01-03


「例の噂、聞いてない奴はいるか?」


 ある水曜、部室には五人の部員全員が勢揃いしていた。

 ハカセはホワイトボードの前にパイプ椅子を四つ用意し、全員に座るように言った。

 

 俺たちは怪訝に思いながらも従った。ミーティングなんてそれまで一度もやったことがなかったし、これからもないだろうと思っていた。

 どういう風の吹き回しかは知らないが、この状況は俺にはあまり喜ばしくない変化だ。


 ハカセはホワイトボード用のマジックペンをくるくる回しながら話を続ける。


「例の。旧校舎の」


 友人のいない俺は、噂と言われてもピンとこない。黙って話の動きをうかがっていると、後輩が口を開いた。


「あれですか。例の。鏡の」


 彼女の言葉に頷き、ハカセが話を再開しようとする。慌てて口を挟もうとしたが、それより先にシラノが声をあげた。


「すみません、噂って何の話ですか?」


 ハカセは呆れたような溜め息をついた。


「シラノ、お前、友達いないのか」


 歯に衣を着せぬ物言いだ。良いことか悪いことかはわからないが、ハカセは子供の頃からずっとこうだった。

 オブラートというものはどこかに落としてしまったらしく、相手が傷つこうが悲しもうがおかまいなしに思ったことを言う。


 彼自身は傷つけようとしているわけでもなく、自然とそうなってしまうらしい。

 一時はその癖を直そうと努力していたようだが、そうすると今度は反対に自分の意思を表明できなくなってしまうという。極端な奴だ。

 そのことで誤解されたり、嫌われたりすることが今でもあるらしい。


 俺は彼のそういうところが好きだった。ぶっきらぼうで遠慮のない、威風堂々とした態度が好きだった。

 だからといって、俺が彼に特別な親密さを感じているということにはならない。


 どちらかというと苦手意識の方が強かった。

 ハカセと一緒にいると、俺は自分の意思表示の稚拙さや、あるいはもっと根本的な幼児性に気付かされる。

 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼にはある。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはある。


 だから俺は、彼と目を合わせて話をするのが苦手だった。


「失礼な」


 シラノはハカセの言葉に眉をひそめた。


 彼女は俺と同じクラスに所属していて、自然科学部の数少ない女子部員(といっても男女比は一人しか違わないが)でもある。


 彼女の声は、どのような場面で聞いてもすこし間抜けな響きを持っている。

 本人はいたって真面目なのだが、舌足らずなのかなんなのか、独特の響きをもってしまうのだ。

 そのせいで誤解されたり、嫌われたりしたことが何度もあるという。

 

 俺は彼女の声が好きだった。愛らしくてそっけない、繊細そうな声音が好きだった。

 だからといって、俺が彼女に特別な感情を抱いていることにはならない。


 どちらかというと苦手意識の方が強かった。

 彼女といると、俺は妙に緊張してしまう。彼女の表情は、笑顔であろうと無表情であろうと俺を不安にさせる。

 なぜかは分からないが、そうさせる何かが彼女にはある。あるいは、そうなってしまう何かが俺にはある。

 だから俺は、彼女と正面切って話すのが苦手だった。


「いますよ、友達ぐらい」


「だったら噂くらい聞くだろう?」


「友達はいるんですけど、ガラパゴス化したというか、なんというか」


「つまり?」


「友達ごとクラスで浮いてるんです」


 彼女の言ったことは半分くらいは本当だ。

 たしかに彼女は、教室では二人の女子としか会話しない。けれどそれは浮いているわけではなく、敬遠されているのだ。

 

 学年の中でも断トツの容姿を誇るシラノとその友人ふたりは、女子の中でどう扱われているかはしらないが、男子の中ではかなりの人気者だ。

 不思議と彼女たちに声を掛ける男はいないが、クラスメイトたちがシラノの話をしているのを、俺は何度か見かけた。

 評判はかなりいい。だからこそ、女子の間では浮いているのかもしれない。

 男子の中にも彼女に話しかける者はいないから、本人してみれば、クラス中から避けられているのと変わりないのかもしれない。

 

