01-04


 目を覚ますと、夕方の五時を過ぎていた。

 帰ってきてすぐに猛烈な眠気に襲われ、自室のベッドで仮眠を取ることにしたのだ。

 

 頭がぼんやりと重かった。身体を起こそうとすると関節が軋み、気怠い。億劫になって再びベッドに身体を沈める。


 何か奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。

 思い出す必要もないのだが、なんとなく気になって、しばらくの間、寝転がって夢の面影を撫でまわしてみる。

 

 結局何も思い出せないまま時間が過ぎた。意識がはっきりとするのを待ってから、俺はベッドを這い出る。


 ふと机の上を見ると、机の上に手紙封筒が置かれていることに気付いた。

 薄い水色をした便箋を手に取る。こんなものに覚えはない。


 部屋の中をうかがう。誰かが部屋に入った気配はない。

 表にも裏にも何も書かれていない。封筒を開くと、中には三枚の便箋が入っていた。


 俺はその便箋を、一度大雑把に流し読みした。次に二、三度しっかりと読み、最後に小声で朗読までした。

 文字はお世辞にも上手だとは言えず、解読には時間が掛かったが、左上に書かれた俺の名前だけははっきりと読むことができた。

 

 文章は次のようなものだった。





前略


 突然このような手紙をお送りすることをお許しください。

 本来ならば直接ご挨拶に伺うべきなのですが、さまざまな理由から今はそれができません。

 このような文面での挨拶となることを、どうかお許しください。

 事態は危急なのです。


 近頃、起こりつつある異変に貴方もお気づきになっていると思います。

"異変"という言い方をすると大袈裟だと感じられるかもしれませんね。

 もっとシンプルな言い方をしましょう。


 この世界に、"ズレ"が起こり始めているのです。

 心当たりはございますか?


 それと言いますのも、あの忌々しい異形の魔神、混沌と破綻と絶望の使者、あの暗愚な冥王、カリオストロの復活が原因です。

 あの山師! 忌々しい昏き光!  


 理想と幻想の女神ガラテア様の尽力により、漆黒の墓碑に封印された悪辣無比の巨人が、いま蘇りつつあるのです。

 

 原因は分かりません。とにかく、カリオストロの力の流出を止めなければ、この世界の"ズレ"はもっと広がっていくでしょう。

 そうして広がった間隙から、彼の者の腕が忍び入り、この世界に破綻をもたらしてしまう……。

 ガラテア様はそのことにいち早く気が付き、魔神の復活を阻止なさろうとなさいました。


 けれど、ガラテア様は、先のカリオストロとの戦いでお力のほとんどすべてを失われていました。

 そこで、お話は貴方様に繋がります。


 カリオストロの封印を成し遂げる際、ガラテア様は自らの強大な力によって世界に影響を与えるのを避けようとなさいました。

 その際、ガラテア様がとった方法とは、ひとりの人間に女神の力を分け与え、代行者としてその者を戦わせるというものです。


 半神の身になった彼は、所詮は野蛮な亡者にすぎぬカリオストロに後れを取りませんでした。

 世界の平穏は保たれましたが、けれど、人に力を与えるのは大罪です。

 ガラテア様は高き者の怒りに触れ、御力の大半を失ってしまわれたのでした。

 

 言うまでもなく、カリオストロを封印した一人の英雄、これは貴方の前世です。


 世界はふたたび、彼の者によって危機にさらされようとしています。

 ガラテア様のご意志に従い、我々と運命を共にし、世界を守る戦いに協力していただけませんか?

 英雄の魂をもつ貴方ならば、きっと成し遂げられるはずです。


 つきましては、近々、詳しい話をするために、そちらへお伺いしようと思います。

 今回は、簡単な事情の説明とご挨拶だけで終わらせていただきます。

 

 よしなに。


                    草々



 


 二枚目の右下には、おそらく書いた者の名前だろう、なんなのかよく分からない法則性を持った象形文字のようなものが並んでいた。

 三枚目は白紙だった。

 

 俺は最後にもう一度便箋を読み返すと、それを封筒にしまい直し、机の引き出しに放り込んだ。


 狐につままれたような気分で、頭を掻く。 

 

 気分が落ち着かなかったので出かけることにした。

 財布と携帯だけを持って玄関を出る。特にどこに向かうでもなく、住宅街を歩いた。

 

 緩やかな勾配の坂を上りきり、児童公園の自動販売機でスポーツドリンクを買った。

 その場でペットボトルの蓋を開けて口をつける。蓋を締め直したとき、ベンチに人がいたことに気付いた。


 ひどく、目を引いた。おおよそ児童公園には似つかわしくない人影だ。

 真黒のスーツを身にまとった、大男だった。

 ディアドロップのサングラスで目元を隠しているが、その奥の視線がこちらに向いていることがぼんやりと分かる。


 何か変なのが現れたぞ、と俺は思った。


「坊主、金貸してくれないか」

 

