてもいいくらいだ。

 

 俺は起きていることにうんざりしていた。ずっと眠っていたかった。

 何が悲しいのではない。何が悔しいのでもない。

 

 疲れたのだ、目を覚まし続けていることに。

 必死に目をこらしてみたところで、何かが変わるわけでもない。この手が何かをつかみとるわけでもない。

 

 俺は何かを一心に待ち続けていた。

 そうやって待っていれば、いつかなんらかの解決が訪れてくれると思っていたのかもしれない。

 偶然に期待することは、居もしない神に祈ることと、どう違うだろう?


 自ら積極的に行動する能力を失った魂は、生きながらにして死んでいく。これは自明だ。




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