 いずれにせよ、もともと友達のいない俺にはどうしようもないところだ。


「ジョーは?」


 ――ハカセは俺のことを"ジョー"と呼んだ。なぜかは知らない。いつからだったかも覚えていない。


 何か理由があった気がするが、大したことではないだろう。

 最初はどうにも間抜けなのでやめてほしいと思っていたが、今ではどうでもよくなった。


 馬鹿らしいあだ名だが、その名で呼ばれたところで俺が損をするわけでもない。

 名前なんてなんでもかまわない。なんなら数字でもいい。どうせ大した意味などないのだから。


「俺も知らない」


 正直に答えると、ハカセはふたたび溜め息をついた。こいつは一日に何度くらい溜め息をつくのだろう。


「お前ら、もうちょっと社交的になれよ」


「わたしはいつでも社交的なつもりですよ。誰でも話しかけてくださいって感じです」


 シラノはおどけて言ったが、誰も笑わなかった。ひとしきり空々しく笑った後、彼女は結局口を噤んだ。

 

 ハカセは社交的になってどうしろというんだろう。いまさらトンボのやり方をまねて上っ面の付き合いを広げてもどうにもならない。

 所詮、友人なんて必要不可欠なものではない。なくても困らないなら、手間を惜しんでも問題ない。


 もちろんいるに越したことはない。いてほしいときもあるだろう。

 けれど、何もしなくても時間は流れる。そうである以上、多くの問題はやり過ごすことができる類のものだ。

 

 俺がトンボと同じことをやろうとしても、すぐに飽きてしまうだろうと思う。

 それとも彼が言う噂というのは、その労力に見合うほどの価値を持つものなのだろうか?