 大男は言った。ドスは効いていたが、思っていたよりは軽妙な話し方だ。

 俺は少し警戒しながら答えた。


「悪いけど財布を忘れたんだ」


「お前はバカか」


「自分でもバカだバカだと思うことは多いけど、見知らぬ人に言われるほどひどくはないはずだ。財布を忘れたくらいでバカ扱いもないだろう」


「そうじゃねえ。ついさっき自販機でドリンク買ったじゃねえか。さっき出したのが財布じゃなけりゃなんだ。カード入れか」


「ああ。カード入れなんだ」


 大男は笑った。


「いいから貸してくれよ。俺は腹が減ってるんだ。飲み物を飲んでごまかしたい。百二十円でいい」


「こういうのもカツアゲって言うのかな?」


「ああ? いや、違う。カツアゲじゃない。借りるだけ」


「いいけど、返す気ないよね?」


 彼は目を丸くした。


「どうしてわかった?」


 俺は彼にかすかな親近感を抱いた。





 大男は名乗らなかったし、俺も訊ねなかった。

 俺から受け取った金で缶コーヒーを買うと、彼はふたたびベンチに腰を下ろして溜め息をつく。


 その姿は、冬の山をひとりで散歩する冬眠前の熊みたいにも見えた。

 プルタブを捻って缶を開け、大げさな手振りでコーヒーを一口飲んでから、大男は言う。


「坊主、今は何時だ?」


「さあ?」


「時計、持ってないか」


「ああ」


「携帯は?」


「ちょっと待って」


 俺はポケットから携帯を取り出したが、案の定、充電切れで電源が入らなかった。

 そういえばしばらく充電していない。どれくらいになるだろう。……別に、どうでもいいことではあるのだが。


「電池切れてる」


 正直に言うと、大男はにやりと笑った。


「お前、友達いないのか」


「まあね」


「寂しくないのか」


「別に」


「反抗期の子供みたいな態度だな」


「わりと反抗期が尾を引いた方なんだ」

 

「そうかよ」


 大男がどうでもよさそうに笑うと、そこで話は途切れた。


 彼の持ち物は大きな鈍色のアタッシュケースがひとつきりだった。

 それ以外のものは何ひとつ持っていない。アタッシュケースだけを抱えて、遠くの街から逃げてきたような風情だった。


 無性に興味を引かれて、ケースの中身について大男に訊ねてみた。

 大男はにやにやと笑みを浮かべ、「知りたいか?」と言った。


「教えたくないならいいけど」


「心にもないことを言わずに、素直に聞いていいんだぜ。よし、見せてやろう」


 大男は脇に置いていたアタッシュケースを膝の上に載せて開いた。

 その中身を見たとき、最初は何が入っているのか分からなかった。


 何秒かして、それが大量の札束であることに気付いた。心臓が一度だけドクンと強く鼓動する。

 俺は平静を装って言った。


「金、持ってるじゃないか」


 大男は呆れたように深い溜め息をついた。


「お前、かわいげってものがないね。もっと驚けよ」

 

「いくら入ってるの?」


「五千万」


「ゴセンマン。へえ」


 五千万ってどのくらいだっけ? マンションくらいなら買える? まあいいや、と俺は思った。どうせ俺の金じゃない。

 そんなことよりも、この大男がこんな大金を持ち歩く理由の方に興味があった。


「アンタ、何してる人?」


「"アンタ"はないだろ、坊主。敬意をこめて"おじさん"と呼べ」


「"坊主"はないだろ、オッサン。で、何やってる人?」


「殺し屋」


「コロシヤ」


 また妙な奴と話をしてしまったな、と俺は思った。


「殺し屋なのに五千万しか持ってないの? 少なくない?」


「少なくはない。後ろ暗い商売だからな、依頼する側も足元見るのよ」


 後ろ暗いのはお互い様なんだから、付け込むことだってできるだろうに。


「というか、まあ、金はもっとあったんだけどな。なくなっちまった。全部」


「どうして?」


「いや、まあ、そうな。いろいろだ」


「いろいろ。へえ、それで、その金で何をするつもりなの?」


 話の流れで訊ねると、大男はしかつめらしい表情を作った。

 重苦しく口を開き、声をひそめて呟く。


「殺してもらうんだよ。俺をな」


「……へえ」


 世の中にはいろんな人間がいるものだ。


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