「お前は知ってるか」


 ハカセはトンボに水を向けた。


「まあ、少しは。あれだろう、旧校舎の階段の、大きな鏡」


 トンボはすらすらと答える。彼の話し方は穏やかで落ち着いていた。その口調は、いつも俺の心を強く波立たせる。

 なぜなのかは分からない。俺はトンボに、理由はわからないが、奇妙な親近感を抱いていた。

 もちろん俺と彼との間に類縁性と呼べるものが少しもないことは自覚していたし、この親近感が単なる錯覚にすぎないだろうとも思ってはいた。

 それでもなぜか、俺はトンボに妙な興味を抱いていた。


 だからといって、彼が俺にとって特別な存在だという話にはならない。


 俺にとってトンボは、多くの人間と変わりなく単なる他人でしかなかった。

 そもそも俺は、彼という人間と長い時間一緒にいるのが苦手だった。


「それ」


 ハカセはトンボの答えに頷く。トンボは続けた。


「人が消えるって奴だ。鏡に呑まれて。神隠し」


「その通り」


 ハカセは満足そうに頷いた。


「そういう怪談がね、流行ってるわけ。学校で」


 俺とシラノに向けて言うと、ハカセはマジックを机に放り投げて両手をパンと鳴りあわせた。


「これさ、俺たちで調べてみない?」


 何か妙なことを言い出したぞ、と俺は思った。





 逢魔が時の旧校舎は「冥界」に繋がっている。そういう噂があるのだ。そのことを俺はよく知っていた。

 噂なんて聞いたこともないはずなのに、どうしてか、よく知っていた。


 厳密には、この「神隠し」は七不思議のひとつとして数えられる。


 空が茜色に染まった頃、旧校舎に忍び込み、校舎の東側の階段の踊り場に向かう。

 二階と三階の間の踊り場には、大きな鏡が貼られている。特筆するところのない、縦長でそっけない鏡だ。


 その鏡は旧校舎に迷い込んだ"こども"を、永遠に自分の中に閉じ込めてしまうのだという。


 そこは此処よりもおそろしく、ずっと寒々しく、ずっと暗く、ずっと重苦しい。

 ありとあらゆる悲しみと苦しみを、ごった煮にしたような世界なのだという。


 ただの噂話だ。





「七不思議の中でも、この"冥界の鏡"はかなり異質でさ」


 ハカセはさして面白そうでもなく話を続けた。


「他の怪談は、自殺した生徒の怨念だとか、死んだことに気付いていない音楽教師の未練だとか、そういう類の話なんだ。

 でも、この鏡の話に関しては違う。

 他のものは"現実に原因があって不思議が起こっている"タイプの話だけど、これは"なぜだかわからないが不思議なことが起こる"タイプの話なんだ。

 ひとつだけ異質なんだよ」


 俺は溜め息をついてハカセの言葉を遮った。


「あのさ、ハカセ。そんなことを大真面目に考えたところで、噂話はしょせん噂だよ」


「分かってる。でも、この話はかなり前からあるものなんだ。七不思議なんてほとんど風化していて、みんな忘れてた。

 でも最近……なんでかわからないけど、つい最近、また噂になりはじめた。この鏡の話だけ。

 興味が湧かないか? 何か原因がありそうな気がするんだ」


 知らねえよ、と俺は思った。そんなこと自分ひとりでやればいい。どうして他人を巻き込む必要がある?

 興味なんて湧かなかった。いや、それどころか、むしろ嫌悪感すらあった。

 

 どうしてそんな噂が流れたりするんだ? 


 俺は不愉快な気持ちを抑え込んで黙りこむ。何も言い返さずにいると、ハカセは他の人間の意見を確かめるように周囲に視線を巡らせる。


「なあ、調べてみないか。確かめるべきだと思うんだ。噂が本当なのか」


「どうして?」


 と今度はトンボが問う。ハカセは頭を振って、苦しげに顔を歪め、答える。


「わからない。でも、なんだかそういうことを考えていた。これは確かめるべき事柄なんだ」


 話にならない、と俺は思った。お前の事情なんて知ったことではない、と。だが、他の奴らは違ったらしい。


「わたしはかまいませんよ」


 と、まず後輩が頷いた。俺はなぜだか裏切られたような気分になった。


「どうせ暇ですしね」


 ハカセはほっとしたように溜め息をつき、他のふたりに視線を移した。

 

 トンボもまた、困ったように苦笑して、頷いた。


「いいよ」


 彼は後輩を見てにやりと笑った。


「どうせ暇だしね」


 シラノもまた、同じように笑う。


「暇ですからね」


 最後にハカセは俺の顔色をうかがった。俺の嫌いな表情だった。

 

「お前はどうする?」


 俺はどう答えようか迷った。調べたくなんかない。でも、それはたしかに必要なことだ。

(――必要なこと? どうして?)

 

 身体に奇妙な痺れのような感覚が広がっている。俺はそんなもの知りたくない。冥界がどうとか、本当にどうでもいい。

 嫌悪感すらある。もう新しいものなんて何ひとつ視界に入れたくない。

 けれど、それをしなければならないという気持ちは確かにあった。


 そのことを強く自覚するたびに、俺は絶対にそんなものに振り回されたくなくなった。


 自分でも妙に意固地になっていると気付きながら、首を横に振り、俺は立ち上がった。


「悪いけど、今日は気分が乗らない。俺抜きでも十分だろ。面白いことがわかったら教えてくれよ」


 立ち上がってパイプ椅子を畳み、壁に立てかけた。

 机の上に置いていた鞄を肩に掛けて、「もう帰るよ」と皆に声を掛ける。ハカセは少し気まずそうな表情をしていたが、仕方なさそうに頷いた。

 

 部室を出る直前、少しだけ後輩と目が合った。何を考えているのか、ちっともわからない表情だ。


 俺は思った。なあ、お前も俺も同じだよ、結局ここにいるしかないんだ。 

 特別なことなんて何も起こらない。何かしてもしなくても、変わらない。どうにもならないんだ。


 帰る途中、男子中学生の二人組とすれ違った。彼らは何かの話の途中だったらしく、すれ違うときにその会話が俺の耳に入り込んできた。

 片方が短く、


「知ってる?」


 と訊ねた。

 もうひとりは即座に、


「うん」


 と頷く。


 そのやりとりを聞いて、俺は無性に悲しくなった。涙が出そうなほどだった。なぜかは分からない。

 俺は知らないんだ、何もわからないんだと言ってやりたい気分だった。


 なぜなのか分からないことが多すぎる。

 いつからこんなことになったんだろう? どうしてこんなことになったんだろう?

 最初からこうだったわけじゃないはずなのに。


 でも、その問いの答えは、おそらく誰も知らない。忘れられたまま、打ち捨てられてしまったのだ。




 残暑は一向におさまる気配を見せない。

 残照のような九月の夕暮れが、永遠に続いていくような気がした。

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